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2017年 08月 20日

聖書の言葉シリーズ(10) ふしぎな言葉「あなたたちがわたしのうちにおり」            



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      レンブラント 〈最後の晩餐〉 これはエスキースで、最後まで完成作品は描きませんでした。



「最後の晩餐」の夜、イエスは愛について徹底的に話しました。それで、この晩餐は「愛の晩餐」ともいわれます。ここでイエスは、弟子たちにふしぎな言葉を語りました。


「わたしが父のうちにおり、あなたたちがわたしのうちにおり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日、あなたたちは悟であろう」。         (ヨハネによる福音書 14章20節)


その日とは、神の国に入ったときです。これは一体どんなことでしょうか?。この言葉の後、しばらくして、イエスはぶどうの木の話をしました。その話は長いのですが、短くすると、「わたしはぶどうの木であり、あなたたちは枝である。人がわたしの内に留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ」ということが骨子です。

そして晩餐が終わってから、イエスは、三人の弟子を連れてゲッセマネの園で、父である神に祈りました。その時の祈りの言葉から「ふしぎな言葉」の意味が少し分ります。


ゲッセマネの園の祈りの言葉(その一部)、「どうか、皆を一つにしてください。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしに内にいるようにしてください。・・・・・ わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。


「わたしたちが一つであるように」というのは、父と子と聖霊の「三位一体の神」のことです。愛というものは、二つ以上のものが一つになることです。神が「完全に一つ」であるように、神の国に入った者が、神と「全くに一つ」になることです。「神の国」は、「三位一体の神」そのものです。だから、「神の国に入る」ということは、「神のいのちに入る」ということです。


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           北イタリアの「アルベンガ洗礼聖堂」の天井のモザイク〈天空の三位一体の神〉 

Xpi の記号はキリストを表わし、鳩は聖霊を。Xpi が三重になっているのは、「三位一体」を表わしています。



                             *



「ふしぎな言葉」は、人と神が「完全に一つ」になることを言葉で表しているのです。このことは「愛の完成」という言葉でも表わされることがあります。





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by francesco1hen | 2017-08-20 17:43 | Comments(0)
2017年 08月 20日

聖書の言葉シリーズ(9) 有名な「全世界を手に入れても」と「一粒の麦」            

「全世界を手に入れても」

ある人々のとっては衝撃的な言葉。たとえば、金融的テクニックを使って巨万の富を築いている人々にとっては、そうなるかもしれません。人々は、普段はそんなことを気にかけてもいないでしょう。しかし、この言葉によって、人生観を根底から変えて新しい生き方をした人々もいました。


イエスは、弟子たちに告げました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」。
                              (マタイによる福音書16章24-26節)


この「全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば」の「命を失う」は、魂が滅びて「永遠の命」に入ることができない、という意味です。来世の「永遠の命」の価値は、地上のどんな富よりも、はるかに大きいものであると、全世界よりも大切な「永遠の命」のことを強調しています。



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この言葉によって、人生を変えた人が、イグナチウス・デ・ロヨラとフランシスコ・ザヴィエルです。
ロヨラはスペイン貴族出の野望に充ちた軍人でした。ある戦争で傷つき病床でこの言葉に出会い、イエズス会という修道会を仲間とともに設立しました。15・6世紀のイエズス会の活躍は、歴史の上でよく知られています。
日本に馴染みの深いその一人がフランシスコ・ザヴィエルです。ザヴィエルは、ご存知のように、インドから宣教師として、初めて日本にキリスト教を伝えた人です。この時から、日本のキリシタン史が始まりました。1549年のことでした。



「一粒の麦」
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「全世界を手に入れても」に似ているのが、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」の言葉です。

「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、死ねば、豊かに実を結ぶ。自分の命を大切にする者は、それを失い、この世で自分の命を顧みないものは、それを保って永遠の命に至る」。

「わたし(神の子)に使えようとする者はわたしに従え。そうすれば、わたしのいる所に、わたしに仕える者もいることになる。父(である神)は、わたしに仕えようとする者を、大事にしてくださる」。
                                    (ヨハネによる福音書 12章24-26節)


