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2017年 12月 09日

アシジの聖フランチェスコの《 兄弟太陽の賛歌 》 ( Cantico di frate Sole )                   

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《 兄弟太陽の賛歌 》は、『被造物の賛歌 』( Laude delle Creatore ) と書かれることもあります。ふつう、文書はラテン語で書かれていました。したがって、この《 兄弟太陽の賛歌 》という詩は、イタリア中部ウンブリア語で書かれています。したがって、《 兄弟太陽の賛歌 》は、トスカーナ語で書かれたダンテの『 神曲 』がイタリア国民文学といわれているより先の「最初のイタリア文学」です。


 

                         *



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              「聖痕」を受けるフランチェスコ  ジョット画 



 1224年9月14日ごろラヴェルナ山で、十字架上のキリストの五つの傷「聖痕」を受けた後も、聖痕から流れ出る血をひた隠しにして、苦しみに耐え忍びながらも、フランチェスコはロバに乗ってウンブリア地方で福音の説教を続けました。

 
 1225年5月ごろ、長年の苦労でほとんど視力を失った目の手術のためリエティに赴く途中、サンダミアーノに「貧しき婦人たち」の修道院長キアーラを訪問しました。

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      サン・ダミアーノの修道院(アシジ)


 目の病は悪化し、庭の掘建て小屋に身を横たえななければならなくなりました。
病臥の体に野ネズミは駆け上がり、虫に悩まされながらもフランチェスコはこの時、
『 兄弟太陽の賛歌 』を作りました。


 兄弟たちの分裂という精神的苦悩と肉体的靴に悩まされている時でも、フランチェスコは、被造物が全体こぞって創造主である神に賛美を捧げる詩を作り、歓びのうちに歌うことができたのでした。



            
          《 兄弟太陽の賛歌 》(被造物の賛歌)


 高くましまし、いつくしみ深い全能の主よ。
 あなたの賛美と栄光と名誉、そしてすべての祝福があります。
 あなたはそれにふさわしいからです。
 あなたのみ名を呼ぶにふさわしいものは、この世にひとりもおりません。


 賛美を受けてください、私の主よ。
 あなたがお造りになったすべてのもの賛美を受けてください。
 とくに私の兄弟、太陽の賛美を受けてください。
 太陽は昼を来させ、その昼の間、あなたは私たちのために光を注いでくださいます。
 太陽は美しい、大きな輝き。

 高くましますあなたのお姿は、太陽の中にうかがうことができます。


 賛美を受けてください、私の主よ。私の姉妹、月と星の賛美を。
 あなたは空の中に、月と星を明るく美しくお造りになりました。

 
 賛美を受けてください、私の主よ。私の兄弟、風の賛美を。
 大気と雲と晴れた空の賛美を。
 これらの兄弟もとに、あなたはすべての生者を養ってくださいます。


 賛美を受けてください、私の主よ。私の姉妹、水の賛美を。
 水は役立ち、つつましく清らかです。


 賛美を受けてください、私の主よ。私の兄弟、火の賛美を。
 火を使ってあなたは夜を照らしてくださいます。
 火は美しく楽しく、勢いよく力強いものです。


 賛美を受けてください、私の主よ。
 私の姉妹、母親だ大地の賛美を。
 大地は私たちを育て、支え、たくさんのだものを実らせ、
 きれいな花と草を萌え出させます。



 賛美を受けてください、私の主よ。
 あなたへの愛ゆえにゆるし、病と苦しみに耐え忍ぶ者のために。
 しずかに平和をまもる者はしあわせです。
 いと高くまします主よ、そのひとたちは、あなたから、栄冠を受けるからです。



 賛美を受けてください、私の主よ。
 私たちの姉妹、肉体の死 * の賛美を。


 生きるものはすべてこの姉妹の手から逃れられない。
 大罪を背負って死ぬものは不幸ですが、
 あなたの聖なる御旨を行ないながら死ぬものは幸いです。
 第二の死 * * にそこなわれることはもうありません。

 
 賛美しよう、歌をささげよう。
 感謝の歌をささげ、深くへりくだって、主に仕えよう。

               
                [ 小川国夫訳 ] ゆるしと平和の節、筆者補訳。



* 「肉体の死」とは、自我からの脱却を完成してくれるもの、キリストのもとへと自分を運んでくれる、善き伴侶である。

* *「第二の死」とは地獄に堕ちること。


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    アシジの聖フランチェスコ    シモーネ・マルティーニ画


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        聖キアーラ(クララ)修道院長    シモーネ・マルティー二画 


 シモーネ・マルティーニが描いたこの絵は、日本の仏画に似た気配が感じられます。



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            天使と聖フランチェスコ


           最もよく似ていると言われている聖フランチェスコの肖像 
           (ジョットの師であったチマブーエ画)





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# by francesco1hen | 2017-12-09 18:06
2017年 12月 08日

 アシジの聖フランチェスコの《 小鳥への説教 》

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   小鳥に説教するフランチェスコ         アシジの大聖堂下堂の壁画



チェラーノのトマスによる『 聖フランチェスコの第一伝記 』に出ている〈 小鳥への説教 〉は日本でもよく知られ、それゆえに聖フランチェスコは親しまれています。


その『第一伝記』のなかで〈 小鳥ヘの説教 〉は、つぎのように記述されています。


 兄弟たちの数を増やしながら、師父フランチェスコは、スポレート盆地を横切っていた。ベヴァーニアに近いある場所にさしかかると、そこにおびただしい数のいろいろな種類の鳥たち、鳩、みやまがらす、そして、ウソと呼ばれる鳥たちが集まっていた。

 下等な分別のない動物たちにも慈愛と愛情を抱くほどに情熱に満ちていたこの神の僕フランチェスコは、それを見て、連れの者たちを道に残したまま、急いで鳥たちのところに走っていった。

 そして、近づきながら、鳥たちが彼を待っているのを見て、彼の習慣どおりに鳥たちに挨拶を送った。しかし、驚いたこに、鳥たちは飛び立って逃げようとはしなかった。喜んだ彼は、謙虚に神のみ言葉を聞いてくれるように鳥たちに頼んだ。フランチェスコが話したのは、つぎのような言葉であった。

 「わたしの兄弟である鳥たちよ。お前たちは、お前たちをお造りになった神を大いに讃え、つねに愛さなければなりません。というわけは、この方(神)は、お前たちの身を覆うための羽毛を、飛ぶための羽根を、そして、お前たちに必要なすべてのものを与えられるからです。

 神は他の動物たちのなかでも気高くお前たちを造り、きれいな空気のなかに住むことをお許しになったからです。

 お前たちは種を蒔くことも、刈り入れをすることもない、それにもかかわらず、神は自らお前たちが何も心配もないように見守ってくださっているのです」。

 
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 この師父フランチェスコの言葉に、鳥たちは彼らの性に従って、首を伸ばしたり、翼を広げたり、嘴を開けたり、彼を見つめたりして、ありありと歓喜のしるしを示した。そして彼は鳥たちの間を行ったり来たりして、彼の衣服で、鳥たちの頭や体にそっと触れた。最後に鳥たちを祝福し、十字を切って、鳥たちに飛び去る許可を与えた。

 それから、この師父フランチェスコは、連れ者たちと歩き始め、あらゆる被造物からのつつましい賛美によって崇められる神に感謝し、賛美の祈りを捧げた。



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    小鳥たちに呼びかけて「説教」をするフランチェスコ   ジョット画




      


  
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             べヴァーニアで小鳥たちに説教した聖フランチェスコ















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# by francesco1hen | 2017-12-08 22:25 | Comments(0)
2017年 12月 07日

アシジの聖フランチェスコの生き方                  ー 聖書のことばを文字通りに生きる ー



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        ローマ近郊 スビアコの洞窟に描かれた若いフランチェスコ     



San Francesco d' Assisi (1181/82ー1226) は、13世紀イタリアでのフランシスコ修道会の創立者です。現代では「環境保護の聖人」(1979)とされています。  


柔和・謙遜のイエスの「受肉の謙遜」と「十字架の受難の愛」に、心を打たれた彼は、何よりも貧しいイエスに倣う生活を目指しました。「清貧の聖人」といわれた彼の生き方の特徴はつぎの通りです。                             
 ① 清貧の生活を徹底的に守る。       
 ② 完全な自己放棄に生きる。        
③ 神に絶対的に信頼する。        
            ④ 自然界の兄弟姉妹とともに神に感謝と賛美をささげる             ⑤ つねに人々に柔和と謙遜で接する、などです。    

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アシジの大聖堂にあるフランチェスコの衣服継ぎ当ては彼の手で丁寧行なわれ、彼は几帳面な性質であったと想像されています。                    




アシジのフランチェスコの生涯には、いくつかの転機がありました。


彼は豪商の息子として小遣いを気前よく使い、友達から「遊びの王様」としてもてはやされ、遊楽の毎日を送っていました。                    

騎士になることに憧れていた彼は、ペルージアとの都市戦争で捕虜となりました。(1202)                                    
捕虜から解放された後は、「遊楽の生活」にも喜びを感じなくなり、遊楽の生活は終わりました。                                

そんな時、不思議なことに今まで忌み嫌っていた「癩者への接吻」を経験しました。(1204)                                  


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病人を訪れて介抱するフランチェスコ        


彼に従う兄弟たちに、とくにハンセン氏病の患者を「キリストの兄弟」と呼ばせ、世話をすることに熱心でした。                                     




ある日、サン・ダミアーノ修道院の「十字架の声」ー 壊れかけているわたしの家をなおしなさい ー を聞いて、フランチェスコは、アシジの街の「聖堂の修復」にのり出しました。(1206-1208)                         



フランチェスコの生涯の重要な転機は、五つの壁画がよく示しています。



 ① 《 財産放棄 》(1206) 司教館広場で、肉身と受けるべき財産を捨てることを宣言します。この年を「回心 (conversio) の年」 としています。        
 

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 2年後、ポルティウンクラの聖堂で「決定的回心」をして、福音宣教を決意します。(1208)                                     


 ②  《 教皇イノケンティウス3世の夢 》と《修道会則の認可と説教活動の承認 》 この認可と承認を得て、フランチェスコの兄弟会の福音宣教活動は展開されていくことになります。                             


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《イノケンティウス3世の夢》    ジョット画  

教皇はフランチェスコに会う前日夢を見ました。傾いているラテラノ聖堂を修道士がこれを支えている夢でした。教会の現状を象徴している夢でした。        
   

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《 教皇イノケンティウス3世、フランチェスコに会う 》 ジョット画



 ③ 《 小鳥への説教 》(1214) この後の 1219 年の「むしろの総集会」で兄弟(会員)たちの数は5,000人になりました。                   


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《 小鳥への説教 》(アシジ大聖堂)       ジョット画

 

 ④ ラヴェルナ山で《 十字架上でのキリストの五つの傷 ー 聖痕を受ける 》(1224) 「聖痕」は、キリストの倣ったフランチェスコの「キリストとの同化」のしるしです。この翌年、『兄弟太陽の賛歌(被造物の賛歌)』が作られます。(1225)  


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キリストの「五つの傷」を受けるフランチェスコ   ジョット画




⑤ 《 聖フランチェスコの死 》(1226)  遺言によって地上に横たえられたフランチェスコを見た人々は、これは「ウンブリアのキリスト」だ、と言いました。後年人々は、フランチェスコのことを「第二のキリスト」と呼びました。        

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フランチェスコの死      アシジ大聖堂の下堂の壁画(作者不詳)




[ フランチェスコの生き方の根拠 ] (聖書の言葉どおりに生きる)        

(a) ポルティウンクラの聖堂での「決定的な回心」(conversio) (1208)   
この聖堂でミサのときに朗読された聖書のことばを聴いたときの回心。      

マタイ福音書 10章 7-13 節のことばが、フランチェスコの使命を決定したと言われています。その骨子はつぎの3点。                     

 ① 「神の国」の福音宣教をすること。             
 ② キリストに倣う「清貧」に徹すること。           
③ 出あう人々に「平和の挨拶」を贈ること。         

