家田足穂のエキサイト・ブログ

france1pen.exblog.jp
ブログトップ

<   2011年 10月 ( 15 )   > この月の画像一覧


2011年 10月 28日

漢字の面白さと意味の深さ(15)補遺 常寂光寺

洛西 常寂光寺の仁王門

小倉山中腹にある常寂光寺の門のあたりは、紅葉が美しいことで有名です。常寂光寺は、日蓮宗の寺で、ここが常寂光土のような場所であることから、寛永年間に寺に改められたときにこの名前が付けられました。
本堂は伏見城客殿を移築したものです。境内にはカエデの木に包まれている多宝塔があり、名高く人々から愛されています。ここには藤原定家の山荘、時雨亭があったと伝えられています。

「寂」にちなんで。サンスクリット語の《シャンティ!》は、寂静(じゃくじょう)と訳されています。
現代語では「平和・平安」です。釈迦の悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、「寂静」と同じ意味です。    「涅槃」(ニルヴァーナ)の現代語訳は、中村 元博士によると「絶対の安らぎ」です。
平和・平安は、やはり人間には絶対に必要なものであることが分ります。


b0221219_21125838.jpg

京都洛西・常寂光寺の仁王門といわれる白壁の門に映える紅葉や参道に散り敷く紅葉がとりわけ美しい風情です「常寂光土」を想像させますね。



                 * * *


           わたし(イエス)はあなたたちに平安を残す。

           わたしの平安をあなた方に与える。

           この世が与えるようには、わたしは与えない。

                      
                   (ヨハネによる福音書 14 , 27 )



b0221219_14243512.jpg

[PR]

by francesco1hen | 2011-10-28 22:27 | Comments(0)
2011年 10月 27日

漢字の面白さと意味深さ(14)補遺 正と公

幼い時の親友はの名は、正夫くんでした。先輩に公二さんがいました。

[ 正 ] 一と止の組み合わせです。一はもと囲の井のない四角の形に作り、城郭で囲まれた邑(まち)を意味していました。止(足あとの形)の古い形は之(し=ゆく)と同じで、行くの意味があり、正は城邑に向かって人が進む形で、攻めて征服する意味で、正は征のもとの字です。征服して税を取ることを征といい、その支配の方法を政といいます。征も政の行為も正当(道理にかなっていること)として正義(正しい道理)としていました。これは支配者の勝手ないいぶんですが、「ただしい、ただす」の意味になりました。正統、正道、正面、正門など。すきな言葉は「姿勢を正す」です。

[ 公 ] 方形で表わされる場所で、行われる儀礼・行事が公事、公務(おおやけの仕事)です。その場所が公ということから、公は「宮殿、祖廟、公(きみ=支配者)」となり、また「おおやけ」の意味になりました。さらに支配する者の考え方を、公平、公正なものとしました。

この二つの字から、二つの言葉が出てきます。正義と公正です。正義とは、人間の行為の正しさと言われますが、根本的な意味は「すべての人の権利を認めること」です。でも、正義だけで社会は幸福にはなりません。そのために必要なものは公正です。公正は正義と同じような意味で使われていますが、もっと深い意味では「社会的弱者への配慮」です。正義と公正の関係を見事に説明する言葉があります。
「穀物を収穫するときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や移住者のために残しておかねばならない」と、人は自分の権利(正義)だけではなく、社会的弱者への配慮を求められています。(レビ記 19,9-10)

これに関連する言葉が、ツイッターに出ています。興味のある方はそちらへどうぞ。
Twitter URL http://twitter.com/FraFrancesco3 では、色々なことが書いてあります。

なお、気になっている字、調べてみたい字がありましたら、遠慮なくトラックバックを使って、
お申し出て頂けば嬉しく存じます。皆さんと、ご一緒に考えてみたいと思います。

b0221219_22414624.jpg

b0221219_22422449.jpg

  京都洛西小倉山の二尊院(釈迦と阿弥陀仏の二仏を本尊とする小倉山山麓の寺院)
[PR]

by francesco1hen | 2011-10-27 23:32 | Comments(0)
2011年 10月 14日

漢字の面白さと意味の深さ(13)補遺  無と委

無と委という字の成り立ちを見ると意外な面白さがあります。「無」という字の意味には難しいものを含んでいますが、これについても少し触れたいと思います。

[ 無 ] もとは象形の文字で、舞う人の形。舞の字のもとの字は無でした。衣の袖に飾りをつけ、袖をひるがえして舞う人の姿でした。無う(ぶう)という雨乞いの祭りの字に使いました。有無の「ない、なし」の意味に用いるのは、その音を借りる仮借の用法です。無が「ない」の意味に用いられるようになって、無に、舞の下の部分「せん」(左右の足が外にむいて開く形で、舞うときの足の形)を組み合わせた舞が「まう、まい」の意味として使われるようになりました。
用例には、無知、無智、無名、無事、絶無などありますが、問題は[無」です。

