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2011年 08月 16日

(10)諸宗教の究極目標「神と一つになる」(その3)

四季の変化のうちに、また、無常観や芭蕉の「不易流行」(移ろい変わることが不変である)のもとで日本人の心は表わされ、日本の文化は発展してきたと言えます。文人墨客たちは自然を美しく歌い、また描いてきました。そして「自然との同化・一体感」を求めてきました。「自然との同化・一体感」と「神々との共存」は、日本人の歴史的心情や精神性の重要な部分を形成してきました。

茶道では、宇宙・自然の縮図のような茶室で「和敬清寂」「賓主互感」の雰囲気のうちに、菓子を食べ風雅な茶碗で抹茶を喫しながら、「深い交わり」の境地を味わいました。茶室を辞去する時にも「余情残心」のうちに帰路につくという「人との交わり」の素晴らしい時をもっていました。

「自然との同化・一体感」のうちに、このような交わりを持つ人間のあり方は、キリスト教の精神性につながるものを含蓄しているように思われます。

カトリック教会で行われるミサ典礼(礼拝)の中では、「交わりの儀」という重要な部分があります。聖体拝領と言うミサの中心部分で、パンとブドウ酒の形色のうちにキリストの御体と御血を食べ飲む儀式です。これは最後の晩餐のときの聖体の制定にもとづく礼拝行為です。
 
福音史家ヨハネが伝えている次のような言葉があります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしに留まり、わたしもその人の内に留まる」(6,56)。キリストの御体を拝領することによって、人はキリストと実際に「一つに」なります。

神が人々に留まり、人々が神に留まるということは、最後の晩餐のときイエスが「父である神と、
父の子であるイエスと、イエスを信じる人々が完全に一つになっている」ことを述べたヨハネ福音書
14,20の言葉を併せて考えることによって明らかです。

神との交わりが、最も深いところでおこなわれる聖体拝領(communio キリストとの一致)は、天国における「愛の完成」という神の内で人間が永遠の命を生きることの、この世での体験です。地上でも天の国でも「神と一つになる」ということは、キリスト教に限らず諸宗教における究極的な願望です。

宗教は《希望と喜び》の中で、神秘のうちに「神と一つになる」ことを求めて生きることです。

この度、日本が経験した未曾有の東日本大震災と福島原子力発電所の事故は、日本人のみならず世界中の人々に計り知れない衝撃を与え続けています。この巨大な自然の破壊力がもたらした大災害と底知れな不安と恐怖を拡大している原発事故から、われわれは何を学び取らねばならないのでしょうか。

世界史の中で、われわれは繁栄を誇った数多くの文明の崩壊を見てきました。また、われわれは現代の数々の不幸な出来事を併せて考えるとき次の言葉の重い意味を感じざるをえません。

「天地は過ぎ去る(滅びる)。しかし、わたしの言葉は過ぎ去る(滅びる)ことはない」(マタイ福音書 24,34)。「滅びないもの」を求めることが、今、与えられている大事な課題ではないでしょうか。


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by francesco1hen | 2011-08-16 23:22 | Comments(0)
2011年 08月 14日

(9)諸宗教の究極目標「神と一つになる」(その2)

ギリシア神話を信じていた人たちにとって、神々は理想の存在でした。神々はアタナトイ・不滅であると考えられ、人間はタナトイ・死すべきものであり、その区別(運命)は厳格に守られていました。

ベレロポンテスは、神々に寵愛され天馬ペガソスを与えられ、怪獣キマイラなどを退治して有頂天になり、神々に列しようとペガソスを駆って天空に昇り、神域に入る直前にペガソスは力を失い彼は天空から墜落してアレイオンの野原に落ち、気が狂い不具者となって世界を放浪しなければならない運命に定められました。

にもかかわらず、アリストテレスは「人間はできるかぎり不滅(神々のよう)であらねばならない」と言っています。実はこのことには、古代ギリシア人があの素晴らしい文化を作り上げた精神であったと言われています。人間が極限まで努力したところに、ギリシア文化は生まれたのでした。

