家田足穂のエキサイト・ブログ

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2011年 04月 26日

《兄弟太陽の賛歌》と『興願僧都への御返事』           「捨てる」という霊性について(5’)

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アシジのフランチェスコは、彼自身が作った《兄弟太陽の賛歌》(『被造物の賛歌』とも)でも知られるように、神によって造られた被造物はすべて兄弟姉妹であるという心を持っていました。太陽や月,空気や水、大地の草花にいたるまで神を賛美している兄弟姉妹であると自然を愛していた彼は,
1979年11月29日,教皇ヨハネ・パウロ2世から「環境保護の聖人」と宣言されました。

「捨聖」一遍が興願僧都への手紙の中で書いた「よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずということなし。人ばかり超世の願に預かるにあらず」と、人間だけが成仏するのではなく,命あるすべてのものが救われて成仏できるのだ、と人間の思い上がりをたしなめています。


地球上を征服し資源を極限まで使い,快適便利な生活を追い求める現代文明は、地球環境を破壊するまでに危機を拡大してきました。また、この文明の方向は、金融危機や世界同時不況を引き起こし,
気候変動による自然災害や不当な国家権力の抑圧によって,地球上の各地域で多くの人々を厳しい困窮・困難な状況の中に陥れました。


宇宙の森羅万象が神を賛美する兄弟姉妹であるというフランチェスコの霊性や、生あるすべてのもの
吹く風,立つ浪の音までが,仏になる性質、仏性(ぶっしょう)備えているという、謙虚で慈しみ深い一遍のとらえかたを知るとき、人間の傲慢な考えで現代文明を生きている「われわれ」にとって、
彼らの考え方には大きな意味があると、謙虚に反省しなければならないと思います。


フランチェスコと一遍の生きた姿やその「捨てる」という霊性から、現代世界を生きる「われわれ」が学ぶメッセージはたくさんあります。

「断捨離」によってフランチェスコや一遍が、あらためて発見した世界は、このようなものでした。


《シャローム・平安!》




壁画の絵の題名は「清貧の聖人」フランチェスコの《小鳥への説教》です。









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by francesco1hen | 2011-04-26 11:31 | Comments(0)
2011年 04月 25日

なにを「捨てる」のですか     「捨てる」という霊性について(5)

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『断捨離』という有名な本があります。これはこれはものに満ち溢れて困っている人々に対する、みごとな整理術指南の本で脚光を浴びました。

本欄での「捨てる」という霊性 は、「清貧」無所有を生きたフランチェスコと、一切捨離の「聖」
一遍が自己の内面までの「断捨離」を実行した宗教生活を見るものです。そして、それが大事にしなければならない人間的な生き方であったことに注目したいと思っています。


得るために「捨てる」

生き方の根底となった「捨てる」ということで、この両者の生活の目立った特徴は、清貧・無所有と
一切捨離でした。持つべきはずのものを,また持つことによってものすべてを満たすよりも,もっとも大切なものを得るために「捨てる」べきものを捨てるという、価値観を変えるということは、彼らが生み出した大きな世界のはじまりでした。

アシジのフランチェスコが金銭に対して極端とまでいえる嫌悪を示し,金銭欲からの脱却を求めたり,社会から隔離され排除されていたハンセン病患者などの重病人や物を乞う人びと、盗賊たちにまで与えた好意や奉仕,さらには、すべての人に「平和の挨拶」を持ち運んだのは、人々にもっとも大切なものを知ってほしかったからです。

同じように一遍が、癒しを望んでいるハンセン病患者やさげすまれていた乞食・非人たちを助け,女性をはじめ救いを求めているあらゆる階層の人々に配慮して,諸国に念仏を勧める遊行の旅を続けたのも、フランチェスコの熱意と変わることがありませんでした。

社会で彼らが行った行為は、「すべての人が、神の国に迎えられている」、また「生きとし生けるものは、阿弥陀仏の救いを受ける」と、この世でも来世でも平和と安楽があるというメッセージを送り続けることでした。

       ここで、「平和」ということを考えてみたいと思います。

「平和」とは単に戦争や争いのない状態だけではなく「欠けたものがない状態」「神の恵みに満たされている状態」を意味しています。もちろん現代において政治的紛争や武力衝突のない状態はなくてはならないことです。不正な力によって平穏さが保たれているような状態は「平和」とはいえません。