(b)『原始会則』のもとになった聖書の3カ所のことば。           

    ① マタイ福音書19章 21節(財産放棄)「もし完全になりたいなら、あ      なたの持ち物を売り、・・・・・ わたしについて来なさい」。          
    ② ルカ福音書9章 3節(清貧)「旅のために何も携えてはならない。杖も     袋もパンも金も持ってはならない」。                     
    ③ マタイ福音書16章 24節(自己放棄)「わたしに従いたい者は、自分     を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい」。            



このような生き方によってフランチェスコは、物質的な貧しさと内的な富をも捨てた後も、自己放棄における神への絶対的信頼によって、最後までキリストの「受難の愛」に従い、ラヴェルナ山で「聖痕」(Stigma)を受けるまでにキリストの同化したのでした。そのフランチェスコは、人々に「第二のキリスト」といわれるようになりました。                                   


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地上に横たえられたフランチェスコの姿   アシジの大聖堂の下堂の壁画






死の2年後、異例のこととして彼は、「アシジの聖フランチェスコ」と称えられました。教皇によって「聖人」とされたのです。                                      



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「福音の言葉」を文字どおりに生きたフランチェスコ 








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# by francesco1hen | 2017-12-07 13:36 | Comments(0)
2017年 12月 05日

13/4世紀イタリアが生んだ三人の人物

三人の人物とは、清貧の聖人アシジのフランチェスコと詩人アリギエーリ・ダンテ、そして画家・建築家ボンドーネ・ジョットがその三人です。



アシジの聖フランチェスコ(1181/2ー1226)は、新しい修道会をつくり、その優れた霊性によってキリスト教ヨーロッパに新しい時代を開きました。

                       
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              アシジの聖フランチェスコ  チマブーエ画

              実像に最もよく似た肖像と言われています。





アリギエーリ・ダンテ (1265-1321)は、イタリア文学の金字塔『神曲(Divina Commedia))』のなかで、聖フランチェスコの聖性を称えています。


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          バルジェロ宮殿礼拝堂に描かれた ダンテの肖像  ジョット画




ボンドーネ・ジョット(c.1266ー1337)は、14世紀イタリア・ルネサンス初期の新しい時代の画家・建築家として活躍しました。そして、《聖フランチェスコの生涯》や《キリストの生涯》などの壁画を多くの教会に残しています。彼は後世「キリストに最も近づいた画家」といわれています。

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           ジョットの肖像      パオロ・ヴッチェロ画




この三人の人物は、強いきずなで結ばれています。ダンテは聖フランチェスコから深いインスピレーションを受けて『神曲』で何か所かで聖人を讃えています。彼の友人であったジョットのためには、煉獄編第十一歌で「チマブーエは画壇の不朽の地位を保とうとした。今やジョットが登場し人気を博するようになると、チマブーエの名声はかすんでしまった」とジョットを歌いました。

ジョットが聖フランチェスコの生き方に感銘して、その『聖人伝』を描いたことはすでに述べました。ダンテから称讃されていたジョットは、バルジェロ宮殿礼拝堂に《ダンテの美しい肖像画》を残してダンテを讃えました。同世代の二人は、互いに深い友情で結ばれ、しかもこの二人は、聖フランチェスコから多くの霊感を受けたのでした。



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          つぎのブログでは、アシジの聖フランチェスコについて紹介します。







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# by francesco1hen | 2017-12-05 22:16 | Comments(0)
2017年 11月 08日

ハイドンの弦楽四重奏《 十字架上におけるキリストの最後の七つの言葉 》

古典派音楽の巨匠ヨーゼフ・ハイドン(1732ー1809)は、「近代器楽の父」と呼ばれ、交響楽を始め多くの器楽曲をのこしています。そして彼は、Die sieben lezten Worte unseres Eelöser am Kreuze op.51 という弦楽四重奏を作曲しています。この作品についてハイドン自身が「これは私の傑作中の傑作である」と自負するほどのきわめて強い愛着をもった作品でした。この作品は、モザイク・クァルテットの優れた演奏で聴くことができますが、ここでは聴いて頂けないのは残念なことです。

ところで、「十字架上におけるキリストの七つの言葉」とはどんなものでしょうか。エル・グレコとバロックの三巨匠、ルーベンス、ヴェラスケス、レンブラントの絵画と聖書の言葉で、「キリストの最後の七つの言葉」を紹介します。


                           *


 ハイドンの《 弦楽四重奏 》

〈序奏〉  マエスト—ソ・エド・アダージョ (荘重な、そして ゆるやかに)ニ長調 で始まります。



                           *


〈第1曲〉 ラールゴ (ゆっくりと遅く) 変ロ長調

  第一の言葉「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分らが何をしているのか、わからないのです」
                                               (ルカ 23・34)

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        エル・グレコ  《イエス 十字架に付けられる》               


「されこうべ」と呼ばれている所に着くと、そこで人びとはイエスを十字架に付けた。俣、犯罪人も、その一人を右に、一人を左に、十字架に付けた。そのとき、イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分らが何をしているのかわからないのです」と仰せになった。人々はくじを引いてイエスの衣を分けあった。            (ルカ 23・33−34)                                              

   *



〈第2曲〉 グラーベ・エ・カンタービレ(ゆっくりと遅く) ヘ短調                    

第二の言葉 「あなたによく言っておく。きょう、あなたはわたしとともに楽園にいるであろう」
                                          (ルカ 23・43)

     
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            ルーベンス 《 ゴルゴタの丘の三つの十字架 》


十字架に付けられた犯罪人の一人が、冒涜の言葉をはいて、「おまえはメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ」と言った。すると、もう一人の犯罪人がこれをたしなめて、「おまえは同じ刑罰を受けていながら、まだ神を恐れないのか。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、このかたは何も悪いことをなさっていないのだ」と言い、「イエス様、あなたが王権をもって来られるときには、どうかわたしを思い出してください」と言った。イエスは、「あなたによく言っておく。きょう、あなたはわたしとともに楽園にいるであろう」と仰せになった。      (ルカ 23・39−43)


                          *


〈第3曲〉 グラーベ(荘重な) ホ長調

  第三の言葉 「婦人よ、これはあなたの子です」「この方は、あなたのお母さんです」                                          
       
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    エル・グレコ 《 十字架の下に立つ聖母と使徒ヨハネ 》       


イエスは、母とそのそばに立っている愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、これはあなたの子です」と仰せになった。それから弟子には、「この方はあなたの母です」と仰せになった。そのときから、この弟子イエスの母を自分の家に引き取った。                                            (ヨハネ 19・26−27)





〈第4曲〉 ラールゴ(ゆっくりと遅く) ヘ短調                           

 第四の言葉 「 エリ、エリ、レマ、サバクタニ 」                        
       「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか?」 


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エル・グレコ 《 キリストの磔刑 》              
                         
       

 正午から、闇が全地を覆い、三時まで続いた。三時ごろに、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられるのですか」という意味である。                                                     (マタイ 27・45−46)





〈第5曲〉アダージョ(ゆるやかに) イ長調                          

 第五の言葉 「のどが渇く」             *文語文の「われ渇く」という訳も有名。


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          レンブラント  《われ渇く》                            


 その後、イエスは、もはやすべてが成し遂げられたことを知り、「のどが渇く」* と言われた。こうして聖書の言葉は成就した。                                        (ヨハネ 19・28)
                   
* 詩編 22,16 口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。





〈第6曲〉 レント(遅い) ト短調                               
                       
第六の言葉 「成し遂げられた」                             

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ヴェラスケス 《十字架上のキリストの死》          
                     


 そこには、酸っぱいぶどう酒のいっぱい入ったった器が置いてあった。兵士たちは、このぶどう酒をたっぷり含ませた海面をヒソプに付けて、イエスの口もとに差し出した。イエスは酸っぱいぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言って、頭を垂れ、霊をお渡しになった。* (息を引き取られた、の意)
                                       (ヨハネ 19・29−30)

                          *


〈第7曲〉 ラールゴ(ゆったりと) 変ホ長調

  第七の言葉 「父よ、わたくしの霊をみ手に委ねます」


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            ルーベンス  《十字架からのキリストの降下》


 時はすでに正午ごろであったが、太陽は光を失い、全地が暗闇に覆われて、三時まで続いた。聖所の垂れ幕はまん中から二つに裂けた。その時、イエスは声高く叫んで、「父よ、わたくしの霊をみ手に委ねます」と仰せになった。こう言って、息を引き取られた。                                        (ルカ 23・45−46)


                          *



〈地震〉終曲 プレスト エ コン・トゥッタ・ラ・フォルツア(非常に速く、そして全力で) ハ短調

 終曲では、それまでの穏やかな曲想が一変して、テンポはプレストとなり、さまざまな音型が、聖所の垂れ幕が裂け、大地が震えるようすを表現します。 

「地震が起きる」

 そのとき突然、聖所の垂れ幕が、上から下まで真っ二つに裂け、地が震い、岩が裂け、墓が開いた。眠っていた多くの聖なる人々の体は起き上がり、イエスの復活後、墓から出て、聖なる都に入り、多くの人たちに現れた。百人隊長、および、いっしょにイエスを見張りしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことにこの人は神の子であった」と言った。                                            (マタイ 27・51)



                      *  *  *



                 [ モザイク・クァルッテ ] の演奏者

 エーリッヒ・ヘルバート(第1ヴァイオリン)  アンドレア・ビショップ(第2ヴァイオリン)
 アニタ・ミッテラー  (ヴィオラ)      クリストフ・コワン  (チェロ)



プレミアム  [ 数象徴法 ]

七つの言葉の7は、「神の恵み」を象徴する数です。 3+4は、7です。

3は、「三位一体の神」を表わす象徴数です。神によって創造された世界と人間は、4という象徴数で表わされます。
神から世界や人に与えられるものは、7「恵み」です。



                          
                         *






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# by francesco1hen | 2017-11-08 18:17 | Comments(0)
2017年 10月 10日

箱根仙石原(すすき)の風景

箱根仙石原の〈すすき〉は素晴らしい・・・ 。 その一語に尽きますね!


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清々しい空気とやさしい薄原にいやされて堪能し、満足して帰路についています。 (^_~)//。



                       *


                詩編139 のことば(旧約聖書より)



          詩編 139 「常に人とともにいる神」


   神よ、あなたはわたしを心にかけ、 わたしの すべてを知っておられる。

   わたしが座るのも、立つのも知り、 遠くから わたしの思いを見通される。

  
   歩むときも、休むときも見守り、  わたしの行いを すべて知っておられる。

   くちびるに言葉が のぼる前に、  神よ、あなたはすべてのことを知っておられる。

  
   後ろからも、前からも、 あなたの手は わたしを守る。

   わたしを包む あなたの英知は 神秘に満ち、 あまりに深く、及びもつかない。


   あなたはわたしのからだを造り、 母の胎内で わたしを形造られた。

   わたしを造られた あなたのわざは不思議。 わたしは心から その偉大なわざを讃える。


   神よ、あなたの思いは きわめがたく、 そのすべてを知ることはできない。

   あなたのはからいは限りなく、 生涯、わたしは その中に生きる。




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# by francesco1hen | 2017-10-10 11:40 | Comments(0)
2017年 09月 24日

ジョットによる「キリストの生涯とその福音の約束」(3)

[ 聖霊降臨から世の終り「最後の審判」まで ]

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        「聖霊降臨」(使徒たちの福音宣教が始まる = キリストの教会の成立)
        


 キリストが復活して後40日の間、イエスはしばしば弟子たちのところに現れていました。弟子たちとともに食事をしていた時、イエスは聖霊を送ることを集まっていた者に告げています。

「聖霊があなた方に降るとき、あなた方は力を受けて、エルサレムと全ユダヤとサマリア、および地の果てまで、わたしの証人となるであろう」と。 

 聖霊降臨は、ルカ福音記者によって書かれた『使徒行録』(2章1-13節)に、つぎのように記されています。

 五旬祭の日(キリストの復活から50日目)が来て、使徒たちが一つの所に集まっていた。そのとき突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家じゅうに響き渡り、炎のような舌が現れ、分れておのおのの上にとどまった。すると、みんなは聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、さまざまな他国の言葉で語り始めた。