[ 委 ]  禾と女を組み合わせた形。稲を頭に被って舞う女のすがた。女は低い姿勢で舞うので委には、「ひくい、したがう、まかす」という意味があります。また、「しなやか」なことから「よわよわしい、やつれる」の意味にも使われます。用例は、委員、委任、委細、萎縮など。

さて、問題の「無」ですが、「無」は有無を超えた「絶対無」のことです。現象的な存在ではない、
「あれ」とか「これ」とか指示することができない「存在そのもの」のことを「無」といいます。これを把握することが禅の目的です。

有為・無為(サンスクリタ・アサンスクリタ)は、現象と現象を超越した常住不変の存在をさし、
無為を真如(しんにょ)ともいいます。真如の真は「真理」、如は性質が「変転しない」の意味で、
真如は、宇宙万物に偏在する根源の実体をいいます。

プラトンは、目に見えて生滅変化する現象は存在しない。目に見えない《イデア》こそ真実に存在するものである。真実在である《イデア》は、常住不変、不生滅、不増減、絶対美、美そのもの、美の真実在、最も完全なもの、善のイデア、これこそ真実在、《存在そのもの》である、と言っています。

「無」も《イデア》も眼には見えないけれども、常住不変の[存在そのもの]であることに変わりはないようです。

余談ですが、ある人は平仮名の「む」を見るとアジサイにとまっているカタツムリを連想するそうです。また、ある詩人は子供のころ「を」という字を見て面白くてなんども「を」の字をノートに書くのを愉しみにしていたそうです。何故かというと「を」見ると女の人が座っているように見えるから面白いと言っていました。

漢字・平仮名まじりの日本語は、実にすぐれた言語の表現とおもいます。


b0221219_16272173.jpg

b0221219_16301041.jpg

b0221219_16211730.jpg

b0221219_16333281.jpg


庭園全体が《美の極致》といえる日本庭園だと思っています。


                 * * * * *


       わたしがわたしの父のうちにおり、あなた方がわたしのうちにおり、
       
       そして、わたしがあなた方のうちにいることを、

       その日、あなた方は悟であろう。

                        (ヨハネによる福音書 14 , 20 )



最後の晩餐のとき、弟子たちがどのていど理解したかはわかりませんが、その日とは、天の国に入ったときです。そのときにはすべて明らかになるのですが、
この言葉は、神の国にはいったとき、三位一体の神と人間が、完全に「一つになる」ということです。「神の愛」のなかに入っている、また、「神の平和」の中にいるともいえます。


b0221219_14413541.jpg



               *  *  *


これで《10月のブログ》はおわりです。11月にまたお会いします。

読覧くださった皆様に「神からの恵みと平和がありますように!」という挨拶をお送りします。

平和・平安のほんとうの意味は、神からの恵みに満たされている幸福な状態をいいます。平和・平安を《シャローム!》といいます。ヘブライ語のシャロームには、平和・平安のほかに、健康、健全、繁栄、充実、充満、完全、至福など幸福に充たされている状態の意味が込められています。

           では、もう一度《シャローム・平安!》を。



                    *
[PR]

by francesco1hen | 2011-10-14 17:23 | Comments(0)
2011年 10月 13日

漢字の面白さと意味の深さ(12) 喜と歓と悦

[よろこび、よろこぶ]という字はたくさんあります。慶、悦、喜、愉、歓、賀、説などがあります。このうちの三つを選びました。叔父の名前は悦でした。悦次郎や喜久子、喜一郎などがあります。歓という字の使われている名前にまだ出合ったことがありません。



