人気ブログランキング | 話題のタグを見る

家田足穂のエキサイト・ブログ

france1pen.exblog.jp
ブログトップ
2017年 08月 02日

「迷える羊」と「見失った羊」 聖書の言葉シリーズ(3)            

九十九頭の羊を山に残して、迷いでた一頭の羊を捜しに行く羊飼いの話はよく知られています。これにちなんで、「一人の命の重さは、地球よりも重い」ということがよく言われます。
 
聖書の記述は、つぎのようです。

あなたたちはこれらの小さな者の一人をも、軽んじないように気を付けなさい。・・・・・
ある人が百頭の羊を飼っていて、そのうち一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭の羊を山に残し、迷った一頭の羊を捜しにいかないであろうか。そしてもし見つけたなら ー あなたたちによく言っておく ー その人は迷わなかった九十九頭の羊よりも、その一頭を喜ぶであろう。
このようにこれらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなたたちの父のみ旨ではない。
   
                             (マタイによる福音書18章10−14節)


 「一人でも滅びること」は、神の国に入れないこと。神の国とは「神との交わり」そのものです。交わりは、完全に一つになって、神と「いのち」を共にすることで、至福の状態に入っていることです。この最高の幸福に招くことが、神のみ旨(意志)です。


「迷える羊」と「見失った羊」 聖書の言葉シリーズ(3)            _b0221219_22051049.jpeg

同じような「見失った羊」の話は、ルカによる福音書の15章4−7節にでてきます。


ルカによる福音書の15章は「あわれみの福音書」といわれ、神のあわれみに関するたとえ話が三つでてきます。「見失った羊」と「なくした銀貨」と「放蕩息子」が、それです。

このたとえが話されたときの情況は、徴税人や罪人たちが、イエスの話を聞こうとして近寄ってきたので、パリサイ派の人々や律法学者たちが「この人は罪びとたちを迎えて、食事も一緒にしている」とつぶやいていたので、イエスが三つのたとえ話をしたのでした。この事情を知った上で、「見失った羊」のおわりの部分を読んでみたいと思います。


「・・・・。このように、悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、天においてはもっと大きな喜びがあるであろう」。


                             *


このたとえは、神から離れている者が神に立ち戻ることは、神の大きな喜びであることをよく示している言葉です。それほど神は一人ひとりの人間を大切にされているのです。この神のみ旨をイザヤ預言者は「神の目に人は尊い」(神は一人ひとりの人間を大事にしている)という言葉を使っています。


「迷える羊」と「見失った羊」 聖書の言葉シリーズ(3)            _b0221219_22060975.jpeg
            羊を肩にのせている善い羊飼いイエス(ロシア・イコン)



ルカによる福音書では、羊飼いが「見失った羊を見つけ出すと、喜んで自分の肩にのせて、家に帰り、友人や近所の人びとを呼び集めて、『いっしょに喜んでください。見失ったわたしの羊が見つかりましたから』と言うであろう」と書いてあります。


                             *


このたとえによって、神のあわれみは、罪ぶかい人やとるに足りない価値のない者にも注がれているのだと、イエスは告げているようです。



「迷える羊」と「見失った羊」 聖書の言葉シリーズ(3)            _b0221219_16184540.jpeg





by francesco1hen | 2017-08-02 10:23


<<  イエスの福音宣教の第一声  ...       イエスは「大飯食らいの大酒飲... >>