金融工学によってマネーが最大の価値として求められ,社会や人々の心を壊すような社会の中で人間の幸福な状態はあり得ません。生存すら脅かされ、人間としての自由や権利を奪われるような国家の状態は、決して許されることではないでしょう。地上での正義や弱者への配慮にもとづく「平和」が、未来の「平和」につながるためにも発想を転換し,価値観を変えることが求められます。

ここでまた、あらためて「平和」ということの、さらに深い意味を考えてみなければなりません。
これから、そのことにさらに近づいていきたいと思っています。


《シャンティ・平和!》


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by francesco1hen | 2011-04-25 22:53 | Comments(0)
2011年 04月 24日

生きることにおいて、何が大切なのでしょうか?          「捨てる」という霊性について(4)

価値観を変える

社会から排除されたり,無視される社会的弱者の存在はどの時代にもありました。現代のように富が集中・偏在する豊かな国々や人々がいる中で、一方では貧困に苦しむ人々がいることは,正義と社会的弱者に対する配慮の欠如としか言いようのない事態です。さまざまな事情によって貧困な状態におかれた社会的弱者,および、その存立を脅かされる被抑圧者の増大は現代世界の特徴の一つです。

もう一つの現代世界の特徴として,世界的な巨大消費によって資源の枯渇から免れず,また,それによる地球温暖化という人類の生存を脅かすという事態もあります。無際限に化石燃料を使い,資源の枯渇を引き起こすような経済のあり方は,現代文明が破滅の方向に進む予感すら感じさせます。

現代社会の巨大消費や巨大な欲望を方向転換させなければ、未来への希望をもちえないところまできているのではないでしょうか。

十三世紀の西欧では,ゴシック様式の美麗な大聖堂が相次いで建てられたり,また,同世紀の鎌倉時代中期は,教えの本拠として荘厳な寺院が求められるような時代でした。

それでも、アシジのフランチェスコや一遍は、自身の教えを広げるための修道院や聖堂を,また寺院を求めることもなく,宗派や宗門をもひらかず,もっとも弱い立場の人々にいたるまで、ひたすら教えの真実を伝えようとしました。「平和の挨拶」を届け,「念仏札」を配り歩きました。

規模の巨大さや機能の優秀さのみをことさら求める我々の現代は,フランチェスコと一遍の姿に,あらためて目を向ける必要があるのではないでしょうか。



              《 シャンティ・寂静 = 平和 》



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by francesco1hen | 2011-04-24 15:48 | Comments(0)
2011年 04月 23日

「清貧の聖人」フランチェスコと「捨聖」一遍           「捨てる」という霊性について(3)

前回末尾の「シャンティ・寂静」は、これもサンスクリット語です。寂静が仏教で使われている訳語です。シャンティの現代語訳は「平和」です。理解し難い仏教用語も、実は平易に受けとめることができるのです。次のこともそれを示しています。

寂静は、釈迦が悟りをひらいた境地「涅槃(ニルウァーナ)」と同じ意味です。このニルウァーナは、中村 元博士によって「絶対の安らぎ」と現代語に訳されています。

《シャンティ!》はヨガの修行の前に三回唱えられています。心の安らぎに集中するためでしょう。


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念仏賦算をする一遍上人

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フランチェスコの最初の肖像画


「捨てる」という霊性は語り始めます。

十三世紀の西欧と日本は、政治や社会の状況や宗教界でさまざまの問題を抱えていた激動の時代でした。そしてそれぞれの時代の中から現れたアシジの聖フランチェスコは「清貧の聖人」として、一遍は「捨て聖」として、彼らの属していた社会に重大な影響を及ぼした人物でした。

この傑出した宗教者であった二人がわれわれの注目を惹くのは,彼らがほぼ同時代に生き,宗教と文化の異なる中で宗教生活と行動が非常にたくさんの似た側面をもった人物であったことです。