ソクラテスは「できるだけ魂をすぐれたものにしなければならない」と言っています。その弟子プラトンは「人間の情熱・エロースは最高の善であり美であるイデアに限りのない憧れをもっている」といっています。絶えず向上していくという精神は、現代のヨーロッパ人の共有の遺伝子ともなっています。

人間のエロースが、神的存在であるイデアに限りなく憧れ続けても、イデアはこれに応えてくれる人格的存在ではありません。最高の存在ではあるけれどイデアは非人格的存在です。

いっぽう、古代ギリシアには、神々と人間を区別するというオリンポスの神々のギリシア宗教とはちがう性格をもった、オルペウス教とディオニソス教という宗教があります。この両者は、ともに「神との合一」を目指す宗教です。

オルペウス教について話しますと、その名前が「アポロンの語り手」という意味をもつピタゴラス(前6・5世紀)がいます。彼はオルペウス教の信奉者であり、この宗教を哲学的な高さに導いた人物です。

南イタリア・クロトンにいたピタゴラスは、この秘儀宗教の禁欲と苦行の重視に対して、天体から聞こえてくる音楽による魂の調和と秩序によって魂の浄化がおこなわれ、もともと魂があったところ、神のもとに帰ることができる、と考えました。この宗教による「救い」とは、魂の肉体からの解放と輪廻からの解脱による「神と人の合一」です。

ディオニソス教で中心になるのはディオニソスです。ディオ・ニソスは、《ゼウスの息子》という意味で、「神から生まれた子」であると同時に、人間セメレーに孕まれ「人間の子」として生まれたという「二重の誕生」の子です。つまり、神から人間になった存在であり、逆にいうと、人間が神になりうる可能性を持っているという象徴です。

ディオニソス教の秘儀の犠牲として用いられるものは、雄牛、または、山羊ですが、これはディオニソスの神格の表象、神体そのものと信じられ、信徒はその生肉を食べることによって神の力を身体に取り入れ、神の不死・不滅に与ろうとした、と言われています。葡萄酒・音楽・舞踊・供儀の肉は、
人間が祭儀を通して「神と一体化」するために欠かすことのできない聖なるものであったのです。

ギリシア神話の宗教とは違って、オルペウス教もディオニソス教もともに「神と人の合一」「神との一体化」を求めた宗教であったようです。

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ヴァンジ彫刻庭園美術館にて
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by francesco1hen | 2011-08-14 19:09 | Comments(0)
2011年 08月 12日

(8)諸宗教の究極目標「神と一つになる」(その1)

旧約聖書の『雅歌』に出ている「あなたはわたしのもの、わたしはあなたのもの」という愛する者の言葉は、愛によって「一つになっていること」を表わしています。二つ以上のものが「一つになる」ことは愛の姿です。

諸宗教においても、神と一つになりたいという願い「神と一つになる」ことは、その理想として普遍的に見られることです。

古代インドの宗教のバラモン教では、紀元前8世紀に世界最古の哲学思想であるといわれるウパニシャット哲学が生まれました。そこでは宇宙の根源である最高存在ブラフマンが在り、ブラフマンは自ら創造した宇宙に入り込んでいます。人々は、このブラフマンと個々の小さな存在である人間アートマンは「同一不異」であるということを悟りの目標にしていました。つまり、最高存在であるブラフマンと人間アートマンの「完全な合一」を究極目標としていたのです。ここから「梵我一如」(ぼんがいちにょ)という言葉が出てきました。

このウパニシャット哲学の発展から仏教思想が生まれてきます。仏教における「仏我一如」や「成仏」も、ほぼ同じような意味をもっています。

一遍上人の言葉を借りれば、「仏になった阿弥陀仏と一たび念仏を唱えて成仏した衆生(すべての人々)は一つであり、絶対に二つでは無い」。また「衆生が念仏を唱えたとき、その身は仏に包み込まれて同一となる」ということになります。ここでは、救われたとき阿弥陀仏と衆生には区別が無いと考えられているのです。つまり、究極的には「仏と一つ」になっているのです。