 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国から来た敬虔なユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の者が集まって来た。その人々は、それぞれ自分の国の言葉で使徒たちが話すのを聞いて、あきれてしまった。そして驚き怪しんで、「・・・あらゆる国から来ている人が、わたしたちはそれぞれわたしたちの国の言葉で、あの人たちが神の偉大な業を語るのを聞こうとは!」と言った。人々は驚き、惑い、互いに、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。

                          
                             *


 人々の驚きが、活き活きと書かれています。キリストの教会は、この時から世界の地の果てまでイエスの福音を宣ベ伝えていきました。「キリストの教会の時代」が始まります。


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                  〈エル・グレコの聖霊降臨〉



                             *



キリスト教の歴史観では、人類の歴史は三つの時代として考えられています。

(1)「旧約時代」(天地創造からキリスト降誕まで)
(2)「新約時代」(キリスト降誕からキリストの昇天まで)
(3)「教会の時代」(聖霊降臨から世界の終末まで)   

これを別の言葉でいうと次のようになります。

(1)「創造と救い」(旧約時代と新約時代)(神に似せられて造られた人間の罪からの解放)
(2)「救いの継続」(教会の時代から世界の終末まで)(十字架の救いが教会によって続けられる)
(3)「救いの完成」(終末のキリストの再臨・最後の審判)(人の体の復活と永遠の命・愛の完成)



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                 キリストの再臨・最後の審判

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             神の国に招かれた人々と墓から復活する人々

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                 神から離れ・魂が失われた者たち

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                 終末のとき再臨して審判を行なうキリスト


                            ***



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                     天空に描かれた聖母子



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[ イエスの福音の約束 ]

 天地万物の創造に際して、人は神に似せられて造られました。「神に似せられて」ということは、人は神の本性に与ることができる存在であることを示しています。

 ところが、人祖アダムとエヴァが罪を犯して神から離れてしまったことにより、人間は神による「救い」が必要な存在となりました。この救いのために、メシア(救い主=キリスト)が、この世に人となって生まれイエスという名で福音を宣べ伝えることになりました。

 父である神が、メシア・イエスをこの世に送った理由について、「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。・・・・・ 神がおん子をこの世にお遣わしになったのは、この世が救われるようになるためである」(ヨハネによる福音書 3・16-17)、と語っています。

 さらに、「じつに、わたしの父にご意志とは、子(イエス)を見て信じる人が皆、永遠の命を持ち、わたしが、その人を終りの日に復活させることである」と語りました。さらに、最後の晩餐の夜には、「わたしの父の家(=神の国)には、住む所がたくさんある。そうでなければ、あなたたちのために、場所を準備しに行くと言ったであろうか。 行って場所を準備したら、戻って来て、あなたたちをわたしにもとに連れて行こう。わたしのいるところに、あなたたちもいるようになるためである」と、約束しました。

 そして、その後で、窮極の約束をあきらかにしました。「わたしが父に内におり、あなたたちがわたしの内におり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日、あなたたちは悟であろう」と。これは神の国に入ったときにはっきりと分る、神と人々が「完全に一つ」になるということです。

 このことは、キリストの昇天の最後の言葉、「あなたたちは、行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。そして、父と子と聖霊にみ名に入れる洗礼を授けなさい」と命じた言葉のなかでも知ることができます。

 名前というものは、名前をもっているものそのものを表わします。「み名に入れる」ということは、洗礼によって、キリストを信じる者となったすべての人々は、父と子と聖霊の三位一体の神の「いのち」に入る資格を得ることです。

 神が独り子をこの世に送られたれたのは、「独り子(キリスト)を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るため」でした。しかも、その人びとを終りに日に復活させる、というキリストの約束がありました。

 使徒パウロが言っているように、終りに日には、「顔の覆いを取り除かれて、わたしたちは皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら、主の霊によって栄光から栄光へと、(復活の)主と同じ姿をもった者に変えられていくのです」。

 このことは、神の栄光の中に入れられて行くひとびとの喜びの姿です。



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  『ヨハネの黙示録』21章は、神の国をつぎのように記しています。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と先の地とは消え去り、もはや海もない。
わたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、神のみ元から出て天から下ってくるのを見た。

都は神の栄光に包まれていた。その輝きは、最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。この都には大きな城壁があり、十二の門があった。・・・ 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。・・・ この都の中に神殿は見えなかった。万物の支配者で神である主と小羊とが、都の神殿だからである。

この都には、それを照らす太陽も月も必要がない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光に照らされて歩み、地上の王たちは自分らの栄光を携えて都に来る。都の門は終日閉ざされることがない。そこには夜がないからである。


                             *


ヨハネの黙示録は、このように神の国を描写していますが、このような人間が想像する視覚的な素晴らしさを超えて、神の国はこの世のでは経験できない、想像をはるかに超えた神の栄光の輝きのなかにある至福の喜びに満ちた神秘的な世界であろうと思われます。


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# by francesco1hen | 2017-09-24 22:25 | Comments(0)
2017年 09月 19日

ジョットによる「キリストの生涯とその福音の約束」(2)

[ イエスの洗礼からキリストに昇天まで ]

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       キリスト・イエスが、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受ける。


この時からのことを、最も早い時期に書かれたマルコによる福音書は、つぎのように記しています。


イエスが水の中からあがると、天が開け、「霊」が鳩のように自分の上に降ってくるのをごらんになった。そして、天から声がした。「あなたはわが愛する子、わが心にかなう者である」。         
「霊」はイエスをすぐに荒れ野に追いやった。イエスは四十日の間そこに留まり、サタンに試みられ、野獣の住む所におられたが、天使たちがイエスに仕えていた。                    

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。                         

 ここにイエスの福音宣教の第一声が発せられました。「悔い改めて」は、世俗的な富に気を奪われていないで、もっとも価値のある神の国に入ることを大切にしなさい、ということです。          


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        カナの婚礼の席で、イエスが最初の奇跡を行なう。(水が良いぶどう酒に変わる)

このあとで、イエスはさまざまな病人を癒したり、人々に福音を宣ベ伝えていく日々を過ごします。


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         ラザロの復活

 エルサレムの近くのベタニアに、ラザロとその姉妹マルタとマリアがいました。イエスはこの家によく立ち寄り、ラザロはイエスの親友でした。イエスがいない時ラザロは病気で死に、すでに埋葬されていました。マルタの訴えで、イエスは墓の前まで行き、ラザロを復活させました。ラザロは人間のうちで最初に復活したので、このことは、人々の「希望」となりました。



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         イエスのエルサレムへの入城

イエスの福音を伝える仕事もいよいよ最終的段階を迎えます。この週にはイエスの受難が始まります。

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            エルサレムの神殿で、イエスは商人たちを追い出す。(上)
            下は、聖霊降臨の場面です。

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    最後の晩餐の前に十二使徒の一人ユダはイエスを裏切り、大祭司のところに行きました。

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         ユダの後ろには、不気味な悪魔の姿が見えます。 二人の表情に注目。

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         最後の晩餐(愛の晩餐)

この夜、イエスは、おおくの時間をさき、愛について徹底的に話しました。それで「愛の晩餐」と呼ばれます。なかでも「新しい掟」を与えたことは大事なことでした。

「新しい掟」とは、「わたしがあなたたちを愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」とイエスは命じました。

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          晩餐の時、弟子の足を洗うイエス

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足を洗う意味はつぎのことを理解されるためでした。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」。(マタイ 20・28)


また、晩餐の夜イエスは、イエスを愛る人にたして約束をしました。

その窮極の約束は、「わたしが父のうちにおり、あなたたちがわたしのうちにおり、そして、わたしがあなたたちのうちにいることを、その日、あなたたちは悟であろう」という言葉でした。

「その日」というのは、神の国に入ったときのことです。神の国に入るということは、この言葉からわかるように、神である父と子と人が、「完全に一つ」になっていることです。


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         ゲッセマネの園の祈りの後の、「イエスの逮捕」

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        ユダが「ラビ(先生)平安を!」と接吻するのを合図に、逮捕が行なわれました。
        迫真的な場面です。ジョットの傑作中の最高傑作です。キリストに最も近づいた画家
        といわれるのはこのような描写をしたからでしょうか。

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          イエス、大祭司から尋問を受ける

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          イエス茨の冠をかぶせられ、人々から侮辱を受ける

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             イエス十字架を担う、ゴルゴタへの道を歩む

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      イエス、十字架に付けられる 母とヨハネが立ち、マグダラのマリアが跪いている
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         イエス十字架から降ろされる(十字架降下)

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          聖母マリアの悲しみ(ピエタ)・(十字架降下)

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      「キリストの復活」 「ノリ・メ・タンゲレ」(わたしに縋り付くのはよしなさい)



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           復活の40日後、オリベト山からの「キリストの昇天」


昇天するとき遺した最後の言葉は、「あなたたちは行って、すべての国々の人々を弟子にしなさい。ー 父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を彼らの授け、わたしがあなたたちに命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたたちと共にいる」でした。

「インマヌエル」(神は共にいます)と預言されたイエスは、地上から去っても「世の終りまで、いつも共にいる」と約束したのでした。




                          *





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# by francesco1hen | 2017-09-19 22:45 | Comments(0)
2017年 09月 18日

ジョットによる「キリストの生涯とその福音の約束」(1)


《 三人の偉大なイタリア人 》

13・14世紀のイタリアは、3人の偉大な人物を生みだしました。それは、清貧の聖人アシジのフランチェスコ と 詩人ダンテ と 画家・建築家のジョットです。

聖フランチェスコは、二人に大きな影響を与えました。ダンテは、その『神曲』の中で聖フランチェスコをしばしば讃えています。ジョットは、いくつかの《聖フランチェスコ伝》を残しています。また、ダンテは、友人ジョットのために、その錬獄編第十一歌で「チマブーエは画壇の不朽の地位を保とうとした。今やジョットが登場して人気を博するようになると、チマブーエの名声はかすんでしまった」と歌っています。そして、ジョットは、美しいダンテの横顔の肖像を残しています。

ダンテとジョットが活躍した クワトロチェント=14世紀は、イタリア・ルネサンス初期の新しい時代です。「キリストに最も近づいた画家」といわれたジョットの画業は、《荘厳の聖母子》《キリストの生涯》《聖フランチェスコ伝》などのフレスコ画が代表的な作品です。


                             *
              



これから紹介するのは、北イタリア パドヴァのスクロヴェー二礼拝堂に描かれた「キリストの生涯」の壁画です。スクロヴェーニは、パドヴァの悪名高い高利貸しでした。それで彼の死後、息子が礼拝堂を神にささげて、父親の罪滅ぼしをしたと言われています。

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           スクロヴェーニ礼拝堂の正面外観(西に面しています)



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祭壇から見た内部「最後の審判」の壮大な壁画が見えます。


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天空が描かれた天井  中央には パントクラトール「天地万物の支配者」が描かれています。


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              入口から見た内部正面 (中央奥は祭壇)



[ 受胎告知から神殿の少年イエスまで ]

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               「受胎告知」する大天使ガブリエル

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         大天使ガブリエルから「お告げ」を受ける処女(おとめ)マリア

受胎告知によって、神が人間の体をマリアから受けて人の世に住むようになりました。
このことを「受肉」incarnation といいます。「託身」ともいいます。


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            上は「幼子イエスの降誕」  (下は「最後の晩餐」)


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                幼子とその母マリアとヨセフ

幼子はヨシュアと名付けられました。ヘブライ語でヨシュアは、よくある名前で「神は救い」という意味で、ギリシア語では「イエソス」、これがイエスと言われるようになりました。


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         東方の三人の博士の礼拝(マギの礼拝)ー 主の公現


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         エジプトへの避難(ヘロデ王の嬰児虐殺を避けるため)

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            マリアの厳しい表情が印象的です。