[ 喜 ] 喜の下のない字「こ」と口の組み合わせで、太鼓の形。また、「こ」に口(さい=祭器)を組み合わせた形です。神に祈るとき、太鼓を打ち鳴らしながら歌い舞ってお祭りをすれば神は喜ばれるので、喜はもと神を楽しませ喜ばせるために太鼓を打って祈る意味であったのです。のち人の心に移して、喜は「よろこぶ、たのしむ」という意味になりました。用例は、喜悦、歓喜など、喜怒哀楽、悲喜などにも使われます。

[ 歓 ] もとの字は歡。偏の「かん」は鸛(こうのとり)で、神聖な鳥とされていました。その鳥を使って鳥占いをして、神意を見ると察することを観といいます。欠は口を開いて立っている人を横から見た姿で、声を出して祈ることをいいます。歓は、鸛を使って祈り、祈り願うことが叶えられることを「よろこぶ」の意味にしています。用例は、歓呼、歓声、歓喜。/ 哀歓なども。

[ 悦 ] 音は(えつ)。兄は、祈りを入れる祭器の口(さい)を頭にのせて祈る人の形で、神を祭る人、祝(はふり)です。その祝に神気がかすかに降ることを八の形で示したのが、兌(だ)(よろこぶ、かえる)です。神が反応し乗り移りうっとりした状態になっている祝(はふり)の心を悦といい「よろこぶ」の意味になりました。[よろこぶ]という字の最後にある説にも「よろこぶ」という意味があります。説教は、喜びの教えと言うことでしょうか。・・・法悦。



人間は、本当のこと「真実」を知ったとき互いに喜びます。「善いこと」に恵まれたときも大きな歓びに包まれます。「希望」に満ちた青春を喜びます。「希望」が満たされたときには喜悦にひたります。「愛の歓び」にひたることの幸福を喜びます。「二つの愛」がかたく結ばれたときには、歓声のうちに歓喜の歌を歌います。喜び、歓喜、喜悦など「よろこび」は、人間本来の姿にそなわっている素晴らしいものです。

栄えある席に招かれて人は「お招きに与り、光栄のかぎりです」と喜悦満面にして、よろこびます。
幸福の絶頂にあるとき、喜びを表さない人はいません。最高の喜びは何処でうけるのでしょうか。



神の愛に包まれ神と一つになる「愛の完成」による最高の「喜び」は、天国で「神の栄光」に満たされれることです。喜びに充ち満ちている天国での「神の栄光(gloria Dei)=よろこび」は、すべての人々に与えられるものです。 

        
             いつも《希望と喜び!》のうちに、生きたいと思います。



b0221219_2125251.jpg

小さな公園の片隅のケヤキの木の本のチューリップが可愛い。


                         *



b0221219_1173984.jpg

b0221219_1143973.jpg

b0221219_1132217.jpg

東山魁夷が愛した「御射鹿池」です。




b0221219_21331622.jpg

藤沢市から見た夕景富士です。いつ見ても富士山はすがたがいいですね!


b0221219_21362741.jpg

近くの公園の遊具が新しくなりました。裏は elephant でした。英語表記が新鮮でした。



                        *



「伊豆の瞳」といわれている一碧湖の風景については、このブロブで紹介しています。つぎのタイトルで、たくさんの写真を掲載しています。 
         
         「伊豆の瞳」青くい美しい一碧湖  2013.02.04.
         青く美しい一碧湖と平明な沼池の風景 2013.02.04. 




                        *



      わたしはあなた方に平和を残す。わたしの平和をあなた方に与える。
       わたしは世が与えるように、これを与えるのではない。

                           (ヨハネによる福音書 14 , 27 )




    「神の平和」を与えられることは、最高の幸福である「神とともにある至福」です。





                       ***









[PR]

by francesco1hen | 2011-10-13 12:25 | Comments(0)
2011年 10月 12日

漢字の面白さと意味の深さ(11) 超と越

[ 超 ] 音は召(しょう)。召にしんにゅうを加えた字には(ちょう、はるか)の音があります。
古い文献に「跳ぶなり」とあり、超は、跳んで越えるので「こえる、こす」の意味になります。
用例として、超越、超絶、超人、超俗、超脱(脱俗)(俗世間の動きから超越して、高い境地にあること)のように、世俗のことを超(こ)えるときに用います。

[ 越 ] つくりの部分は(えつ)で、鉞(まさかり)のことです。困難を越えるときに「えつ」を呪器として使うことがあったので、鉞の呪力を身に受けて行くことを越といい「こえる、こす」の意味として使います。越境、越冬、越年など。もちろん、テーマの超越もあります。