生と死に関するこの麦粒の比喩は、イエス自身の死の意味とキリストを信じる者に適用されます。「豊かに実を結ぶ」は、「永遠の命に至る」ことです。全世界の富にも勝るもの、それは「永遠の命」であり、父である神が大事にして、その「いのち」の中に入れてくださるのです。

それを可能にしたのは、イエスの十字架の死による救いです。一粒の麦が地に落ちて死んだのは、すべての人が、豊かに生きる(永遠の命の)ためであったのです。


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                エル・グレコ  〈十字架上のキリスト〉



「全世界を手に入れても」と「一粒の麦」の言葉がしめすのは、この世の富を命とする者に比べると、来世の命を大切にする者の幸福は、はるかに偉大であるということが語られています。



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by francesco1hen | 2017-08-20 10:36 | Comments(0)
2017年 08月 15日

聖書の言葉シリーズ(8) 「人を裁いてはならない」と「人のあやまちを赦せ」            

「姦通の女」の記述を読むとき、わたしたちは、ルカによる福音書の「人を裁いてはならない」というイエスの「裁いてはならない。そうすれば、あなたがたも裁かれない。人を罪びとに定めてはならない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(6章37節)という言葉を思い出します。

これと同時に想い起こされるのは、マタイによる福音書18章21-35節の「人のあやまちを赦せ」という記述です。そのとき弟子のペトロがイエスのところに来て、「主よ、兄弟がわたしに罪を犯した場合、何度赦さなければなりませんか。七回までですか」と言いました。イエスはこれに答えて、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までである」と。・・・・そして、最後に「わたしの天の父も、もしあなたたちの一人が、自分の兄弟を心から赦さないならば、あなたたちと同じようになさるであろう」と結びました。

イエスは、赦すことは、恵みに充ち憐れみ深い神の御心であると諭し、同時に、人も他の人の過ちを赦すべきことを強く教えています。
      
イエスは、 姦通の罪を犯した女を裁かず、罪に定めませんでした。イエスに赦されて救われた女は、深い喜びを心に抱きながら、新しい人生を送ったに違いありません。


7の70倍は、490です。この数にちなんだ珍しいものがあります。カトリック藤沢教会の祭壇背後には、7の70倍までも「赦しなさい」という意味深い490の「木片モザイク」の装飾がほどこされています。

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         カトリック藤沢教会の珍しい八角形の聖堂



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救い主イエスに赦された例はたくさんあります。ゴルゴタの丘で、イエスの左右に磔にされた犯罪人の回心の例が有名です。

十字架にかけられた犯罪人の一人が、冒涜の言葉を吐いて、「お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ」と叫びました。すると、もう一人の犯罪人がこれをたしなめて、「お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を恐れないのか。われわれは自分のやったことの報いを受けるのだから当たり前だが、この方は何も悪いことをなさっていないのだ」と言い、「イエスさま、あなたが神の国に行かれたときには、どうかわたしを思い出してください」と願いました。イエスは、「あなたによく言っておく、今日、あなたはわたしとともに楽園にいるであろう」と告げました。

極悪の犯罪人も悔い改めることによって罪を赦され、神の国(楽園)に招かれたのです。この赦しは、イエスによる赦しのすばらしい結末といえましょう。この犯罪人は、最高の喜びの栄光「神の国」のうちに迎えられたのです。

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             ルーベンス  ゴルゴタの丘のイエスと犯罪人









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by francesco1hen | 2017-08-15 22:32 | Comments(0)
2017年 08月 12日

聖書の言葉シリーズ(7) 「人を裁くな」と「姦通の罪を犯した女」            

「人を裁くな」(マタイによる福音書7章1−5節)

人は、しばしば自分の欠点に気付かず、人の悪いことを注意・非難することがあります。聖書はそのことを面白く反省させています。


裁いてはならない。そうすれば、あなたがたも裁かれないであろう。あなたがたが人をさばくように、自分も裁かれ、あなたがたが量るその升で、あなたがたにも量り与えれるであろう。