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         ヘロデ王による嬰児虐殺

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             イエスの神殿奉献(エルサレムの神殿で)


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          エルサレムの神殿で学者たちと話す少年イエス(12才のとき)


ルカによる福音書は、神殿で学者たちと話したことがあってからのことを、「それからイエスは、両親とともにナザレに下って行き、二人に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをことごとく心に留めていた。イエスは知恵もまし、背丈も伸び、ますます神と人に愛された」と記述しています。


                           *


イエスの誕生からヨルダン川で洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けるまでを、イエスの私生活としています。イエスが洗礼を受けてからは、イエスの公生活と言います。つまりイエスが世に出て福音を宣教する時代が始まります。















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# by francesco1hen | 2017-09-18 22:16 | Comments(0)
2017年 09月 02日

東方キリスト教会の12祝祭

《 東方キリスト教会の12祝祭 》

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マリアへの受胎告知         キリストの降誕     

            十字架降下              キリストの埋葬



「東方キリスト教会」について少し説明しておきます。

古代ローマ帝国の支配領域であった地中海を囲む地域を「古代地中海世界」といいます。その世界は4世紀以後キリスト教の地域になっていました。この地域ではアドリア海を境に、東はギリシア語圏と西はラテン語圏に分れており、東はキリスト教徒が多く、西は少なかったのですが、ペトロの後継者であるローマの司教がカトリック教会の中心(教皇)として存在していました。

ところが、1054年に東西教会は決定的に分離され、西は「ローマ・カトリック教会」、東は「ギリシア正教会」と呼ばれるようになりました。

1453年東ローマ帝国がオスマン・トルコ帝国によって滅ぼされると、1480年には、モスクワ大公国がモンゴル支配から自立し、1547年にはロシア帝国になり、ローマ帝国の後継者を自認し、宗教的には「ロシア正教」となりました。

ギリシア正教会とロシア正教会では、皇帝が宗教の長の地位も兼ねることから「皇帝教皇主義」といわれています(ローマ・カトリック世界では、皇帝権と教皇権はそれぞれ独立しています)。

このギリシア正教会とロシア正教会のすがたは東欧諸国でも見られます。この伝統を受けついだ東ヨーロッパのキリスト教を総称して「東方キリスト教会」と呼んでいます。


ギリシア正教会とロシア正教会を中心に東方キリスト教会では、大切な祝祭として「12の祝祭」が盛大に行われます。それは絵画(イコン)的にも優れた表現を見ることができます。


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            受胎告知            キリストの降誕


            幼子の神殿奉献         キリストの洗礼


            キリストの変容         ラザロの復活   



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            エルサレムへの入城         キリストの磔刑


          復活後古聖所に下り死者を復活させる   キリストの昇天        


            聖霊降臨             聖母マリアの死(眠り)


    以上のが「12祝祭」の一つの例です。所によって祝祭の入れ替えがある場合があります。
    つぎに優れたイコンによる祝祭の表現を見てみます。


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            おとめマリアが、天使ガブリエルから聖霊による受胎を告げられます。


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           キリストの降誕のようす  《降誕祭》

 
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            東方の三人の博士の礼拝  《キリストの公現祭》

       キリストが公に現れたとして、東方キリスト教会では、クリスマスより盛大に祝われます。



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         洗礼者ヨハネからキリストが、ヨルダン川で洗礼を受ける。《キリストの洗礼》


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            《キリストの変容》


イエスが三人の弟子たちを連れて、タボール山に登ったとき、イエスの姿が変わり、衣服はまっ白に輝きました。そして、エリアがモーセとともに現れ、二人はイエスと語り合っていました。すると、雲の中から声が聞こえ、「これはわたしが愛する子。彼に聞け」と。弟子たちはすぐに周囲を見渡しましたが、自分たちとともにいるイエスの他には、だれも見えませんでした。

モーセは律法の教えを、エリアは預言者の教えのすべてを表わしています。神の声は、キリストが律法と預言の教えを完成する者であることを示しています。「キリストの変容」は、「キリスト教の内的成立」を意味しているといわれています。これに対して、「キリスト教の目に見える外的成立」は、復活後50日目の「聖霊降臨」のときであるといわれています。


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            キリストの磔刑   《キリストによる十字架の救い》


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        《キリストの復活祭》  キリストは、復活ご最初にマグダラのマリアに現れる



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         《キリストの昇天祭》   復活後 40 日目に、キリストは昇天しました。


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           《聖母マリアの眠り》   

        死を「眠り」と言っています。マリアは、天に挙げられキリストの抱かれています。


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                        *  *  *



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          キリストの「聖顔布」  (これは描かれた物ではない、と注意書きされています)

これはイエスが十字架を担いでカルワリオの丘に進んでいったとき、ヴェロニカという女性が、イエスに汗を拭くようにと布を渡しました。イエスはこれを受けて汗を拭きました。すると、返された布には、奇跡的に「キリストの顔」が写っていました。それでこの顔が伝えられて「聖顔布」と呼ばれるようになりました。


                           *


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              《パントクラトール》


ギリシア正教会の重要な「キリストのイメージ」は、「パントクラトール」です。それは「天地万物の支配者」という意味です。

ちなみに、皇帝は「コスモクラトール」(世界の支配者)です。神はそれを超える「宇宙の支配者」というわけです。



                         *****






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# by francesco1hen | 2017-09-02 17:04 | Comments(0)
2017年 08月 23日

キリスト昇天 最後の言葉「世の終りまで、いつもあなたたちと共にいる」    聖書の言葉シリーズ(12)         


「わたしは世の終りまで、いつもあなたたちと共にいる」                       

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        ジョット 〈キリストの昇天〉 (スクロヴェーニ礼拝堂の壁画)


マタイによる福音書は、キリストが昇天するときの最後の言葉をつぎのように記しています。

「あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。そして、父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を彼らの授け、わたしがあなたたちに命じたことを、すべて守るように教えなさい」。

そして最後に、  「わたしは世の終りまで、いつもあなたたちと共にいるのである」。 記しています。
                               (マタイによる福音書 28章19-30節)

「父と子と聖霊のみ名に入れる」の(み名に入れる)という表現は、名は、名そのものを表わしています。したがって「入れる」は、神の本性に与らせる、という意味になります。つまり「神そのものに入れる」「神と一つになる」ことです。それが、信仰に入る「洗礼」です。


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               ロマネスク時代の「キリストの昇天」の挿絵 (素朴さを感じます)


「いつもあなたたちと共にいる」にちなんで、マタイによる福音書の1章19−25節の言葉が対照的であることを見ましょう。


ヨゼフは、婚約していたマリアが身ごもっていたのでひそかに離縁しようかと思っていました。ヨゼフがこのように考えていると、天使が夢に現れて言いました。

「ダヴィでの子孫ヨゼフよ、妻マリアを家に迎えるのを恐れるな。その胎内に宿されているのは、聖霊によるのである。マリアは男の子を産む。あなたはその子をイエスと名づけよ。その子は自分の民を罪から救う方だからである」と。これは預言者をつうじて言われたことが成就するためである。預言者は言っている。

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と。

「インマヌエル」は、「神はわれわれと共にいます」という意味です。

昇天のときイエスが残した言葉「わたしは世の終りまで、いつもあなたたちと共にいる」は、イエスがいつも「インマヌエル」であることを明らかにしています。マタイによる福音書の始めと終りは、不思議にも同じような言葉があることに気が付きます。


「イエスと名づけなさい」の「イエス」は、ギリシア語化された名前です。ヘブライ語では、「ヨシュア」という、よくある男の子名前です。その意味は「神ヤーウェは救う」です。 ヨシュア = イエス です。



                             *




  ついでに加えると、「キリスト」は、ギリシア語化された言葉で「救い主」という意味です。

  ヘブライ語やアラム語では、「マシア」「メシア」で、これがギリシア語化されて「キリスト」になりました。

  日本では「救い主キリスト」と、わかりやすく表記されます。

  しかし、意味的には、「救い主・救い主」や「キリスト・キリスト」になりますね。(^_~)/。

                     

                             *



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           ジョット 「世の終り最後の審判」(部分)  (スクロヴェーニ礼拝堂西の壁画)

            この部分は別名で「父の右座のキリスト」です。







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# by francesco1hen | 2017-08-23 12:15 | Comments(0)
2017年 08月 22日

復活したキリストの言葉 「ノリ・メ・タンゲレ」と「エマオのキリスト」   聖書の言葉シリーズ(11)              

「ノリ・メ・タンゲレ」                                      

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         ジョット 〈復活のキリスト〉



週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行き、墓から石が取りのけてあるのを見ました。そこで弟子のペトロとヨハネのところへ走っていき、「だれかがわたしの主を墓ら取り去りました。何処においたのかわたしには分りません」と告げました。二人の弟子が走って行き、墓に入ってみると、イエスが包まれていた亜麻布が平らになっていました。イエスはそこにはいなかったのです。


さて、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。泣きながらも、身をかがめて墓の中をのぞき込むと、イエスの遺体が置かれていた場所に白い衣を着た二人の天使が座っているのが見えました。天使たちは、マリアに「婦人よ、なぜ泣いているのですか」といいました。マリアは「誰かがわたしの主を取り去りました。どこへ置いたのか、わたしには分りません」と答えました。

こう言って後ろを振り向くと、そこにイエスが立っていました。しかし、その人がイエスであることには気が付いていませんでした。イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と尋ねました。マリアは園の番人だと思って、「あなたが、もしあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、教えてください。わたしが引き取ります」と言いました。

それに答えて、イエスは「マリア!」と。マリアは振り返って、思わずヘブライ語で「ラボニ!」(先生!)と呼びかけて近寄りました。

これにイエスは応えて、「ノリ・メ・タンゲレ!(縋り付くのはよしなさい)。わたしは、まだ父のもとに上っていないのだ。わたしの兄弟たちのところへ行ってこう伝えなさい。『わたしの父であり、あなたたちの父でもある方、また、わたしの神であり、あなたたちの神でもある方のもとへ、わたしは上って行く』」。

マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と言い、イエスから言われたことを弟子たちに告げました。


                            *


マグダラのマリアは、以前にイエスから七つの悪霊を追い出してもらった婦人です。以来イエスに従って、十字架の下に最後までたたずんで、イエスを主と仰ぎ愛していた女性でした。イエスはこれに応えて、復活ご最初にマグダラのマリアに現われた、と聖書に書かれています。

               (この話と言葉は、ヨハネによる福音書 20章1-18節にでています。)


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          フラ・アンジェリコ  〈ノリ・メ・タンゲレ〉

この壁画は、ヴェネティアのサン・マルコ修道院の修室(個室)に描かれた、修道士の黙想を助けるためのものです。フラ・アンジェリコらしい、ルネサンス時代の美しい絵画です。



                           *



「エマオのキリスト」

キリストが復活したちょうど同じ日に、二人の弟子がエルサレムから60スタディオンはなれたエマオという村に向かって歩いて行きながら、最近の出来事を話し合っていました。

するとイエス自身が近づいてきて、いっしょに歩き始めました。しかし、二人の目はさえぎられていて、この人物がイエスであることに気が付きませんでした。

イエスは二人に、「あなたがたが歩きながら話し合っているその話はなんの事ですか」とたずねました。二人は暗い顔をして立ち止まって、「エルサレムに滞在しながら、近ごろ起った事を、あなたはご存じないのですか」と話ました。

イエスが「それはどんな事ですか」とたずねると、二人は「ナザレのイエスの事です。この方は十字架に付けられてしまったのです。そのことがあってから今日でもう3日目です。葬られた墓にその方は見当たりませんでした」。

そこで、イエスは、「メシアは、必ずこのような苦しみを受けて後、栄光に入るはずではなかったか」と、モーセから始めて、すべての預言者が、メシアについて聖書全体にわたって書いてある事を、二人に説明しました。そろそろ夕刻になっていたので、二人はイエスを無理に宿にさそい、食卓につきました。

