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2012年 03月 08日

[ 2 ]  茶道「和・敬・清・寂」と キリシタン(つづき)

(3)「賓主互感」のなかの 和・敬・清・寂

狭い茶室の空間で賓主と亭主はきわめて短い間合いで対座し、立ち居振る舞いも一つ残らず見逃すことがありません。茶室の内外の音も、とりわけ賓主の衣ずれ、呼吸の音も聴き逃すことがないほど近い距離にあります。茶室におけるこの距離感は心理的にも親密なつながりを醸し出す、すぐれた空間です。

言い換えると、茶室は「和」の空間であると言うことができます。「一期一会」の心を込めた茶道の「ふるまい」は互いを理解し、知り合う喜びと親しさをいっそう深いものにします。茶室における招かれた賓客と招いた亭主は心と心の交流を深めるのです。賓主は謙虚な敬いの心をもって互いに相手を感じ合う貴重なとき「賓主互感」の時を持ちます。

「敬」は、謙虚に相手を敬うことです。茶の湯に招かれた賓客は亭主を忖度(そんたく)し(相手のことを考える)、亭主は賓客のことを忖度します。したがって賓主はお互いに感謝の心をもって楽しく時を過ごします。これを「一座建立」といいます。

相手のことを忖度し大事にすることは神の愛の対象である人を認めあい大切にすることです。キリシタン宣教師が、愛の訳語として使った言葉は「お大切」でした。茶道の「敬」は、キリスト教的愛(神への愛、隣人への愛、兄弟愛)に通じるものがあります。

「清」は、茶の湯が清らかな交わりを理想とすることを表わしています。その象徴的行為としてツクバイで口を漱ぎ手を洗って身を清めます。清らかな交わりは単純・純粋と脱俗と完全を求めます。それはさらに、茶室や作法の完璧性にまで突き進みます。またそれは、無心純粋な心と心の交わりを理想とする世界です。

「寂」は、茶道精神において最高のものとされています。閑寂な草庵の茶室は、書院の茶道の座敷に比べれば清貧・無所有の世界です。無所有は無一物。「無一物 無尽蔵」が草庵の茶室の理想とされています。草庵の閑寂は落ち着きのある場所で、心の交わりの聖なる空間です。

またそれは森羅万象・無尽蔵の広がりをもった世界です。声のないひっそりとした草庵は、余韻をいつまでも愉しむ「余情残心」の世界であり、清らかな精神の交流がいつまでも持続する無尽蔵の世界です。


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(4)茶道の精神とキリスト教的諸徳
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「和敬清寂」をはじめとする奥の深い茶の湯の心を表わす言葉とキリスト教の諸徳には不思議なほど共通するところが見受けられます。和敬清寂をとなえた村田珠光は応永29年(1422)の生まれですからキリスト教の影響を受けたわけではありません。ところが、一つ一つの言葉を比較すると、そこには不思議と相通じ、対応するメンタリティを読み取ることができます。

閑寂のうちに漂う「和」の精神性は、キリスト教的徳目の「柔和」(マタイ 5, 5)と「愛」(=マタイ 5,9)です。
「賓主互感」のうちに理解し知り合う喜びと親しさは、人と人の間における愛にほかなりません。

つづく「敬」は、柔和・謙遜(マタイ 11, 29)から出てくるキリスト教的美徳です。柔和と謙遜はとりわけイエスその人のメンタリティでした。

清らかな交わりである「清」は、心の清い人(マタイ 5, 8)、体と心の貞潔(マタイ 5, 29)に通じ、単純・純粋、無心の境地への深まりを大切にする心の世界です。

閑にして音のない世界「寂」は、俗塵を離れた閑寂な茶室の無限の世界をあらわす言葉です。聖書にしばしば次のような記述が見られます。「人々を去らせると、イエスは祈るために山へ退かれた」「弟子を連れて高い山に登られた」「群衆を見て、山にお登りになった」などですが、これらはイエスが静寂な山で沈黙のうちに祈ること、その祈りの場は内的にもっとも深く結びつけられていた父なる神とのもっとも親密な対話の場であり、弟子たちに最も大切な教え、あるいは神秘を示す場所であったのです。イエスの時代に人里はなれた閑寂なところは山であったのです。

以上のように、「和敬清寂」の精神は、意外にもキリスト教における心性(メンタリティ)と共通する側面をもつものであると考えることができます。

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賓主の互いを思いやる忖度の親切と感謝の雰囲気を「一座建立」といいますが、これは「何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい」(マタイ 7, 12)という黄金律の教えと全く同じ精神です。

心を込めた「ふるまい」の最高の心構えを表わす、「一期一会」は、その時そのときを最善に生きることを教えているマタイ 6, 36 の「だから、あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の労苦は、その日だけで十分である」という精神にきわめて近いと思われます。

草庵風の茶室における精神の交流の持続を大切にする「余情残心」は、ミサでの交わりの儀(聖体拝領)の恵みの持続を願う心と同じです。閉祭の儀の「ミサは終わりました。行きなさい主の平和のうちに!」「神に感謝!」は、交わりの儀の「余情残心」とも言うべきものです。

言葉ではありませんが、茶室への路地と「にじり口」も聖書の言葉に対応する意味をもっていることを付け加えておきます。「狭い門から入りなさい。滅びへの道は広く、そこに通じる道は広々としていて、そこから入る者は多い。しかし、いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つける者は少ない」(マタイ 7, 13-14)という「二つの門」の喩えには、驚くほど茶道のメンタリティに近いものがあります。

この他にも、茶道とキリシタンとの少なからぬ関連性や類似性は多いのですが、機会を見つけてまた調べてみたいと思います。

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by francesco1hen | 2012-03-08 19:23 | Comments(0)


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