(9)取り上げた「完全」ということは、言葉のほんとうの意味では、人間の世界ではありえない超越的な神秘の中にあるものです。それでも、神の子キリスト・イエスは「天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものとなりなさい」(マタイ福音書 5,48)と、人々に語りかけています。

旧約聖書の神ヤーウェは「わたしは聖なるものであるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ記 11,45)と、エジプトから脱出したイスラエルの民に「律法」を守ることを命じました。この「聖なるものであるから・・・・・。」のこの言葉は、律法全体をおおう精神となっています。神ヤーウェの意思である律法(360余の教え)は、人が人間らしく生きることを教えている言葉に満ちています。

ここから考えられることは、聖なるもの、完全なものに近づくこと、また、神ように憐れみ深く生きることが、人間に求められているのではないでしょうか。




島根県安来市の足立美術館庭園です。庭園美の極致とでもいいたくなるような風景が展開されます。世界の庭園ランキングでは、つねに第一位を獲得した現代の日本庭園です。

b0221219_11394347.jpg

b0221219_11271933.jpg

b0221219_1144796.jpg

b0221219_113639100.jpg


だれが眺めても、「感歎します!」と言いたくなりますねー。


                    

              *   *   *


         わたしを愛するものは、わたしの言葉を守る。
         わたしの父はその人をお愛しになり、
         わたしたちはその人のところに行き、ともにそこに住む。

                         (ヨハネによる福音書 14 , 23 )


      イエスは最後の晩餐の夜、弟子たちを愛して愛につい徹底的に話しました。
      「愛すること」は、いちばん大切なことであることを、ことばを尽くして話しました。
      神(おなじように人)を愛する人は、神とともに生きるということを教えています。


b0221219_14105855.jpg

[PR]

by francesco1hen | 2011-10-12 11:58 | Comments(0)
2011年 10月 11日

漢字の面白さと意味の深さ(10) 永と遠

永井隆さんは長崎で被爆、自らも重い傷を受けながらも、直後から負傷者の治療や、原爆障害の研究にあたりました。「平和」と「復興」を祈り求めながら、白血病が悪化し病床にあっても文筆活動をつづけました。『長崎の鐘』や『この子を残して』は、人々の感動をよんだ忘れられない作品です。
作家(カトリック文学者)遠藤周作は、その代表作『海と毒薬』『沈黙』『深い川』で有名です。多くの作品の中で、日本人のもつべきキリスト教の姿を求め、苦しむ人に寄り添う同伴者イエスを描くことにより、日本人の心にしっくりくるキリスト教像を求めました。『イエスの生涯』では、国際タグ・ハマショールド賞を受賞しました。


[ 永 ] 象形は、流れる水の形。永は水が合流して勢いよく流れるところで、水の流れの長いことをいいます。このことからすべて「ながい」こと、とくに時間の長く久しいの意味に使われていることが多いです。用例には、永遠、永久、永寿、永世、永続などがあります。

[ 遠 ] 象形を見ると、袁は死者が死後の世界に旅立つのを送ることを示す字で、偏のしんにゅうを加えると遠くへゆくの意味をあらわし「とおい」の意味となります。遠近、遠望、遠路、敬遠。そして、久遠(永遠の時間の果てしないこと)。[永遠は、限られた時間とまったく別のものです]


永遠の用例として、「至高、真実、永遠に生きる神」「人間の永遠の命の源である神」神をこのような言葉で表すことがあります。
また「無始本有常住不滅の仏」(至高永遠の阿弥陀仏)「無量光仏・無量寿仏」(無限の光・空間と無限永遠の時間をもっている阿弥陀仏)もよく似た表し方です。

神を信じ信頼し、神と共にあることを望み、「神と一つになる」こと(愛)を願うことによって「永遠の命]は与えられます。同じように、「南無阿弥陀仏」の念仏によって、人間は救われて「阿弥陀仏と一体となる」(無量寿=永遠の命)と仏教は教えています。


b0221219_11535285.jpg

b0221219_11575712.jpg


わたくしたちが、こよなく愛した御射鹿池を後にして・・・・・、
わたくしたちは、また、旅に出かけます。

b0221219_1205426.jpg

                           本告光男氏撮影




                    *  *



       わたしの掟(新しい掟)を自分のものとし、それを守る人、
       その人はわたしを愛するものである。
       わたしを愛するものは、わたしの父に愛される。
       わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。