12世紀末から13世紀初頭にかけて隆盛したアンコールワット遺跡のクメール美術でも、「神仏との一体」の憧れを見ることができます。

クメール王朝では、王を神仏と同体とするデヴァーラジャ(神王)信仰が行われていました。王族や貴紳たちも死後「神仏と一体」になることを願い、自分や親族を神仏の姿で表わした像を寺院に奉納していました。今ここで2つの例を見ることにします。

第1例、ジャヤヴァルマン7世は、若くして亡くなった最初の王妃ジャヤラージャデーヴィーを女尊になぞらえて、いわば彼女の肖像として造像したと言われています。

第2例、この像も死後の神仏との一体化をねがう信仰から、幼くして亡くなった小女をターラ
(多羅菩薩)またはプラジュニャーパーラミタ(般若波羅蜜多菩薩)になぞらえて造像したと考えられています。

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第1例 女尊
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第2例 女尊
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by francesco1hen | 2011-08-12 16:27 | Comments(0)
2011年 08月 11日

(7)最後の晩餐におけるイエスの別れの言葉(挨拶)

最後の晩餐と十字架上の犠牲(救い)は、イエスの生涯が集約的に表わされている場面です。
イエスは、神の愛がどのようなものであるかを人間に分らせるために生涯のすべての場面を使って、「神は愛である」ということを話してきました。そして、最後の晩餐の時には「愛について」徹底的に弟子たちに話しました。そして翌日には、十字架上でそのことを実際に示しました。

イエスは、エルサレムの最後の晩餐の席で弟子たちに語りました。「わたしはあなたたちに平安を残す。わたしの平安をあなたたちに与える」。イエスが述べた「平和・平安」は、神と人間の愛における完全な一致です。神の国においてはじめて実現される「愛の完成」とは、全能永遠の命である「神と一つに」なることによって、人間が神の永遠の命に入ることを意味しています。

その意味は、さらに同じ日の晩餐のときのイエスの言葉で表わされました。

「わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内におり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日(天の国に入ったとき)、あなたたちは悟であろう」(ヨハネ14,20)

このことは、全能永遠の神(父と子聖霊の三位一体の神)と人間が、完全に融け合うように「一つにる」という真理を短いことばで言い表しているといえます。

このように人間は、神からの愛に招かれて、その神の愛の中で「永遠の命」、すべてにおいて満たされた《いのち》を生きるのです。

神の方に向かうように創られた人間は、その源泉であり目標である神のもとに戻ったとき、はじめて「愛の完成」としての「永遠の命」に生きるのです。

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ジョット 「最後の晩餐」 パドバのスクロヴェーニ礼拝堂《イエスの生涯》から
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ジュリアーノ・ヴァンジ 紫の服の男
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ヴァンジ彫刻庭園美術館にて
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by francesco1hen | 2011-08-11 17:19 | Comments(0)
2011年 08月 11日

(6)ヨーガ修行の始めのことば《シャンティ!》

ヨーガの修行をはじめる前に、《シャンティ!ー シャンティ!ー シャンティ!_》を3回唱えます。合計9回の《シャンティ!》を唱えます。このサンスクリット語の《シャンティ・寂静(じゃくじょう)》は、精神を集中するために唱えられているそうです。

釈迦が菩提樹の下で、生・老・病・死の四苦から解脱して悟りをひらいた境地を、サンスクリット語で《ニルヴァーナ・涅槃(ねはん)》といいます。ニルヴァーナの語根は「吹き消す」の意で、煩悩の火がすっかり消える、つまり煩悩の苦しみからの解脱を示しています。このニルヴァーナを達成したところでは、内的にも外的にも「平安(シャンティ)」があるところから、この両者を合わせて「涅槃寂静(ねはん・じゃくじょう)」とも言っています。

《ニルヴァーナ・涅槃》ということばは、今日では中村 元博士によって「絶対の安らぎ」と訳されています。また、「涅槃」とおなじ意味をもつ《シャンティ・寂静》の現代語訳は「平和」です。

古代インドの仏教以来、漢訳された「涅槃寂静」は今日では「平安・平和」の意味で理解することができます。前回出てきた《シャローム・平安・平和!》ともおなじ意味です。これらの言葉からは、
「真の幸福」が何であるかが感じられますね!