(ここで初めの「裁く」は人を罪があると決めつけること。つぎの「裁く」は神の裁きと罰を指しています。つぎの言葉が痛いように響きます。)


兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ、自分の目にある丸太に気付かないのか。自分の目に丸太があるのに、兄弟に向かって、「あなたの目からおがくずを取らせてくれ」と、どうして言えるだろうか。偽善者、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取ることもできるであろう。

(自戒すべき言葉ではないでしょうか。)

「針の穴」とか、「目の中のおがくずと丸太」と言うような誇張した表現は面白いですね。イエスには、ユーモア的センスがあったのかもしれません。



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         レンブラント 〈姦通の罪を犯したの女〉

   レンブラントのこの絵画は、聖書の場面をもれなく描いています。


「姦通の罪を犯した女」(ヨハネによる福音書8章1−11節)

徴税人とともに罪びとにされていたのは、罪深い女と呼ばれていた女たちでした。ヨハネによる福音書の八章に非常に印象的な「姦通の女」の記述があります。


イエスが朝早く神殿の境内に入ると、民衆がイエスのところへ来たので座って教えはじめました。
そこへ律法学者とファリサイ派の人人が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て真中に立たせ、イエスに問いかけました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まったのです。モーセは律法のなかで、このような女を石を投げて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あたはどう考えますか」と。これはイエスを試して、訴える口実を得るためにした質問でした。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始めていました。それを見て彼らはしっこく問いかけれるので、イエスは身を起こして言いました。「あなた方の中で罪を犯したことのない人が、まず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書きつづけました。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていきました。

イエス一人と真中にいた女が残りまし。イエスは身を起こして「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか、誰もあなたを罪に定めないのか」とたずねると、女は「主よ、誰も」と答えました。するとイエスは言いました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない」と話しました。


                          *



異常な事態の推移を固唾をのむ気持ちで読むわたしたちは、このイエスの絶妙な言葉と姦通の現場で捕らえられた女の気持ちを察するとき、深い感動を覚ええます。ここに書かれている情景は、わたしたちに非常に強い緊張感とともに、事態の展開になみなみならぬ興味をいだかせます。


光の画家レンブラントは、この緊張感みなぎる聖書の場面をもらすことなく克明に描き、人々の感動を呼び起こしています。

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by francesco1hen | 2017-08-12 16:07 | Comments(0)
2017年 08月 10日

「南八ヶ岳 花の森公園」には、驚きました。

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国道141号線の 道の駅「南きよさと」に、おもしろい「南八ヶ岳 花の森公園」があります。
「まごい駅」からリフトカー「こいのぼり号」に乗って、全長180メートル、3分、国道から100メートルの高さの「まごい駅」終点に、広い面積をもつ台形状の山「南八ヶ岳 花の森公園」があります。

家族ずれの人々にとってまことに好都合な公園です。園内には、「収穫体験青空農園」果樹エリアと菜園エリア、樹木のエリア、花のエリア、また、体験教室やピザ作り体験・夏野菜収穫体験・サクランボ狩りなどがあります。遊歩道は広がり、広い「わんぱく広場」もあります。


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10本ほどの高いポプラの木が見えます。高い山の上にこんなに高いポプラがあるのにおどろきます。


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その上、こんなところに大温室があるのには、さらに驚きです。そして、此処「わんぱく広場」は、思い切り遊べる広さがあり、子供も大人も自由に遊んでいます。


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高いポプラの木におどろきましたが、こんな山にも高いやなぎの木があるのに、また驚きました。


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      100メートル下に 道の駅「南きよさと」が見えます。その先が国道141号線です。





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by francesco1hen | 2017-08-10 17:47 | Comments(0)
2017年 08月 09日