                        (ヨハネによる福音書 14 , 21 )


    わたしとは、イエスのことです。わたしの父とは、父である神です。
    キリスト教の神は、三位一体の神、すなわち、父と子と聖霊の三つのペルソナが、
    唯一の神である三位一体の神といわれています。
    三つが一つになっている神の「神は愛である」というのが、神の本質です。
    だから、「愛である神」という表現もあります。




b0221219_14589.jpg


秋の隼人池の岸辺です。
[PR]

by francesco1hen | 2011-10-11 12:12 | Comments(0)
2011年 10月 10日

漢字の面白さと意味の深さ(9) 完と全

「如来完全」という言葉があります。如来とは、真理に到達したもの、または、真理から来たものという意味です。完全は、量的には総体・全体を。質的には最高を意味します。


[ 完 ] 宀は廟をあらわし、元は大きな首を上に加えた人の姿で、人の頭部を強調した形。元服の儀礼が無事に終わったことを廟に報告することを完といいます。つまり。最後までなしとげることが完で「まっとうする、まったし」の意味となります。用例には、完結、完了、完成、完全、完璧など素晴らしいことばかりです。

[ 全 ] 佩玉(はいぎょく・腰をしめる腰帯につり下げた玉)の飾りのそれぞれの部分が揃うことを全といいます。「まったく」は、すべてととのう、すべてそろう、という意味です。全体、全身、全部などの使い方があります。リンクすると「万有」(すべてを持っている)が出てきます。


完全から、リンクすると「極致」が出てきます。調べてみますと意外なことが・・・・・。


[ 極 ] 旁(つくり)は、二と口と又(ゆう)の組み合わせの形。二の上下の狭い空間の「く」は人。その狭い場所に人を押し込めて、前に口(さい・祝詞を入れる器)を置き、後ろから又(手)でその人を押して殺す刑罰の方法。刑を究極する(果てまで極める)と殺すことになります。殺す場所を極といいます。したがって極は「きわめる、きわまる、きわみ」の意味となります。
次のような用例があります。極刑、極限、極上、極致、極秘、究極(きわめる、きわめつくす、最後に達するところ)など。

[ 致 ] 至と攴(ぼく攵)の組み合わせ。至は放たれた矢の至るところを示します。「いたる」「到達する、当たる状態になる」の意味になります。用例は、美の極致、雅致(風流ななおもむきを極める)、愛における一致など。



マタイ福音書5章48節に、イエスの言葉として「だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。」 ルカ福音書では「あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となりなさい。」(6,36)という言葉があります。それぞれの前の部分には、「あなたがたの敵を愛しなさい」という有名な言葉があります。

b0221219_15501996.jpg

b0221219_1553551.jpg

b0221219_15564833.jpg




                        *


          わたしは「新しい掟」をあなた方に与える。
      
          わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。
      
             
                   (ヨハネによる福音書 13 , 34 )



                       ***



      
b0221219_11495263.jpg


                  「和 敬 清 寂」「賓 主 互 感」
[PR]

by francesco1hen | 2011-10-10 16:18 | Comments(0)
2011年 10月 09日

漢字の面白さと意味の深さ(8) 真と善と美

真理子、善太郎、美穂という、それぞれ意味が深く美しい名前があります。


[ 真 ] 匕(か)と県の組み合わせ。匕は人を逆さままにした形で死者の形です。つまり真は死者で、それはもはや変化するものではないから「永遠のもの」「真の存在」の意味となりました。
この世は一時(わずかの間)仮の世界であるが、死後の世界は永遠であると古代の人は考えました。人の身体を後ろから支えている形の「久」が「ひさしい」と永久の意味となったと同じです。真の用例は、真実、真言、真相、真意、純真、真理などたくさんあります。

久は、死体を木で支えている形の久をお棺、つまり「柩」に入れている形。死後は永遠であるという考え方です。永久、久遠(未来に向かって果てしなくつづくことを永遠という)というように使います。