この二人の相似の部分は,すべてを捨てた清貧・捨棄の徹底性と完全な自己放棄と超越的な存在への一体化・絶対帰依であると言えます。

十三世紀という西欧と日本がまったく関係を持たなかった時代に,このような人物がいたという事実には驚きます。このことはまた注目に値します。

フランチェスコとその兄弟たちは,西ヨーロッパの多くの人々一人ひとりに「平和の挨拶」を届け、
彼らの生きた時代を新しい時代へと変え始めていました。その一方、わが国では、一遍と彼に帰依した「時衆」たちが、全国各地に足を運んで念仏札を配り、「踊り念仏」によってあらゆる階層の人々に衝撃的な心の喜びを与えていました。

現代世界で人々は、科学や文明が進歩すれば人間は幸せになるということに疑問を抱いています。 

その我々にとって、フランチェスコや一遍が「捨てること」によって求めえた「真の幸福」とはどのようなものであったかを知ることは、たいへん大事なことではないかと思います。


おわりにも、皆様に《シャローム・平安!》の挨拶をおくります。








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by francesco1hen | 2011-04-23 17:17 | Comments(0)
2011年 04月 22日

アシジの聖フランチェスコと一遍上人の《挨拶》          「捨てる」という霊性について(2)

前回のおわりのところで、《シャローム・平安!》という挨拶の言葉を使いました。

シャロームはイスラエルの挨拶の言葉です。ガザ地区の人びとも「サラーム」と挨拶をしています。
ヘブライ語の「シャローム」にはたくさんの意味があります。平和・平安が主な意味ですが、そのほかに、健康,健全、繁栄、充実,充満、完全というようにたくさんの意味をもった言葉が挨拶として使われています。そういう意味で素晴らしい挨拶の言葉です。

カトリック教会では、昨日はイエスの「最後の晩餐」を記念するミサが行われました。この最後の晩餐でイエスは弟子たちに「わたしはあなたたちに平安を残す。わたしの平安をあなたたちに与える」
と語りました。この「平安」は単なる別れの挨拶ではなく、神から与えられる安らぎ・幸福の意味をもっています。

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インドの人びとは挨拶の言葉として「ナマステ!」を使います。この言葉もまた素晴らしい意味を持っています。「わたしはあなたに信頼します。」「信頼しています,どうかよろしく」という心が込められています。今のヒンヅー語のナマステは、元々古代インンドのサンスクリット語から来ています。中国人はこれを音訳して「南無」と表わしました。これがそのまま仏教の言葉として日本に入ってきました。

アシジの聖フランチェスコは生涯の間、出合うすべての人びとに次のような挨拶を贈り続けました。
「神があなたに平和をお与えになりますように!」。この平和は「最後の晩餐」のときの平安と同じ意味です。これが彼のキリストの福音を伝える基本的な姿勢でした。

「捨聖」一遍上人も生涯をかけた遊行の旅のあいだ、「南無阿弥陀仏」と印刷された念仏札を九州から東北の各地・全国、津津浦々の人びとに配り歩きました。阿弥陀如来の救いをすべての階層の人びとに差別することなく伝えたのでした。

「シャンティ・寂静!」








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by francesco1hen | 2011-04-22 11:44 | Comments(0)
2011年 04月 21日

「捨てる」という霊性について(1) はじめのご挨拶

拙著 家田足穂『「捨てる」という霊性 聖フランチェスコと一遍上人』(オリエンス宗教研究所)が、今もネットの書店で、次のような二つの文章で紹介されています。


ただひたすらに「捨てること」で真の幸福を求め続けた聖フランチェスコと一遍上人。金銭を得ることが目的化し,あくなき所有を繰り返しながらも心が満たされることのない現代にあって「清貧の聖人」フランチェスコと「捨聖」一遍の霊性は我々に新たな希望を指し示す。

徹底した清貧に生きた修道者、聖フランチェスコと鎌倉新仏教の一つ時宗の開祖,一遍上人の人となりを残された資料から浮かび上がらせ,現代に生きる私たちに「捨てる喜び」という新たな価値観を呈示する。

                           *


ここで「霊性」という言葉は、宗教的生き方,または、宗教的生活という意味を持っていますが、もっと広く深い意味はこの「ブログ」を読み進めていくうちに解ると思います。

これからの「ブログ」では,本の中の内容を少し柔らかく加工して皆さんにお伝えしようかと思っています。では,またお目にかかります。


《シャローム・平安!》を。

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アシジの聖フランチェスコ



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時宗の開祖 一遍上人








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by francesco1hen | 2011-04-21 16:03 | Comments(0)