食卓についてから、イエスはパンを取り、賛美をささげて、手で分け、二人に渡しました。すると、二人の目があけて、その人がイエスだと気付きました。でもその時、イエスのすがたは見えなくなっていました。

二人は「あの方が道々話しかけ、また、聖書を説き明かされたとき、わたしたちの心の内は燃えていたではないか」と互いに語り合いました。

そして、時を移さずエルサレムに引き返してみると、十一使徒とその仲間が集まっていて、「主は本当に復活して、ペトロのお現れになった」と話していました。そこで二人も旅の途中で起った事や、パンを手で分けたとき、イエスだと分った次第を物語りました。

                (この話と言葉は、ルカによる福音書 24章13-35節に出ています。)



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                レンブラント 〈エマオのキリスト〉

    この作品は、古くから美術の教科書などでよく見かけました。ご記憶の方もあるかと思います。




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           エル・グレコ 〈復活したキリスト・イエス〉


キリストが復活した神秘の瞬間を見た者はいません。画家は、復活はこのようであったであろうと、イマジネーションをもとに、このように描いたと思われます。



                            *





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# by francesco1hen | 2017-08-22 18:11 | Comments(0)
2017年 08月 20日

ふしぎな言葉「あなたたちがわたしのうちにおり」 聖書の言葉シリーズ(10)            



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      レンブラント 〈最後の晩餐〉 これはエスキースで、最後まで完成作品は描きませんでした。



「最後の晩餐」の夜、イエスは愛について徹底的に話しました。それで、この晩餐は「愛の晩餐」ともいわれます。ここでイエスは、弟子たちにふしぎな言葉を語りました。


「わたしが父のうちにおり、あなたたちがわたしのうちにおり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日、あなたたちは悟であろう」。         (ヨハネによる福音書 14章20節)


その日とは、神の国に入ったときです。これは一体どんなことでしょうか?。この言葉の後、しばらくして、イエスはぶどうの木の話をしました。その話は長いのですが、短くすると、「わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。人がわたしの内に留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ」ということが骨子です。

そして晩餐が終わってから、イエスは、三人の弟子を連れてゲッセマネの園で、父である神に祈りました。その時の祈りの言葉から「ふしぎな言葉」の意味が少し分ります。


ゲッセマネの園の祈りの言葉(その一部)、「どうか、皆を一つにしてください。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしに内にいるようにしてください。・・・・・ わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。


「わたしたちが一つであるように」というのは、父と子と聖霊の「三位一体の神」のことです。愛というものは、二つ以上のものが一つになることです。神が「完全に一つ」であるように、神の国に入った者が、神と「完全に一つ」になることです。「神の国」は、「三位一体の神」そのものです。だから、「神の国に入る」ということは、「神の命に入る」ということです。


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           北イタリアの「アルベンガ洗礼聖堂」の天井のモザイク〈天空の三位一体の神〉 

Xpi の記号はキリストを表わし、鳩は聖霊を。Xpi が三重になっているのは、「三位一体」を表わしています。



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「ふしぎな言葉」は、人と神が「完全に一つ」になることを言葉で表しているのです。このことは「愛の完成」という言葉でも表わされることがあります。





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# by francesco1hen | 2017-08-20 17:43 | Comments(0)
2017年 08月 20日

有名な「全世界を手に入れても」と「一粒の麦」 聖書の言葉シリーズ(9)           

「全世界を手に入れても」

ある人々のとっては衝撃的な言葉。たとえば、金融的テクニックを使って巨万の富を築いている人々にとっては、そうなるかもしれません。人々は、普段はそんなことを気にかけてもいないでしょう。しかし、この言葉によって、人生観を根底から変えて新しい生き方をした人々もいました。


イエスは、弟子たちに告げました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」。
                              (マタイによる福音書16章24-26節)


この「全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば」の「命を失う」は、魂が滅びて「永遠の命」に入ることができない、という意味です。来世の「永遠の命」の価値は、地上のどんな富よりも、はるかに大きいものであると、全世界よりも大切な「永遠の命」のことを強調しています。



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この言葉によって、人生を変えた人が、イグナチウス・デ・ロヨラとフランシスコ・ザヴィエルです。
ロヨラはスペイン貴族出の野望に充ちた軍人でした。ある戦争で傷つき病床でこの言葉に出会い、イエズス会という修道会を仲間とともに設立しました。15・6世紀のイエズス会の活躍は、歴史の上でよく知られています。
日本に馴染みの深いその一人がフランシスコ・ザヴィエルです。ザヴィエルは、ご存知のように、インドから宣教師として、初めて日本にキリスト教を伝えた人です。この時から、日本のキリシタン史が始まりました。1549年のことでした。



「一粒の麦」
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「全世界を手に入れても」に似ているのが、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」の言葉です。

「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ。自分の命を大切にする者は、それを失い、この世で自分の命を顧みないものは、それを保って永遠の命に至る」。

「わたし(神の子)に使えようとする者はわたしに従え。そうすれば、わたしのいる所に、わたしに仕える者もいることになる。父(である神)は、わたしに仕えようとする者を、大事にしてくださる」。
                                    (ヨハネによる福音書 12章24-26節)


生と死に関するこの麦粒の比喩は、イエス自身の死の意味とキリストを信じる者に適用されます。「豊かに実を結ぶ」は、「永遠の命に至る」ことです。全世界の富にも勝るもの、それは「永遠の命」であり、父である神が大事にして、その「いのち」の中に入れてくださるのです。

それを可能にしたのは、イエスの十字架の死による救いです。一粒の麦が地に落ちて死んだのは、すべての人が、豊かに生きる(永遠の命の)ためであったのです。


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                エル・グレコ  〈十字架上のキリスト〉



「全世界を手に入れても」と「一粒の麦」の言葉がしめすのは、この世の富を命とする者に比べると、来世の命を大切にする者の幸福は、はるかに偉大であるということが語られています。



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# by francesco1hen | 2017-08-20 10:36 | Comments(0)
2017年 08月 15日

「人を裁いてはならない」と「人のあやまちを赦せ」  聖書の言葉シリーズ(8)            

「姦通の女」の記述を読むとき、わたしたちは、ルカによる福音書の「人を裁いてはならない」というイエスの「裁いてはならない。そうすれば、あなたがたも裁かれない。人を罪びとに定めてはならない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(6章37節)という言葉を思い出します。

これと同時に想い起こされるのは、マタイによる福音書18章21-35節の「人のあやまちを赦せ」という記述です。そのとき弟子のペトロがイエスのところに来て、「主よ、兄弟がわたしに罪を犯した場合、何度赦さなければなりませんか。七回までですか」と言いました。イエスはこれに答えて、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までである」と。・・・・そして、最後に「わたしの天の父も、もしあなたたちの一人が、自分の兄弟を心から赦さないならば、あなたたちと同じようになさるであろう」と結びました。

イエスは、赦すことは、恵みに充ち憐れみ深い神の御心であると諭し、同時に、人も他の人の過ちを赦すべきことを強く教えています。
      
イエスは、 姦通の罪を犯した女を裁かず、罪に定めませんでした。イエスに赦されて救われた女は、深い喜びを心に抱きながら、新しい人生を送ったに違いありません。


7の70倍は、490です。この数にちなんだ珍しいものがあります。カトリック藤沢教会の祭壇背後には、7の70倍までも「赦しなさい」という意味深い490の「木片モザイク」の装飾がほどこされています。

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         カトリック藤沢教会の珍しい八角形の聖堂



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救い主イエスに赦された例はたくさんあります。ゴルゴタの丘で、イエスの左右に磔にされた犯罪人の回心の例が有名です。

十字架にかけられた犯罪人の一人が、冒涜の言葉を吐いて、「お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ」と叫びました。すると、もう一人の犯罪人がこれをたしなめて、「お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を恐れないのか。われわれは自分のやったことの報いを受けるのだから当たり前だが、この方は何も悪いことをなさっていないのだ」と言い、「イエスさま、あなたが神の国に行かれたときには、どうかわたしを思い出してください」と願いました。イエスは、「あなたによく言っておく、今日、あなたはわたしとともに楽園にいるであろう」と告げました。

極悪の犯罪人も悔い改めることによって罪を赦され、神の国(楽園)に招かれたのです。この赦しは、イエスによる赦しのすばらしい結末といえましょう。この犯罪人は、最高の喜びの栄光「神の国」のうちに迎えられたのです。

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             ルーベンス  ゴルゴタの丘のイエスと犯罪人









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# by francesco1hen | 2017-08-15 22:32 | Comments(0)
2017年 08月 12日

 「人を裁くな」と「姦通の罪を犯した女」  聖書の言葉シリーズ(7)            

「人を裁くな」(マタイによる福音書7章1−5節)

人は、しばしば自分の欠点に気付かず、人の悪いことを注意・非難することがあります。聖書はそのことを面白く反省させています。


裁いてはならない。そうすれば、あなたがたも裁かれないであろう。あなたがたが人をさばくように、自分も裁かれ、あなたがたが量るその升で、あなたがたにも量り与えれるであろう。

(ここで初めの「裁く」は人を罪があると決めつけること。つぎの「裁く」は神の裁きと罰を指しています。つぎの言葉が痛いように響きます。)


兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ、自分の目にある丸太に気付かないのか。自分の目に丸太があるのに、兄弟に向かって、「あなたの目からおがくずを取らせてくれ」と、どうして言えるだろうか。偽善者、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取ることもできるであろう。

(自戒すべき言葉ではないでしょうか。)

「針の穴」とか、「目の中のおがくずと丸太」と言うような誇張した表現は面白いですね。イエスには、ユーモア的センスがあったのかもしれません。



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         レンブラント 〈姦通の罪を犯したの女〉

   レンブラントのこの絵画は、聖書の場面をもれなく描いています。


「姦通の罪を犯した女」(ヨハネによる福音書8章1−11節)

徴税人とともに罪びとにされていたのは、罪深い女と呼ばれていた女たちでした。ヨハネによる福音書の八章に非常に印象的な「姦通の女」の記述があります。


イエスが朝早く神殿の境内に入ると、民衆がイエスのところへ来たので座って教えはじめました。
そこへ律法学者とファリサイ派の人人が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て真中に立たせ、イエスに問いかけました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まったのです。モーセは律法のなかで、このような女を石を投げて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あたはどう考えますか」と。これはイエスを試して、訴える口実を得るためにした質問でした。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始めていました。それを見て彼らはしっこく問いかけれるので、イエスは身を起こして言いました。「あなた方の中で罪を犯したことのない人が、まず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書きつづけました。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていきました。

イエス一人と真中にいた女が残りまし。イエスは身を起こして「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか、誰もあなたを罪に定めないのか」とたずねると、女は「主よ、誰も」と答えました。するとイエスは言いました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない」と話しました。


                          *



異常な事態の推移を固唾をのむ気持ちで読むわたしたちは、このイエスの絶妙な言葉と姦通の現場で捕らえられた女の気持ちを察するとき、深い感動を覚ええます。ここに書かれている情景は、わたしたちに非常に強い緊張感とともに、事態の展開になみなみならぬ興味をいだかせます。


光の画家レンブラントは、この緊張感みなぎる聖書の場面をもらすことなく克明に描き、人々の感動を呼び起こしています。

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# by francesco1hen | 2017-08-12 16:07 | Comments(0)
2017年 08月 10日

「南八ヶ岳 花の森公園」には、驚きました。

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国道141号線の 道の駅「南きよさと」に、おもしろい「南八ヶ岳 花の森公園」があります。
「まごい駅」からリフトカー「こいのぼり号」に乗って、全長180メートル、3分、国道から100メートルの高さの「まごい駅」終点に、広い面積をもつ台形状の山「南八ヶ岳 花の森公園」があります。

家族ずれの人々にとってまことに好都合な公園です。園内には、「収穫体験青空農園」果樹エリアと菜園エリア、樹木のエリア、花のエリア、また、体験教室やピザ作り体験・夏野菜収穫体験・サクランボ狩りなどがあります。遊歩道は広がり、広い「わんぱく広場」もあります。