やはり、「平和と幸福」は、切り離すことができない、根源的に、また究極的にも大事なものです。

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神奈川県藤沢市中心部に近いの新林公園の「深山幽谷」
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by francesco1hen | 2011-08-11 11:01 | Comments(0)
2011年 08月 10日

(5)イスラエル人の挨拶《シャローム!》

イスラエルのユダヤ人たちは《シャローム!》と挨拶します。ガザ地区のパレスチナ人は《サラーム!》と挨拶します。この《サラーム!》には、おかれた政治・社会状況から切実な叫びを感じます。
アラブ人は《マルハバ!》と、トルコ人は《メルハバ!》と挨拶を交わしています。イスラム教徒もユダヤ人たちとおなじ意味の挨拶をして、お互いの「平和・平安」を願っています。

ヘブライ語の《シャローム》は、平和・平安という意味をもっています。しかしこの言葉には、そのほかにもたくさんの意味があります。健康、健全、繁栄、充実、充満、完全など、あらゆる意味における幸福の状態を表わしています。さらに現実を超えた宗教的理想の状態をも意味しています。

さらに飛躍するようですが、イスラム教徒は出合うと互いに《アラー・アクバル!(神は偉り!)》と神を讃えます。このイスラム教徒の《イスラーム》というアラブ語の意味は「平和」です。さらに最も深い意味は、「神アラーと信徒モスレムの間の円融無障の完全な一致」を表わしています。《イスラーム》とは、まさに宗教的な最高の理想を表わすこの上なく素晴らしい言葉なのです。

平和・平安は、「幸福」な状態を意味しています。人は誰しも「幸福」を求めています。しかもこの幸福の最高の状態は「神と完全に一つになる」ことで、すべての人々が心の底で願っているのだ、と分るような気がします。

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ヴァンジ彫刻庭園美術館にて
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by francesco1hen | 2011-08-10 15:15 | Comments(0)
2011年 08月 10日

(4)アシジの聖フランチェスコの挨拶

「神があなたに、平和をお与えくださいますように!」

アシジの聖フランチェスコは、出合う人びと男にも女にもこのような挨拶を送りました。これは「平和の挨拶」といわれています。フランチェスコと彼の兄弟たち(フランシスコ修道会の会員)は、相手が貧しい人々から豊かで高貴な人々にいたるまでどのような階層の人々であっても、必ずこのように挨拶をしていました。

「平和」とはどんな意味をもっているのでしょうか。平和とは、たんに争いや戦争がない状態だけではなく、必要なものが完全に満たされている状態が「平和」です。幸福な状態ということも出来ます。

欠けたところのない状態の「神の平和」、「神から与えられる平和」が最も大切だと確信していたフランチェスコは、人々にこの「平和」が与えられるように、心から「平和の挨拶」を伝えたのです。

神の愛の招きに応えて、完全に満たされた「神と一つになる」命、神の愛の充満における至福こそ、「平和の挨拶」の究極の目標でした。「神の平和」を人々に先ず知らせることが、フランチェスコたちの生涯をかけた仕事でした。人々に最高の幸福をはこぶ、喜びに満ち溢れた生き方でした。

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ジョット 病人を奇跡的に癒す聖フランチェスコ

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ヴァンジ彫刻庭園美術館にて
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by francesco1hen | 2011-08-10 11:47 | Comments(0)
2011年 08月 09日

(3)一遍の念仏「六字名号」は救いの喜びの挨拶

六字名号とは「南無阿弥陀仏」の念仏のことです。

「遊行聖」一遍とその同行時衆は、寺などを構え一つの所に止まって居住することもなく、全国各地を遊行しながら「南無阿弥陀佛 決定往生六十万人」と版木で印刷された念仏札を出合う人々に配り歩きました。