[ 善 ] 羊と言言(きょう)の組み合わせ。言は口(さい)祝詞を入れる器。言言の真ん中に羊を置いた形の字は、神判で善か悪かを決定する神聖裁判の用語です。のちには神の意思にかなうことを善といい「よい、ただしい」の意味となりました。また、「すぐれる、たくみな、したしむ」などにも使われます。用例は、善悪、善意、善行、善良、親善など。


[ 美 ] 羊の全形、羊という字は、羊の上半身を前から見たかたちです。美はその全体を見たかたちです。成熟した羊の美しさを「美」ということから「うつくしい」「よい、ほめる」となりました。さらに言葉を加えますと、いけにえの羊は、欠陥がなく、完全であることが求められ、それが「美」となりました。


「 真 ・ 善 ・ 美 」は価値観からいうと、古代ギリシア人の最高の価値でした。ソクラテスは、真実と虚偽を峻別し、真理を求めました。プラトンは、目に見える現象は虚偽であり、真実に存在するものはイデアであるといい、善であり美であるイデアが最高の「真実在」であるといいました。


これをキリスト教的に解釈すると、真実に存在する、真理の源である神、善の源泉であり最高の善である神、美しい世界を創造された美の源である神ということになります。神こそ「真・善・美の源泉である」といえます。


b0221219_16345278.jpg

b0221219_16381117.jpg

b0221219_16402596.jpg


まさに紅葉美しい御射鹿池です。



                *      *      *


        イエスは仰せになった、「わたしは道であり、真理であり、命である。
        わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」

                             (ヨハネによる福音書 14 , 6 )



   道とは、父への道、神の国への道のことです。真理とは、イエスの福音であり、イエス自身の        ことです。命とは、父である神のもとでの、天の国における「永遠の命」のことです。






[PR]

by francesco1hen | 2011-10-09 16:53 | Comments(0)
2011年 10月 08日

漢字の面白さと意味の深さ(7) 愛と望

b0221219_1625321.jpg



かわいい子から立派な大人まで愛という字のつく人はたくさんいます。愛は人間の本質をあらわしている、と言ってもいいでしょう。何かを愛する、何かが好きであるということによって人間は動いています。愛は人間の行動の源泉です。愛がなければ人は生きて行けません。愛には喜びがあります。そして平和と幸福があります。



[ 愛 ] この心を取った字、ふつうの漢字にないのですが「あい」とい字と心を組み合わせた形が、愛という字になりました。後ろを顧みてたたずむ人の形である「あい」の胸のあたりに心を加えた形。「愛」は後ろに心をひかれる人の姿で、その心情を愛といい、「いつくしむ」の意味となります。国語では「かなし」とよみ、後の人に心を残す、心にかかることをいいます。それにより愛情の意味となりました。
用例はみなさんがよくご存知です。ただ、愛は「希望と喜び」を呼び起こすということに注目したいのです。

[ 望 ] 甲骨文字の字形は、つま先で立つ人を横から見た形(壬てい)の上に臣(上方を見ている目の形で大きな瞳)をかく形(臣の下に壬を置いた字)で、つま先立って遠くを見る人の形です。これに亡をくわえて望という字に音を与えました。遠くを望み見ることから、「のぞむ、まちのぞむ、ねがう」の意味に用います。用例には、望見、切望、待望、絶望などがあります。


男でも女でも 望(のぞむ)(のぞみ)の名前が付けられます。親は、この子がきっと希望に満ちあふれた人生を送るようにと希望して名付けたことでしょう。希望には喜びがあります。


愛と望に信という字を加えると、「信仰・希望・愛」というキリスト教が大切にしている言葉になります。信仰とは、神を知り、自分に頼らず、全面的に信じ、信頼することです。「知る」ということは愛のはじまりです。知ることによる親しさは、愛ということです。愛するもの(神)に深く近づくことが信仰であるともいえます。


希望は喜びとなります。喜びのうちに生きながら「神と一つになる」ことを願い、「永遠の命」をひたすら願う。すなわち、喜びのうちに希望し、待ち望む期待の喜びの先きにあるものに向かいます。
愛するもの(神)に向かう喜びが希望です。


愛は、これこそ最も大切なものです。「神は愛です」。そして神の恵みと愛は、すべての人に与えられています。すべての人は、神の愛に招かれています。神によって造られた人間は、神の愛の中にもどるように招かれています。人間の最終目標は、神と一つになる「永遠の命」に入ることです。これによって愛は完成されます。