聖書の言葉シリーズ(6) 金持ちの青年と「針の穴」

「金持ちの青年の話」

ある青年がイエスに近寄って、「永遠の命を受けるためには、どのようにすればいいのでしょうか」と尋ねました。イエスは、律法の掟を守りなさい、と。「子供のときから守っています」と青年は答ました。イエスは彼をじっと見て、愛情を込めて言いました。「あなたに欠けていることが一つある。行って、もっている物をことごとく売り、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を蓄えることになる。それから、わたしについて来なさい」。青年はこの言葉を聞いて、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きました。多くの財産を持っていたからです。(マルコによる福音書10章17-22節)


この話のあとで、聖書は「富の危険」についての記述をしています。そして、ここに「針の穴」のことが出てきます。


「富の危険」

イエスは弟子たちに言いました。「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持が神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。弟子たちは非常におどろき「それではいったい誰が救われるのだろうか」と話し合いました。(同10章23-27節)

元来ユダヤ人は、この世の財宝は神の祝福のしるしといていました。それで弟子たちは、現世の富や財宝を危険視するイエスの言葉に驚いたのです。しかし、イエスは当時の常識をくつがえすように、この世の富や財宝に執着せず、最も大切な神の国の「永遠の命」を求めることが肝要であると呼びかけているのです。現代のわたしたちも、経済的豊かさを求めることだけに、気を奪われていることには問題がありますね・・・・・ 。


ところで、気になるのは、「らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」ということです。「針の穴」はつぎのようです。

エリコの城門は、日没になると門を閉じます。夜間には必要に応じて、小さな門を開きます。
この門は荷物を運ぶラクダ一頭だけが通れるくらいの大きさで「針の穴」と呼ばれていました。
つまり、それは夜警対策としての小さな門でした。                
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by francesco1hen | 2017-08-09 15:25 | Comments(0)
2017年 08月 08日

聖書の言葉シリーズ(5) 意外な言葉「敵を愛しなさい」


    「敵を愛しなさい」!?     


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          V. v. ゴッホ  〈善いサマリア人〉


「敵を愛しなさい」と言われれば、だれでも「そんなこと出来るはずがない」と、即座に答えるでしょう。
遠慮がちな人でも「それはちょっと・・・」と、迷惑そうな顔をします。常識的にいって意外な言葉「敵を愛しなさい」が、受け入れ難いのは当然のことです。

ところが新約聖書には、つぎのように書かれています。

「しかし、わたしはあなた方に言う。敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。
それは、あなたがたが天におられる父の子であることを示すためである。
天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。 ・・・・・ 

 だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさい」。
                            (マタイによる福音書 5章43−48節)

同じような言葉が、ルカによる福音書の6章27−36節に出てきます。最後の部分は、つぎのようになっています。

 「・・・・・ あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。



                         *



これに関連する「善きサマリア人のたとえ話」が、ルカによる福音書の10章25−37節に出てきます。

イエスは話しました。「ある人がエルサレムからエリコに下がっていく途中、強盗に襲われた。彼らはその人の着物をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにしたまま行ってしまった。すると一人の祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見て、道の向こう側を通っていった。また、同じく、一人のレビ人が、そこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。

ところが、旅をしていたあるサマリア人が、その人のそばまで来て、その人を哀れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてやった。それから自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き、介抱した。その翌日、サマリア人はデナリ銀貨二枚を取り出して、宿屋の主人に渡し、『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰ってきたときに支払います』と言った。

さて、あなたはこの三人のうち、だれが、強盗に襲われた人に対して、隣人としてふるまったと思うか」。律法学者が、「哀れみをほどこした人です」と言うと、イエスは、「では、あなたも行って、同じようにしなさい」と言いました。


三人のうち、祭司とレビ人は同胞のユダヤ人です。サマリア人は、ユダヤ人から罪びととして軽蔑され、敵対視されていました。にもかかわらず旅をしていたサマリア人は、半殺しにされていたユダヤ人の旅人を哀れに思い、丁寧に介抱しました。敵であるようなユダヤ人であっても、苦しんで助けを必要としている人を見て助けずにはおられなかったのです。


