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家田足穂のエキサイト・ブログ

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2012年 03月 29日

[ 5 ] 《完全なもの》とは何でしょうか? (つづき2)

(3)如来完全とは

阿弥陀仏は、サンスクリット語でアミターバ(無量光仏)・アミターユス(無量寿仏)と表わされています。無量光仏とは限りない光・大きさをもつもの、無量寿仏とは無限の寿命・永遠の命をもつもの意、つまり真理を悟り、空間と時間を超越している仏陀のことです。

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阿弥陀仏は仏陀の称号「如来」で呼称され、阿弥陀如来ともいわれています。
「如来」タターガタは、真理に悟入して真理のうちにあるもの〈如去〉と真理から来たもの〈如来〉という意味をもっています。一遍上人によれば、阿弥陀如来は「如如常住」(真理そのもので永遠不滅の仏である)といっています。

一遍は、この阿弥陀如来をさまざまな呼称で記しています。特に注目したいものは「如来万徳(阿弥陀如来は全ての善・全ての徳を持っておられる)」、「万徳の円明なる事(まどかにして明るい阿弥陀仏のあらゆる徳)」、「万善円満の仏(すべて善であり満ち足りて完全な仏)」、「来迎の阿弥陀如来は万善の法(真理)」などがあります。

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                  聖衆来迎図(高野山金剛峰寺)


万善万徳、万善円満の仏などは、如来の完全性を表わしている呼称です。円満は完全、欠けるとこのない状態で量的には全体を質的には最高を意味しています。阿弥陀仏は、広大無辺・永遠の命・万善円満・真理そのもの・不滅完全な存在です。「完全」は最高の意味において「如来」という称号のなかに含まれています。
つまり「如来完全」です。

現代の仏教者は、人が安心して生きられる処は、大いなる命・限りなき命に入り包み込まれる処、そこにこそ滅びることのない確かな「永遠の命」の歓びがある、と説いています。

大乗仏教では、もろもろの命の根源である永遠・無量の命のことを仏陀といい、その命を自分の命として生きる者もまた仏陀と呼んでいます。つまり、仏性(ぶっしょう・仏となる可能性)をもつ人間は、永遠の命の仏(無量寿仏)と「仏我一如」の真理のうちに万善円満・完全な存在として生きることが出来るのです。古代インドの『ウパニシャッド』の「梵我一如」とよく似ていますね。


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現代の美しい阿弥陀如来像


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阿弥陀如来座像 宇治・平等院鳳凰堂




(4)天の父が完全であるように!

マタイとルカによる福音書のなかで「敵を愛しなさい」というイエスの教えの箇所のおわりに、次のような言葉があります。
「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5, 48)
「あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となりなさい」(ルカ 6, 36)

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                バロック時代の三位一体を表現する天上壁画


完全な者、慈悲深い者になるためにはどんな道があるのでしょうか。それは、イエスの福音の一つ一つの言葉にしたがうことであると考えられます。いくつかの言葉をあげてみます。

「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは、・・・。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。・・・だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5, 44~48)。

「空の鳥、野のゆり」のたとえで有名な「摂理への信頼」の箇所の「『何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか』と思い煩ってはならない。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが皆、必要であることを知っておられる。まず神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう」(マタイ 6, 25~34)。

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             ローマ時代の三位一体の神・父と子とと聖霊をあらわす壁画


「裁いてはならない。そうすれば、あなたがたも裁かれないであろう」(マタイ 7, 1)。

「そのとき、ペトロはイエスに近寄って、『主よ、兄弟たちがわたしに対して罪を犯したならば、何回までゆるしたらよいのでしょうか。七回までですか。』と尋ねた。イエスは答えられた。『わたしはあなたにいう。七回どころか、七十倍までもと』。・・・・・わたしの天の父も、もしあなたたち一人一人が、自分の兄弟を心からゆるさないならば、あなたたちに同じようになさるであろう」(マタイ 18, 21. 35)。(赦すことの大切さ)