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10本ほどの高いポプラの木が見えます。高い山の上にこんなに高いポプラがあるのにおどろきます。


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その上、こんなところに大温室があるのには、さらに驚きです。そして、此処「わんぱく広場」は、思い切り遊べる広さがあり、子供も大人も自由に遊んでいます。


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高いポプラの木におどろきましたが、こんな山にも高いやなぎの木があるのに、また驚きました。


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      100メートル下に 道の駅「南きよさと」が見えます。その先が国道141号線です。





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# by francesco1hen | 2017-08-10 17:47 | Comments(0)
2017年 08月 09日

 金持ちの青年 と「針の穴」  聖書の言葉シリーズ(6)

「金持ちの青年の話」

ある青年がイエスに近寄って、「永遠の命を受けるためには、どのようにすればいいのでしょうか」と尋ねました。イエスは、律法の掟を守りなさい、と。「子供のときから守っています」と青年は答ました。イエスは彼をじっと見て、愛情を込めて言いました。「あなたに欠けていることが一つある。行って、もっている物をことごとく売り、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を蓄えることになる。それから、わたしについて来なさい」。青年はこの言葉を聞いて、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きました。多くの財産を持っていたからです。(マルコによる福音書10章17-22節)


この話のあとで、聖書は「富の危険」についての記述をしています。そして、ここに「針の穴」のことが出てきます。


「富の危険」

イエスは弟子たちに言いました。「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持が神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。弟子たちは非常におどろき「それではいったい誰が救われるのだろうか」と話し合いました。(同10章23-27節)

元来ユダヤ人は、この世の財宝は神の祝福のしるしといていました。それで弟子たちは、現世の富や財宝を危険視するイエスの言葉に驚いたのです。しかし、イエスは当時の常識をくつがえすように、この世の富や財宝に執着せず、最も大切な神の国の「永遠の命」を求めることが肝要であると呼びかけているのです。現代のわたしたちも、経済的豊かさを求めることだけに、気を奪われていることには問題がありますね・・・・・ 。


ところで、気になるのは、「らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」ということです。「針の穴」はつぎのようです。

エリコの城門は、日没になると門を閉じます。夜間には必要に応じて、小さな門を開きます。
この門は荷物を運ぶラクダ一頭だけが通れるくらいの大きさで「針の穴」と呼ばれていました。
つまり、それは夜警対策としての小さな門でした。                


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# by francesco1hen | 2017-08-09 15:25 | Comments(0)
2017年 08月 08日

 意外なことば 「敵を愛しなさい」  聖書の言葉シリーズ(5)


    「敵を愛しなさい」!?     


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          V. v. ゴッホ  〈善いサマリア人〉


「敵を愛しなさい」と言われれば、だれでも「そんなこと出来るはずがない」と、即座に答えるでしょう。
遠慮がちな人でも「それはちょっと・・・」と、迷惑そうな顔をします。常識的にいって意外な言葉「敵を愛しなさい」が、受け入れ難いのは当然のことです。

ところが新約聖書には、つぎのように書かれています。

「しかし、わたしはあなた方に言う。敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。
それは、あなたがたが天におられる父の子であることを示すためである。
天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。 ・・・・・ 

 だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさい」。
                            (マタイによる福音書 5章43−48節)

同じような言葉が、ルカによる福音書の6章27−36節に出てきます。最後の部分は、つぎのようになっています。

 「・・・・・ あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。



                         *



これに関連する「善きサマリア人のたとえ話」が、ルカによる福音書の10章25−37節に出てきます。

イエスは話しました。「ある人がエルサレムからエリコに下がっていく途中、強盗に襲われた。彼らはその人の着物をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにしたまま行ってしまった。すると一人の祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見て、道の向こう側を通っていった。また、同じく、一人のレビ人が、そこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。

ところが、旅をしていたあるサマリア人が、その人のそばまで来て、その人を哀れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてやった。それから自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き、介抱した。その翌日、サマリア人はデナリ銀貨二枚を取り出して、宿屋の主人に渡し、『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰ってきたときに支払います』と言った。

さて、あなたはこの三人のうち、だれが、強盗に襲われた人に対して、隣人としてふるまったと思うか」。律法学者が、「哀れみをほどこした人です」と言うと、イエスは、「では、あなたも行って、同じようにしなさい」と言いました。


三人のうち、祭司とレビ人は同胞のユダヤ人です。サマリア人は、ユダヤ人から罪びととして軽蔑され、敵対視されていました。にもかかわらず旅をしていたサマリア人は、半殺しにされていたユダヤ人の旅人を哀れに思い、丁寧に介抱しました。敵であるようなユダヤ人であっても、苦しんで助けを必要としている人を見て助けずにはおられなかったのです。


天の父が完全であるように、また、憐れみ深いように、あなたがたもそのような者になりなさい、というイエスのおしえは、悪人でも正しい人でも、すべての人は、神の国に招かれている大事な存在。生かされている一人ひとりは、神から愛されている尊い存在であるから大切にしなければならない、ことを教えています。


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ゴッホは30歳のころハーグの町でクリスチティーヌという名の娼婦を拾って同棲しています。ゴッホは弟のテオに書き送っています。「クリスティーナは、惨めな生活に荒れ果て、色あせ、顔も体も骨張って、女の甘い香やふくよかさはとうに消え失せていた。男にだまされて生んだ5才の女の児を抱え、父親の知れない赤ん坊をお腹に宿していた。僕はこの冬、男に捨てられた彼女をモデルに雇い、ひと冬の間一緒に働いた。おかげで、僕は彼女と娘を飢えと寒さから救い出した」と。

ゴッホは、困窮に打ちひしがれていた惨めな娼婦クリスティーヌを見る見かねて、同情して生活をともにして救ったのです。こういうゴッホが描いたのが、このゴッホの〈善いサマリア人〉の名画です。



                        *  *  *



      憐れみの心からの「共感同苦」   相手の隣人となって、その人を助ける「隣人愛」



                           *





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# by francesco1hen | 2017-08-08 16:27 | Comments(0)
2017年 08月 05日

 イエスの福音宣教の第一声  聖書の言葉シリーズ(4)           

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ジョット 〈ヨハネによるキリストの洗礼〉


ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けたイエスは、ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えました。      

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい、と人々に福音の第一声を告げました。 


新約聖書には、「神の国」と「天の国」という同じような言葉が出てきます。調べてみますと、「神の国」は、マタイによる福音書では3回、マルコでは4回、ルカでは10回、ヨハネでは1回です。

「天の国」は、マタイによる福音書だけに22回出てきます。ヨハネによる福音書では、「神の国」が1回ですが、同じ意味をもつ「永遠の命」という言葉が17回も使われています。そのためヨハネによる福音書は、「永遠の命の福音書」といわれています。                                      

イエスの福音の第一声は、すべての人は「神の国」に招かれているという「よい知らせ」でした。
神に似せて造られた人間は、神と共にいるべき存在として創造された者です。


ヨハネによる福音書は、神の子イエスが人間のすがたでこの世に現れた理由について、つぎにように記しています。「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(3章6節)。                        

イエスは、救い主として人の世界に来たのであると言っています。 このことから、「神の国」は「永遠の命」を生きるところである、ということができます。                      


イエスの福音の言葉は、人々にとって革命的な響きをもっていたと思われます。人間は誰しも地上の日常の富をもつことを幸福と考え、これを求めています。イエスは、「悔い改めて、福音を信じなさい」と、地上の幸福ではなく、神の国の幸福を求めるように、視点の転換を求めています。「神の国」に入ることは、神の「いのち」に入るということです。神と「いのち」をともにする「永遠の命」は、「至福」という最高の幸福です。                                                                                             イエスの福音の第一声は、人々には理解できないほどの「革命的な言葉」でした。            

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ヴェロッキオ 〈キリストの洗礼〉


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# by francesco1hen | 2017-08-05 18:07 | Comments(0)
2017年 08月 02日

「迷える羊」と「見失った羊」 聖書の言葉シリーズ(3)            

九十九頭の羊を山に残して、迷いでた一頭の羊を捜しに行く羊飼いの話はよく知られています。これにちなんで、「一人の命の重さは、地球よりも重い」ということがよく言われます。
 
聖書の記述は、つぎのようです。

あなたたちはこれらの小さな者の一人をも、軽んじないように気を付けなさい。・・・・・
ある人が百頭の羊を飼っていて、そのうち一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭の羊を山に残し、迷った一頭の羊を捜しにいかないであろうか。そしてもし見つけたなら ー あなたたちによく言っておく ー その人は迷わなかった九十九頭の羊よりも、その一頭を喜ぶであろう。
このようにこれらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなたたちの父のみ旨ではない。
   
                             (マタイによる福音書18章10−14節)


 「一人でも滅びること」は、神の国に入れないこと。神の国とは、「神と交わり」そのものです。交わりは、完全に一つになって、神と「いのち」を共にすることで、至福の状態に入っていることです。この最高の幸福に招くことが、神のみ旨(意志)です。


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同じような「見失った羊」の話は、ルカによる福音書の15章4−7節にでてきます。


ルカによる福音書の15章は「あわれみの福音書」といわれ、神のあわれみに関するたとえ話が三つでてきます。「見失った羊」と「なくした銀貨」と「放蕩息子」が、それです。

このたとえが話されたときの情況は、徴税人や罪人たちが、イエスの話を聞こうとして近寄ってきたので、パリサイ派の人々や律法学者たちが「この人は罪びとたちを迎えて、食事も一緒にしている」とつぶやいていたので、イエスが三つのたとえ話をしたのでした。この事情を知った上で、「見失った羊」のおわりの部分を読んでみたいと思います。


「・・・・。このように、悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、天においてはもっと大きな喜びがあるであろう」。


                             *


このたとえは、神から離れている者が神に立ち戻ることは、神の大きな喜びであることをよく示している言葉です。それほど神は一人ひとりの人間を大切にされているのです。この神のみ旨をイザヤ預言者は「神の目に人は尊い」(神は一人ひとりの人間を大事にしている)という言葉を使っています。


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            羊を肩にのせている善い羊飼いイエス(ロシア・イコン)



ルカによる福音書では、羊飼いが「見失った羊を見つけ出すと、喜んで自分の肩にのせて、家に帰り、友人や近所の人びとを呼び集めて、『いっしょに喜んでください。見失ったわたしの羊が見つかりましたから』と言うであろう」と書いてあります。


                             *


このたとえによって、神のあわれみは、罪ぶかい人やとるに足りない価値のない者にも注がれているのだと、イエスは告げているようです。



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# by francesco1hen | 2017-08-02 10:23 | Comments(0)
2017年 08月 01日

 イエスは「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」 聖書の言葉シリーズ(2)            




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羊がいるイスラエルの風景               
                          
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                        ガリラヤ湖 この辺りから福音は宣べ伝えられた



イエスは、律法学者やパリサイ派人々から「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」(ルカ7・34)と軽蔑され悪口を言われていました。あるときは、学んだことのない無学者とか悪霊つき、と言われたこともあります。

律法学者やパリサイ派の人々は、律法に精通し、これを厳格に守ることを人々に要求していました。律法を守らないものは罪びとであると決めつけていました。そして、自分たちは完全であると思い込んでいました。

ところが、イスラエルの社会では、祈る時間がない貧しい人や病人・罪深い女・徴税人、そして、敵対視されていたサマリア人たちは、それぞれの理由から求められるように律法を守れない事情がありました。そのために、不当にも罪びとにされていた人々でした。

イエスが特にあわれみの目を向けて愛したのは、このような人びとでした。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マルコ2・17)と言っています。

イエスは、パリサイ派の人や律法学者から責められて罪びとにされた人びとを救い出すために、その苦しみに捨ておかれ、蔑まれ排斥される彼らの立場に「共感同苦」して、彼らに寄り添って共に食事をし話を聞きながら語り、時を過ごしていたのでした。