天の父が完全であるように、また、憐れみ深いように、あなたがたもそのような者になりなさい、というイエスのおしえは、悪人でも正しい人でも、すべての人は、神の国に招かれている大事な存在。生かされている一人ひとりは、神から愛されている尊い存在であるから大切にしなければならない、ことを教えています。


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ゴッホは30歳のころハーグの町でクリスチティーヌという名の娼婦を拾って同棲しています。ゴッホは弟のテオに書き送っています。「クリスティーナは、惨めな生活に荒れ果て、色あせ、顔も体も骨張って、女の甘い香やふくよかさはとうに消え失せていた。男にだまされて生んだ5才の女の児を抱え、父親の知れない赤ん坊をお腹に宿していた。僕はこの冬、男に捨てられた彼女をモデルに雇い、ひと冬の間一緒に働いた。おかげで、僕は彼女と娘を飢えと寒さから救い出した」と。

ゴッホは、困窮に打ちひしがれていた惨めな娼婦クリスティーヌを見る見かねて、同情して生活をともにして救ったのです。こういうゴッホが描いたのが、このゴッホの〈善いサマリア人〉の名画です。



                        *  *  *



      憐れみの心からの「共感同苦」   相手の隣人となって、その人を助ける「隣人愛」



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by francesco1hen | 2017-08-08 16:27 | Comments(0)
2017年 08月 05日

聖書の言葉シリーズ(4) イエスの福音宣教の第一声           

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ジョット 〈ヨハネによるキリストの洗礼〉


ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けたイエスは、ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えました。      

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい、と人々に福音の第一声を告げました。 


新約聖書には、「神の国」と「天の国」という同じような言葉が出てきます。調べてみますと、「神の国」は、マタイによる福音書では3回、マルコでは4回、ルカでは10回、ヨハネでは1回です。

「天の国」は、マタイによる福音書だけに22回出てきます。ヨハネによる福音書では、「神の国」が1回ですが、同じ意味をもつ「永遠の命」という言葉が17回も使われています。そのためヨハネによる福音書は、「永遠の命の福音書」といわれています。                                      

イエスの福音の第一声は、すべての人は「神の国」に招かれているという「よい知らせ」でした。
神に似せて造られた人間は、神と共にいるべき存在として創造された者です。


ヨハネによる福音書は、神の子イエスが人間のすがたでこの世に現れた理由について、つぎにように記しています。「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(3章6節)。                        

イエスは、救い主として人の世界に来たのであると言っています。 このことから、「神の国」は「永遠の命」を生きるところである、ということが出来ます。                      


イエスの福音の言葉は、人々にとって革命的な響きをもっていたと思われます。人間は誰しも地上の日常の富をもつことを幸福と考え、これを求めています。イエスは、「悔い改めて、福音を信じなさい」と、地上の幸福ではなく、神の国の幸福を求めるように、視点の転換を求めています。「神の国」に入ることは、神の「いのち」に入るということです。神と「いのち」をともにする「永遠の命」は、「至福」という最高の幸福です。                                                                                             イエスの福音の第一声は、人々には理解できないほどの「革命的な言葉」でした。            

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ヴェロッキオ 〈キリストの洗礼〉


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by francesco1hen | 2017-08-05 18:07 | Comments(0)
2017年 08月 02日

聖書の言葉シリーズ(3)「迷える羊」と「見失った羊」            

九十九頭の羊を山に残して、迷いでた一頭の羊を捜しに行く羊飼いの話はよく知られています。これにちなんで、「一人の命の重さは、地球よりも重い」ということがよく言われます。
 
聖書の記述は、つぎのようです。

あなたたちはこれらの小さな者の一人をも、軽んじないように気を付けなさい。・・・・・
ある人が百頭の羊を飼っていて、そのうち一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭の羊を山に残し、迷った一頭の羊を捜しにいかないであろうか。そしてもし見つけたなら ー あなたたちによく言ってく ー その人は迷わなかった九十九頭の羊よりも、その一頭を喜ぶであろう。
このようにこれらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなたたちの父のみ旨ではない。
   