「だから、何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」(マタイ 7, 12)。(黄金律といわれています)

最後に最も大切なおきてについて
「一人の律法の専門家が、イエスを試みようとして『先生、どのおきてが律法のうちで、いちばん重要ですか』と尋ねた。イエスは答えて、

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
これがいちばん重要な、第一のおきてである。第二もこれに似ている。
 『隣人をあなた自身のように愛せよ』
すべての律法と預言者の教えはこの二つのおきてに基づいている、と仰せられた。」


* 隣人とは、せまい意味での社会的に最も近い関係にある人をいいますが、イエスがいう隣人は、その関係を人類全体に広げ、誰でも、たとえ敵であっても自分の助けを必要としている人を隣人としています。


現代世界に当てはめて考えれば、食料不足で飢餓に苦しんでいる人びと、経済的格差のなかで貧困に苦しんでいる人びと、衛生状態が悪くさまざまな疾病に悩まされている人びと、正義を蹂躙され過酷な立場に追いこまれている人びと、災害で肉親や家屋・財産を失った人びとなど援助を必要としている人々は、地球上の各地域に存在します。

このような人々のために、天の父が完全であるように完全な者、慈悲深い者とならなければならないと思います。

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            北イタリア・アルベンガ礼拝堂の三位一体のキリストと12使徒


なぜ、そうならなければならないのでしょうか? パウロは、ローマ人への手紙のなかで書いています。
「すべてのものは神から出て、神よって保たれ、神に向かっているのである」(11, 36)。

また、アウグスティヌスは『告白録』の冒頭で、神に向かって、
「あなたは私たちををご自身に向かうようにお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と語りかけていました。

振り返れば、イエスは最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で人びとのために天の父に祈りました。
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」

完全に「一つになる」とき、神の愛の充満のうちに「愛の完成」が行われます。それは神の栄光の輝き、「永遠の命」の大きな喜び。永遠の至福のなかに入ることなのです。

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                 ロマネスク時代の《栄光の主・キリスト》
                               

                          *


宇宙の根源ブラフマンと人間の魂アートマンとの同一(梵我一如)、最高完全な善のイデアへのエロースの憧れ、完全である大いなる命と仏性を持つ人間との一致(仏我一如)、天の父の完全を求め、神と「一つになる」愛の完成への希望など、完全なものと「一つになる」ことにおいて共通していることは、人間の魂の究極的な願いであると思わざるをえません。



                         ***

                        エピローグ


事物が激しいテンポで移り変わっていく現代世界にいるわたしたちは、無常観を受けとめる余裕もないまま押し流されています。変わらない確かな求める気持ちもないのが現実ではないでしょうか。

紀元1世紀の初めごろイエスが世界終末のことについて語ったとき、次のようなことばを残しています。
「そのとき、人々は人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗ってくるのを見るであろう。・・・・・ 天地は過ぎ去る。しかし、わたしのことばは過ぎ去ることはない」(マルコ 13, 26〜31)。
イエスの言葉の意味するところは何でしょうか! 答えはかんたんにに出てきませんが、考えてみたいと思います。


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書家の金澤翔子さんが [ 三陸復興 ] のすばらしいことばを岩手県のために揮毫しました。東北の復興は遅々として進んでいないようですが、人々は生きる希望のうちに、もとの生活に戻るための努力をしています。

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しかし、わたしたちは、一方でこの度の大震災によって非常に多くの生命が失われた事実を忘れていません。さまざまな年齢の人々が生命を失いましたが、魂は不滅で永遠の命を生きていると確信しています。大震災の難をまぬがれ「生きている」わたしたちは、今ここで「命の意味」を深く考える時ではないでしょうか?

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                    ジョット  天に昇るキリスト   


                 《 spes et gaudium ! 》(希望と喜び!)

by francesco1hen | 2012-03-29 11:48


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