                        *



 このようなことは、「新約聖書」によく書かれています。


   さまざまな病人を癒す(マルコによる福音書 1章32−34節)
   ヤイロの娘と出血病の女の話(マルコによる福音書 5章21−34節)
   罪深い女赦される(ルカによる福音書 7章36−50節)
   徴税人の頭レビ(マタイ)、イエスの弟子として召し出される(マタイによる福音書 9章9−13節)
   サマリア人の女との問答(ヨハネによる福音書 4章1−30節 39−42節)

例を示すならば、このような話などがあります。


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              善い羊飼いイエス (ローマ時代の彫刻)






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# by francesco1hen | 2017-08-01 16:34 | Comments(0)
2017年 07月 30日

聖書の言葉シリーズ(1) 空の鳥・野の百合を見よ。            


[ プロローグ ]     イザヤの預言(イザヤ預言書 55・10 - 11)
 

     雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。
     それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、
     種播く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
  
     そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、
     むなしくは、わたしのもとに戻らない。
     それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。


                      
                        *



「空の鳥、野のゆりを見よ」


新約聖書の「空の鳥、野のゆりを見なさい」という言葉は、牧歌的な部分として有名です。
何の苦労もせずに、さえずり空を飛ぶ鳥のすがたは自由で、わたしたちの気持ちを解放させます。
ソロモンの栄華に勝る「野のゆり」といわれれば、美しい白百合を想像するのが普通です。

ところが、空の「鳥」の原語は、なんと、人に嫌われているカラスです。
現代でもそうですが、カラスは古代社会でも嫌われている鳥の代表でした。
「野のゆり」も決して美しい白百合ではなく、人から気にもかけられない、ごくありふれた小さな野の花です。


マタイによる福音書(6・25-34)に記されているイエスの言葉は、

「空の鳥が種を播かず、刈り入れもしないのに養われていたり、野の花が美しく粧われているのに、何を食べようか、何を着ようかと、思い煩ってはならない。
鳥や花がそうであるから、ましてや人に対して天の父(神)が、配慮してくださらないことはない。

それより大事なことは、まず、神の国とそのみ旨を行なう生活(永遠の命にいたる生き方)を求めなさい。明日のことを思い煩う日常のことより、もっと大切な永遠の命を生きることに気を配りなさい」ということを語ったのです。


「空の鳥・野のゆりを見なさい」という言葉は、またたくまに過ぎ去ってしまう日常のことより、人にとって大切な「永遠の命」のことを、人々に告げる言葉です。


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# by francesco1hen | 2017-07-30 15:08 | Comments(0)
2017年 07月 23日

数字に表われる深い意味 ー 数象徴法(4)

[ 21 ・ 24 ・ 33 ・ 40 ・ 70 ] は、何を意味し語るのでしょうか?


[ 21 ] は、3x7=21で、「完全をあらわす数」とされています。旧約聖書の「知恵の書」の7章で、知恵の特性として21のことが挙げられています。ここでは「知恵」は、神から発する一つのペルソナのように書かれています。その初めとまん中とおわりの特性を紹介します。

     知恵には聡明で聖なる霊がある。

     知恵は永遠の光の反映であり、神の働きを映す曇りない鏡であり、神の善のかたどりである。

     知恵は太陽よりも美しく、あらゆる星座に勝り、光と比べてみても優れている。


紀元前1世紀に、まだキリストを知らない時代に、キリストのような「知恵」について記したふしぎな記述です。


[ 24 ] 《最後の審判》の神の玉座をめぐる24座と24人の長老が有名です。 
    ( 12 x 2 ) の 12 は基本的に重要な数です。


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ジョット 《最後の審判》



[ 33 ] は、キリストの死の年齢です。 アリギエーリ・ダンテの『神曲』(Divina Comedia)の「地獄篇」「練国篇」「天国篇」はそれぞれ 33 の歌によって構成されています。ただし、「地獄篇」は、34 歌で最初の第一歌は、全体の序歌になっています。合計 100 歌による壮大な3界を歌ったイタリア文学の金字塔です。                                          

しかし、最初のイタリア文学は、アシジの聖フランチェスコの『兄弟太陽の賛歌(被造物の賛歌)』( Cantico di Frate Sole ) といわれています。                                    
ダンテは、アシジの聖フランチェスコから多くのインスピレーションを受け、『神曲』の中でも聖フランチェスコを何度も称えています。ダンテの友人ジョットも、聖フランチェスコ伝をいろいろな教会や修道院で描いています。                                      



[ 40 ] は、ノアの洪水の40日間。エジプト脱出のイスラエル人がシナイ砂漠を旅をしたのが40年間。この他、イエスが荒れ野で40日間の断食苦行のあと、サタンの誘惑を受けました。また、イエスは、復活後の40日目に、天に挙げられました(キリストの昇天)。                   
                                               

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      ジョット 《キリストの昇天》       


イエスは、地上を去る昇天にさいして、つぎのようなことばを遺しました。

「あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。ー 父と子と聖霊のみ名に入れる(神の「いのち」に入れる)洗礼を彼らの授け、わたしが守るように命じたことを、守るように教えなさい」。

「わたしは世の終りまで、いつもあなたたちとともにいる」。(マタイによる福音書の最後 28・19-20)


イエスは生まれる時、イザや預言者によって、「見よ。おとめが身ごもって、男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれる」と。(この名は、「神はわれらとともにいます」という意味です) (マタイによる福音書 1・23)                                    


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ジョット 《イエスの生誕》





[ 70 ] は、マタイによる福音書 18・21-22 に出てきます。                   

あるとき弟子のペトロがイエスに尋ねました。「兄弟がわたしに罪を犯したら、何回赦せばいいのですか、7回ですか?」。イエスは答えます。「7回どころか、7の70倍までも」と。         

このことにちなんで、藤沢教会の祭壇の背後に「木片モザイク」490片の装飾が施されています。
それは、7の70倍も赦しなさいという、イエスの赦すことのが大事であるという教えを象徴しています。        


人を責めるな、また、裁くなと、心から罪を悔い改める者をどこまでも赦すイエスの憐れみ深さが、この「木片モザイク」には表わされています。                              
   イエスの憐れみ深さを想い起こす優れた装飾です。(制作者は、建築家の辻垣正彦氏です)                                  

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490の「木片モザイク」のある祭壇背後の装飾(カトリック藤沢教会)






  3 x 2 = 6 「ダビデの星」 ダビデの子(子孫)イエスは、メシアとして出現が待望されていました。

        3 + 4 = [ 7 ] 「神の恵み」、「聖数」     3 x 4 = [ 12 ]  7と並ぶ「聖数」 
        3 x 7 = [ 21 ] 「完全を表わす数」  21の「知恵の特性」



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# by francesco1hen | 2017-07-23 16:02 | Comments(0)
2017年 07月 19日

数字に表われる深い意味 ー 数象徴法(3)

[ バッハの《ロ短調ミサ曲》と数象徴法 ]


《ロ短調ミサ》の話に入る前に、[ 10・11・12・13 ] の数について述べます。

[ 10 ] は、「モーセの十戒」エジプト脱出の後、イスラエルの民はシナイ砂漠をさまよいながら約束の地、カナーンに向かいました。途中でシナイ山にさしかかった時、指導者モーセは神ヤーウェに呼ばれてシナイ山で、石の板に刻まれた「十戒」を授けられました。イスラエルの民が守るべき掟です。神ヤーウェの教えは律法として、民が神の意志に従って生きる大事な掟として与えられます。

[ 11 ] は、十戒を犯す数です。つまり、罪、違反、無節制を意味します。

[ 12 ] は、3の4倍数で、7と競う「聖数」です。イスラエルの十二部族、12使徒、新しいエルサレム(神の国)の12の門などが有名です。

[ 13 ] は、最後の晩餐の人数は13人、12使徒の他の13人目キリストは、翌日十字架上で死にました。したがって西洋では、13日の金曜日は死を象徴する不吉な数です。


J.S.バッハは、ロ短調ミサ曲の楽譜の余白に、Bach (2+1+3+8)14 という落書きのようなものを書き込んでいます。バッハは、自分の名前が十字架の死のあとの復活の数(14)であることを喜んでいたらしいようです。


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カトリック教会の典礼音楽の中で《ミサ曲》があります。Kyrie「あわれみの賛歌」、Gioria 「栄光の賛歌」、Credo 「信仰宣言」、Sanctus 「感謝の賛歌」、Agnus Dei 「平和の賛歌」の5曲を、まとめてミサ曲と呼んでいますです。

西洋のほとんどの作曲家は、ミサ曲を書いています。世に「3大ミサ曲」と呼ばれるものがあります。
W.A.モーツアルトの《大ミサ曲》。バッハの《ロ短調ミサ曲》。ベートーベンの《ミサ・ソレムニス》がそれです。どれも長大なミサ曲で、典礼として使われることはありません。


バッハは、《ロ短調ミサ曲》の〈キリエ〉(憐れみの賛歌)と〈グローリア〉(栄光の賛歌)の楽章で[ 3 ]にこだわっています。


〈キリエ〉は、「主よ憐れみたまえ!」と「キリスと憐れみたまえ!」という歌詞で、救い主である神に憐れみを求める楽章ですから、神を表わす3楽章がふさわしいのです。


〈グローリア〉は、三位一体の神を讃える楽章です。バッハは、3×9 の9楽章の曲で、父と子と聖霊の三位一体の神を讃える曲にしたのです。


神の最大の恵みは、人類を救うために救い主(キリスト)が世界に与えられたことでした。《ロ短調ミ曲》の〈クレド〉も9楽章です。バッハは、その第3楽章「マリから御体を受け、人となりたまえり」の部分を、7の7倍数の49小節にして、恵みに恵みを重ねるように「受肉の神秘」* を歌うように作曲しました。ここにも、あ象徴法へのこだわりを見ることができます。

*(受肉=神が人間の体を受け、人として現れること)


〈クレド〉の「十字架の救い」の第5楽章で、crutifixus (十字架に付けられ)をラメント・バス「嘆きの低音」(半音下降音型)を13回繰り返しています。十字架の死を強調するためです。14回目は、第6楽章で、キリストの復活・昇天・終末における再臨が輝かしく歌われます。(14は、復活の数)


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9楽章の〈クレド〉(信仰宣言)あとの〈サンクトゥス〉(感謝の賛歌)は、4楽章の曲となっています。おそらく人間が神の栄光を讃える楽曲は、4楽章がふさわしいと思ったのでしょう。


〈アニュス・デイ〉(平和の賛歌)は、2楽章です。その神性と人性をもった神の小羊(キリスト)に対して、人が、世の罪を取り除く救いを願い、憐れみと平安を求める楽章は、2楽章になったと考えられます。



 J.S.バッハは、数がもつ象徴性の深い意味を生かして《ロ短調ミサ曲》を作曲しました。三大ミサ曲に数えられるこの傑作は、バッハの生涯の音楽的経験の集大成として、また、自己の信仰を表明する作品として作られたものです。《ロ短調ミサ曲》の数象徴法によって、この作品は深遠な神の計らい「神の恵み」が、より鮮明にされた音楽になったということができます。



                             *



バッハの数象徴法への「こだわり」は、それによって神秘を啓示されたわたしたちを驚愕・賛嘆させるものです。そして、わたしたちは、数字がもっている象徴性をあらためて知る歓びを感じます。また、さらに数字のなかにひそむ大切な意味を発見できる人間であることにも、喜びを感じます。


                  Spes et Gaudium 「希望と喜び!」


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                      函館ハリストス正教会






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# by francesco1hen | 2017-07-19 16:32 | Comments(0)
2017年 07月 16日

数字に表われる深い意味 ー 数象徴法(2)

[ 神の恵みと神の国への憧れ ]

[ 7 ] も[ 3 ]と同じように「聖なる数」です。「7」は、3+4 によって生まれます。3神の恵みが4人間に与えられたことから、「7」は、「神の恵み」を表わす数です。神の最大の恵みは、人類を救うために救い主が与えられたことです。聖書には「神はその独り子をお与えになるほど、この世を愛された」(ヨハネによる福音書 3・16)と書かれています。