                             (マタイによる福音書18章10−14節)


 「一人でも滅びること」は、神の国に入れないこと。神の国とは、神と交わりそのものです。交わりは、完全に一つになって、神と「いのち」を共にすることで、至福の状態に入っていることです。この最高の幸福に招くことが、神のみ旨(意志)です。


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同じような「見失った羊」の話は、ルカによる福音書の15章4−7節にでてきます。


ルカによる福音書の15章は「あわれみの福音書」といわれ、神のあわれみに関するたとえ話が三つでてきます。「見失った羊」と「なくした銀貨」と「放蕩息子」が、それです。

このたとえが話されたときの情況は、徴税人や罪人たちが、イエスの話を聞こうとして近寄ってきたので、パリサイ派の人々や律法学者たちが「この人は罪びとたちを迎えて、食事も一緒にしている」とつぶやいていたので、イエスが三つのたとえ話をしたのでした。この事情を知った上で、「見失った羊」のおわりの部分を読んでみたいと思います。


「・・・・。このように、悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、天においてはもっと大きな喜びがあるであろう」。


                             *


このたとえは、神から離れている者が神に立ち戻ることは、神の大きな喜びであることをよく示している言葉です。それほど神は一人ひとりの人間を大切にされているのです。この神のみ旨をイザヤ預言者は「神の目に人は尊い」(神は一人ひとりの人間を大事にしている)という言葉を使っています。


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            羊を肩にのせている善い羊飼いイエス(ロシア・イコン)



ルカによる福音書では、羊飼いが「見失った羊を見つけ出すと、喜んで自分の肩にのせて、家に帰り、友人や近所の人びとを呼び集めて、『いっしょに喜んでください。見失ったわたしの羊が見つかりましたから』と言うであろう」と書いてあります。


                             *


このたとえによって、神のあわれみは、罪ぶかい人やとるに足りない価値のない者にも注がれているのだと、イエスは告げているようです。



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by francesco1hen | 2017-08-02 10:23 | Comments(0)
2017年 08月 01日

聖書の言葉シリーズ(2) イエスは「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」            




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羊がいるイスラエルの風景               
                          
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                        ガリラヤ湖 この辺りから福音は宣べ伝えられた



イエスは、律法学者やパリサイ派人々から「大酒飲みの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」と軽蔑され悪口を言われていました。あるときは、学んだことのない無学者とか悪霊つき、と言われたこともあります。

律法学者やパリサイ派の人々は、律法に精通し、これを厳格に守ることを人々に要求していました。律法を守らないものは罪びとであると決めつけていました。そして、自分たちは完全であると思い込んでいました。

ところが、イスラエルの社会では、祈る時間がない貧しい人や病人・罪深い女・徴税人、そして、敵対視されていたサマリア人たちは、それぞれの理由から求められるように律法を守れない事情がありました。そのために、不当にも罪びとにされていた人々でした。

イエスが特にあわれみの目を向けて愛したのは、このような人びとでした。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」と言っています。

イエスは、パリサイ派の人や律法学者から責められて罪びとにされた人びとを救い出すために、その苦しみに捨ておかれ、蔑まれ排斥される彼らの立場に「共感同苦」して、彼らに寄り添って共に食事をし話を聞きながら語り、時を過ごしていたのでした。


                        *



 このようなことは、「新約聖書」によく書かれています。


   さまざまな病人を癒す(マルコによる福音書 1章32−34節)
   ヤイロの娘と出血病の女の話(マルコによる福音書 5章21−34節)
   罪深い女赦される(ルカによる福音書 7章36−50節)
   徴税人の頭レビ(マタイ)、イエスの弟子として召し出される(マタイによる福音書 9章9−13節)
   サマリア人の女との問答(ヨハネによる福音書 4章1−30節 39−42節)

例を示すならば、このような話などがあります。


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              善い羊飼いイエス (ローマ時代の彫刻)






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by francesco1hen | 2017-08-01 16:34 | Comments(0)