出合う人々に念仏を唱えることの大切さを伝えたのでした。だから「南無阿弥陀仏」という念仏の言葉は、一遍たちの挨拶のようなものでした。

この念仏を唱えると、現世に生きとし生けるものすべてが、六字名号の徳に照らされてその身は阿弥陀仏に包み込まれて同一のものとなり、極楽浄土に往生することができる。「南無阿弥陀仏」と念仏して、この念仏札を手にした者が必ず極楽往生できるという確信は、人々にこの上ない喜びを与えたに違いありません。

やがて「踊り念仏」が都や地方の都市、村落を問わず広がるようになると、あらゆる階層の人々は、多数の時衆僧尼が和讃を唱え、鉦を打ち鳴らしながら輪になって踊る「踊り念仏」に歓喜法悦の救いを味わうようになりました。念仏踊りの熱狂の中で多くの人々は浄土往生の法悦にひたり、救われた歓びに包まれたのでした。

人びとにとって、一遍たちの「念仏」は、救いの喜びの挨拶であった、と思います。


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念仏札をもち念仏を勧める一遍上人

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「南無阿弥陀佛 決定往生六十万人」の念仏札

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四条京極の釈迦堂における「踊り念仏」の盛況
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by francesco1hen | 2011-08-09 18:51 | Comments(0)
2011年 08月 08日

(2)インドの人々の挨拶 Namaste !

インドでは、ヒンヅー教徒でも仏教徒も合掌して《ナマステ!》と、うやうやしく挨拶を交わします。

これは「あなたを信頼し、お任せします」という意味です。日本でも初対面の人に会うときには「どうぞ、よろしくお願いたします」といいます。

この「ナマステ」という言葉は、サンスクリット語からヒンズー語に受け継がれ今も使われている言葉で、深い意味を持っています。漢民族は、この言葉を音訳して「南無!」としました。

日本では、そのまま仏教の言葉として「南無阿弥陀仏」とか、「南無妙法蓮華経」。さらには「南無八幡大菩薩」というよに使ってきました。

「ナマステ=南無・阿弥陀仏」の念仏は、阿弥陀仏に心から帰依して成仏することを願う深い意味をもった祈りです。つまり「阿弥陀仏の大いなる永遠の命(無量寿)と一つになること」を究極の願いとして求める祈りなのです。

この「念仏」の深い意味を掘り下げ、日本人の心に深くしみ込ませたのは、鎌倉初期の法然や親鸞と鎌倉中期の一遍でした。今もなお彼らは、人々から注目されている人物です。

このようにナマステの本来の意味は、阿弥陀如来と完全に一つになる「成仏」をひたすら願うように
超越的な神的存在と完全に一つになる、というところにあります。しかもこのことは、すべての宗教の究極の憧れとなっています。

《ナマステ!》は素晴らしい挨拶です。しかも、諸宗教の究極の願望をも意味しています。

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花柄の服の女 ジュリアーノ・ヴァンジ

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ヴァンジ彫刻庭園美術館にて
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by francesco1hen | 2011-08-08 23:07 | Comments(0)
2011年 08月 07日

(1)ローマンス語の挨拶

チベット人の挨拶は出合った人がお互いに赤い舌を出すことだ、と聞かされていました。
これはわたくしの小学生の時代に知った知識です。今は、どのようにしているのでしょうか?

イタリア人は、Buon giorno! 。スペイン人は、Buenos dias! 。フランス人は Bon jour ! と挨拶します。どれもみな「よい日を!」、または「こんにちわ。よいお天気ですね!」という意味です。日本人とおなじですね。お互いに「よい日を!」と幸せを願うことばです。まさに人間の挨拶ですね。

太陽が高くあがったある日、イタリアの街を歩いていたとき、窓から顔を出した男に「ブオン ジョルノ!」と声をかけたら、その男が頭をかきながら首を振り振り苦笑していました。起き抜けに日本人から元気な挨拶をかけられたので面食らったのでしょう。

お互いが、気持ちよく明るい挨拶をするのは、幸福で素晴らしいことです。

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by francesco1hen | 2011-08-07 22:53 | Comments(0)