  詩編65 は、神の恵みをつぎのように歌っています。


     命あるすべてのもに、主は食物を恵まれる。

     あなたは地を訪れて喜ばせ、豊かな実りでおおわれる。
     大空に水を蓄え、地に水を注いで麦を与えられる。

     田畑に水を送り、土くれをならし、夕立で地を潤して作物を祝福される。
     あなたの恵みは豊作をもたらし、あなたの訪れるところに豊かさがあふれる。

     荒れ野の牧場も若草にもえ、丘一面に喜びがこだまする。 
     野山は羊の群れに満ち、谷は小麦におおわれ、人々は喜びにあふれて歌う。

     命あるすべてのものに、主は食物を恵まれる。


「7」は、「十字架上のキリストの七つの言葉」が有名です。この七つの言葉は、恵みの言葉です。
その一つに、ともに十字架に磔にされた盗賊に、「今日あなたは、わたしとともに楽園にいる」という恵みの言葉を与えました。(ルカによる福音書 23・46)

この他、聖霊の七つの賜物。神の恵みを与える七つの秘跡(洗礼・堅信・告白/聖体・結婚・品級・病者の塗油)もあります。なお、3+4の7は、「完全」を表わす数(完全数)ともいわれています。 



[ 8 ] は、キリストが復活後の8日目に弟子のトマスに現れたことから、キリストの復活の象徴の聖数です。また、洗礼の秘跡で、罪からの復活によって新しい命に生きることから、八角形の洗礼聖堂や洗礼盤が造られています。また、八角形の鐘塔や聖堂が見られます。

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                    ミラノにあるロマネスク建築の洗礼聖堂と美しい鐘塔です


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        神奈川県藤沢市にあるカトリック藤沢教会の八角形の大聖堂と内部の八角形の天井です


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                    八角形にはいろいろな意味があります。


円にかぎりなく近い八角形は、天の円と地の正方形の中間のかたちです。人は、完全なものである神に向かう人間の天国への憧れを八角形の鐘塔(古くは円塔や四角の塔、ゴシック時代の壮麗な塔を。)の形で遺しています。


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                  南フランスのサン・セルナンの美しい鐘塔です





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# by francesco1hen | 2017-07-16 18:00 | Comments(0)
2017年 07月 16日

数字に表われる深い意味 ー 数象徴法(1)

[ 西洋で生まれた数象徴法 ]

数は、自然現象のなかで規則的ないし法則的に存在するものとして、古代バビロニアやギリシア人の精神生活に大きな影響を与えてきました。ピタゴラスやその学派は、数こそ森羅万象の本質・根源である。たとえ宇宙の諸現象が変化しても、その数的秩序は不変であると考えていました。

古代キリスト教の教父や中世の神学者たちも、数の象徴性やその潜在的な意味を重視してきました。そして、教会の典礼や教会建築とその装飾に具体的に現れている意味を大事にしてきました。

今日では、数字の意味を明らかにする知識を「数象徴法」と呼んでいます。数字に隠されている意味をたずねてみましょう。


[ 1 ] は、数の始で「はじめ」の意味があります。また、数全体をまとめるので「すべて」「みな」という意味もあります。 これと同じように、アルファベットの最初の「A(アルファ)」も「始め」の意味をもっています。さらに、「1」と同じように「A」も全体を含んでいますから、アルファベットの最後の文字「Ω(オメガ)」は、「終り」と「完成」を意味しています。

「A」は、3本の線の結合によって出来ています。3にちなんで、「A」は、三位一体の神の象徴です。


[ 2 ] は、二つの文字「A Ω(A ϖ)」を特にあらわします。Aとϖが、世界の始と終りを知り、支配している栄光の王キリストを象徴するからです。また、「2」は、救い主キリストの神性と人性を象徴する数字です。さらに、「2」は、旧約聖書と新約聖書、精神と肉体、その他、二つの対立するものや両面性のあるものなどを象徴しています。


[ 3 ] は、最重要の「聖数」で、父と子と聖霊の三位一体の神の象徴です。

ミサが始まるとき司祭は、「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、皆さんと共に」と挨拶の祈りをします。信徒は、「また、司祭とともに」と応えます。

信徒になる秘跡の洗礼は、「父と子と聖霊に交わりに入る(神の本性に与る・神の「いのち」に入る)ことです。

このほか、「3」は、多くのもの象徴として使われています。アブラハムを訪れた三人の天使、イエスの生誕を祝った東方の三博士と三つの贈り物(黄金、乳香、没薬)、信仰・希望・愛、大聖堂の三つの門など3が象徴するものは無数ありあます。

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父と子と聖霊 三位一体の神



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           アブラハムを訪れた三人の天使(三位一体の神の象徴とされる場合もあります)


                        *


  この「3」については、次次回のブログ「バッハのロ短調ミサと数象徴法」で詳しく説明します。



[ 4 ] は、世界の四大要素(地・水・火・風)を始め無数のものの象徴です。中でも「4」は人間の象徴です。神に似せて造られた人間は、神についで大切な存在です。

正四角形は、大地をあらわします。その上方の天は、円形で表わされます。ギリシア正教や東方教会建築は、正方形の建物で上部は丸天井(ドーム)であるのが基本です。  下は基本的な図面です。


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代表的なハギア・ソフィア大聖堂の外面と内部です。現在はイスラム教のモスクで尖塔が加えられています。(イスタンブール)



[ 5 ] と[ 6 ] は、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)や神の天地創造の6日間などたくさんあります。

特に重要なものは、十字架上のキリストの五つの傷「聖痕」(スティグマ)です。アシジの聖フランチェスコも晩年には、キリストと同じような五つの傷「聖痕」を受けたことで有名です。

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                 ヴェラスケスの「十字架上のキリスト」(五つの傷)


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                 アシジの聖フランチェスコ「聖痕」を受ける






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     交差した三角形からできた六角形・六線星形。「ダビデの星」です。イスラエルのシンボルです。
               イスラム教のでは「ソロモンの印章」と呼んでいます。








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# by francesco1hen | 2017-07-16 16:19 | Comments(0)
2017年 07月 14日

漢数字 一 から 十 までの意外に深い意味 (2)

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五の数は、木を組んだ X に重たい大きな木の蓋を乗せた形です。口(さい)の中に入れた大切な祝詞を守る 吾 で、「守る」「防ぐ」の意味があります。

また、五行(木・火・土・金・水 = 五つの元素)、五倫(儒教で、人の常に守るべき五つの道。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)、五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記の五書)のように名数で概念をまとめるときに使われます。



六の数は、睦のつくりの 六を重ねた「りく」の音を借りて「六」ろくと呼びます。

六法(憲法・刑法・商法・民法・刑事訴訟法・民事訴訟法の六つの法律)、六朝(王朝の名)時代。
丈六(約四・八メートル、仏像の標準的な高さとされている)などがあります。



七の数は、なんと、切断した骨の形です。七に 刀を加えると「切」になります。
中国では、奇数が好まれ、三・五 とくに「七」は、聖数として大切にされています。

珍しいものとして「七竅」(しちきょう)人間の顔にある七つの穴のこと。 七夕(しちせき)。



八の数は、左右に分かれた形。八 は、半 つまり 牛 を半分に分けた犠牲の形で、「わかつ」「分ける」の意味があります。用例として、八珍(たくさんの美味しいもの)、八重、八方尾根。四方八方もよく使いますね。

       さて、法隆寺の夢殿には、どのような意味が込められているのでしょうか。


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九の数は、身を折り曲げてる 龍 の形です。しかも聖数です。三の三乗だからでしょうか?

九歌九章。 九死一生。 九重親方。 いずれにしても良い字です。



十の数は、数を数えるときに使う算木の横一本と、縦一本を組あわあせて、十 とします。金文では、縦
| の中央に肥点(・)を加えて、のち 十 の字形となりました。 十文字。

ひと十人。 詩十篇。 いえ十家を一組にしたものを「什」。五家を一組にしたものを「伍」と言います。「十」は、「十全」完全であること、万全。「十分」物事や気分が満ち足りて、不足のないこと。充分。善い意味で使われます。



                            *



一 は、結ぶと 円 になります。円は、「天」をあらわします。また、切れ目の無い「円」は、永遠の輪であり、円は、「完全」や「永遠」を表わします。 「一」と「十」は、このように深い意味をもっています。



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                            *



        つぎのテーマは、「 数字に表われる深い意味 ー 数象徴法 」です。










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# by francesco1hen | 2017-07-14 16:42 | Comments(0)
2017年 07月 13日

漢数字 一 から 十 までの意外に深い意味 (1)

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漢数字の  一 は、「はじめ」であり、数の全体をまとめるので「すべて」「みな」の意味をもっています。 したがって、「全一」という言葉のように、まとまりのある完全なものという意味をもっています。また最上のものとして「唯一」が使われます。さらに、全体・全部を表わす「一同」「一身」などがあります。


二の数は、「ふたつ」から、「ふたたび」「ならぶ」の意味があります。


三の数は、参で示されるように、三本の簪(かんざし)を中央に集めて頭髪に指している形の字と同じで、「参集」の意味があります。 一は天の数、二は地の数、三において天地人の道が備わるとされます。三は、天地人の数として「聖数」とされています。
同類の優れたものを、三・五・七などの数を付けてまとめて呼ぶ言い方があります(名数)。 三光は、日月星を。 平安時代の三筆は、嵯峨天皇・橘逸勢(はやなり)・空海をいいます。 利休七哲。竹林七賢人など。


四の数は、「よつ」。四は、口を開いて笑う形です。 四季・四時のほかに、四方、四散、四面など、「まわり」を表わします。 「四方八方」はよく使われます。


五の数は、 木で組んだ X に、二枚の蓋をする形です。二重の大きな木の蓋をした形。すなわち 吾。この字は 口(さい)の中に入っている大切な祝詞を 五 で守ることから「まもる」「ふせぐ」の意味があります。 
また、五行(ごぎょう)(木・火・土・金・水 = 五つの元素)や 五倫(儒教の倫理・人のよるべき道 君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)、五経(ごきょう)(易経・詩経・書経・春秋・礼記の五書)のように名数で概念をまとめるときに使います。


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# by francesco1hen | 2017-07-13 22:53 | Comments(0)
2017年 04月 03日

宇治  平等院 鳳凰堂

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                「平等院 鳳凰堂」

10世紀以来、摂政・関白 藤原道長の跡を継いで、子頼通が1052(永承七)年、宇治の別荘を寺としたのが平等院です。

その阿弥陀堂である鳳凰堂は、翌1053(天喜元)年に落成しました。その中堂と二階建ての翼楼とは、鳳凰が翼を広げた姿をかたどったものと言われています。また、極楽浄土の宮殿をモデルにしたとも。

鳳凰堂は、東向きに建てられています。午前中は明るいのですが、午後はこのように逆光になります。(失笑)? (*_*)/

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     「鳳凰堂中堂」

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     鳳凰堂中堂の裏側から屋根の上の鳳凰を見る


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      正面から見た右の翼楼

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裏側から見た翼楼と反り橋


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鳳凰堂中堂の堂内には、平安時代を代表する仏師定朝作の「本尊阿弥陀如来座像」をはじめ、雲中供養菩薩52躯、9通りの来迎「九品来迎」を表わした壁扉画など、平安浄土美術の頂点が集約されています(国風文化)。                    
                                      
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本尊 阿弥陀如来座像 と その二重天蓋の素晴らしさ! そして頭部                                              
「阿弥陀如来座像」の周囲の壁の「雲中供養菩薩」が、雲中で雲に乗り、さまざまな楽器を奏で舞うすがた。供物を持ったり、合掌したりする様など、伸び伸びと繊細に彫り上げています。                             


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       「阿弥陀如来座像」と「雲中供養菩薩」52躯


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平等院の庭園は、浄土式の借景庭園で鳳凰堂主返の州浜や平橋・反り橋などが整えられています。

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平等院鳳凰堂のフォト撮影は、午前中がよいと思います。経験から学びました。                
                         (~_^)//。





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# by francesco1hen | 2017-04-03 16:11 | Comments(0)