これが「信仰・希望・愛」です。信仰と希望とによって人は神と直接結びつけられますが、これに勝って人を神と「一つにする」最も大切なものが「愛」です。そして「一つになる」ことも愛なのです。


                        *



       ラテン語で《 Spes et Gaudium 》(希望と喜び!)という美しい言葉があります。




b0221219_10501146.jpg

東京都文京区駒込の「六義園」(りくぎえん)です。

b0221219_1051282.jpg

「六義園」は、5代将軍綱吉が川越藩主の柳沢吉保(後に側用人=大老格)に与えたことにより、柳沢吉保が年月をかけて造園した大名庭園です。日本の名勝に数えられています。

b0221219_10523220.jpg

庭園には、万葉集と古今和歌集で詠まれたの八十八景(現在は41景)が、庭園の随所にちりばめられ見事な景観を見せています。

b0221219_1053075.jpg

庭園中央の池には、たくさんの キンクロハジロ が泳いでいます。

b0221219_1114045.jpg

これはメスです。オスは腹のところが白いのが特徴です。
b0221219_11185893.jpg


b0221219_1135851.jpg

あちらこちらに、ツツジがよく咲いています。水面にツツジの色が反映しているのが美しい。

b0221219_116773.jpg

州浜の美しさも見所の一つです。日本の庭園はその美しさで世界的に有名です。



                   *
 

   鳥取県安来の「足立美術館の庭園」は、世界的に超有名な庭園です。



             *     *     *



        あなた方がわたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まることになる。
        わたしが父の掟を守って、その愛に留まっているのと同じである。
        わたしがこれらのことをあなた方に話したのは、
        わたしの喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満ち溢れるためである。




                            (ヨハネによる福音書 15 , 10-11)







[PR]

by francesco1hen | 2011-10-08 17:37 | Comments(0)
2011年 10月 07日

漢字の面白さと意味の深さ(6) 信と任

インド人は人に出合うと「ナマステ!」という意味深いあいさつを交わします。これは「あなたを信頼します。どうかよろしくお願いします(お任せします)。」という挨拶です。ナマステは、古代のサンスクリット語いらいの言葉で、漢民族によって「南無」と音訳されました。仏教の言葉として日本に伝わり「南無阿弥陀仏」の念仏などで使われています。「南無」は、絶対的な信仰を表わすために唱える言葉です。そこで、まず信とう字から入ります。


[ 信 ] 人と言を組み合わせて形です。言は、「さい」と呼ばれる祝詞を入れる器の形。神と誓った上で人と約束したことを「信」といいます。この信は、信義(約束したことはその通り実行する)、自信、所信などに使います。さらに「しるし」「たより」「つかい」の意味でも用い、信号、通信、音信などがあります。また「まこと」「まことにする」を信と書くこともあります。


珍しい文があります。一遍上人の『語録』に「信とは、まかすとよむなり。他にまかする故に、人の言と書けり。人たるもの言は、まことなるべきなり。」(・・・・・本来、まっとうな人の言葉は真実であるべきである)と。本当のことをいう人には信頼する(任す)ことができます。


[ 任 ]  壬(じん)は工具(たたき台)の形。金属を打ちきたえて器物を作るためのたたき台ですから、強い力や重さに耐える台です。それで任は、人が「たえる、あたる、になう」の意味となります。また、「まかせる」の意味にも用います。「つとめ、しごと」の意味でも使われます。
任務、辞任、一任、放任など、そして、信任。


信じ任せることが最も大切ですね。一遍上人が阿弥陀仏の救いを信じ、安心(あんじん)したように。また、アシジの聖フランチェスコが、神への全面的な信頼のうちに『兄弟太陽の賛歌(被造物の賛歌)』を歌ったように!


b0221219_16175446.jpg

b0221219_16182343.jpg

b0221219_16255474.jpg


奥蓼科の谷や山々を越えて御射鹿池にたどり着きました。10月22日撮影。



                   *     *     *



          父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。
          わたし愛に留まりなさい。

                            (ヨハネによる福音書 15 , 9 )


 
   イエスは最後の晩餐の夜、「ぶどうの木」のたとえの中で、弟子たちにくり返しくりかえし、
   「わたしの愛に留まりなさい」と話しています。弟子たちにということは、すべての人間の
   ことです。








[PR]

by francesco1hen | 2011-10-07 16:36 | Comments(0)