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2012年 03月 29日

[ 5 ] 《完全なもの》とは何でしょうか? (つづき2)

(3)如来完全とは

阿弥陀仏は、サンスクリット語でアミターバ(無量光仏)・アミターユス(無量寿仏)と表わされています。無量光仏とは限りない光・大きさをもつもの、無量寿仏とは無限の寿命・永遠の命をもつもの意、つまり真理を悟り、空間と時間を超越している仏陀のことです。

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阿弥陀仏は仏陀の称号「如来」で呼称され、阿弥陀如来ともいわれています。
「如来」タターガタは、真理に悟入して真理のうちにあるもの〈如去〉と真理から来たもの〈如来〉という意味をもっています。一遍上人によれば、阿弥陀如来は「如如常住」(真理そのもので永遠不滅の仏である)といっています。

一遍は、この阿弥陀如来をさまざまな呼称で記しています。特に注目したいものは「如来万徳(阿弥陀如来は全ての善・全ての徳を持っておられる)」、「万徳の円明なる事(まどかにして明るい阿弥陀仏のあらゆる徳)」、「万善円満の仏(すべて善であり満ち足りて完全な仏)」、「来迎の阿弥陀如来は万善の法(真理)」などがあります。

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                  聖衆来迎図(高野山金剛峰寺)


万善万徳、万善円満の仏などは、如来の完全性を表わしている呼称です。円満は完全、欠けるとこのない状態で量的には全体を質的には最高を意味しています。阿弥陀仏は、広大無辺・永遠の命・万善円満・真理そのもの・不滅完全な存在です。「完全」は最高の意味において「如来」という称号のなかに含まれています。
つまり「如来完全」です。

現代の仏教者は、人が安心して生きられる処は、大いなる命・限りなき命に入り包み込まれる処、そこにこそ滅びることのない確かな「永遠の命」の歓びがある、と説いています。

大乗仏教では、もろもろの命の根源である永遠・無量の命のことを仏陀といい、その命を自分の命として生きる者もまた仏陀と呼んでいます。つまり、仏性(ぶっしょう・仏となる可能性)をもつ人間は、永遠の命の仏(無量寿仏)と「仏我一如」の真理のうちに万善円満・完全な存在として生きることが出来るのです。古代インドの『ウパニシャッド』の「梵我一如」とよく似ていますね。


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現代の美しい阿弥陀如来像


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阿弥陀如来座像 宇治・平等院鳳凰堂




(4)天の父が完全であるように!

マタイとルカによる福音書のなかで「敵を愛しなさい」というイエスの教えの箇所のおわりに、次のような言葉があります。
「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5, 48)
「あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となりなさい」(ルカ 6, 36)

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                バロック時代の三位一体を表現する天上壁画


完全な者、慈悲深い者になるためにはどんな道があるのでしょうか。それは、イエスの福音の一つ一つの言葉にしたがうことであると考えられます。いくつかの言葉をあげてみます。

「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは、・・・。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。・・・だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5, 44~48)。

「空の鳥、野のゆり」のたとえで有名な「摂理への信頼」の箇所の「『何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか』と思い煩ってはならない。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが皆、必要であることを知っておられる。まず神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう」(マタイ 6, 25~34)。

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             ローマ時代の三位一体の神・父と子とと聖霊をあらわす壁画


「裁いてはならない。そうすれば、あなたがたも裁かれないであろう」(マタイ 7, 1)。

「そのとき、ペトロはイエスに近寄って、『主よ、兄弟たちがわたしに対して罪を犯したならば、何回までゆるしたらよいのでしょうか。七回までですか。』と尋ねた。イエスは答えられた。『わたしはあなたにいう。七回どころか、七十倍までもと』。・・・・・わたしの天の父も、もしあなたたち一人一人が、自分の兄弟を心からゆるさないならば、あなたたちに同じようになさるであろう」(マタイ 18, 21. 35)。(赦すことの大切さ)

「だから、何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」(マタイ 7, 12)。(黄金律といわれています)

最後に最も大切なおきてについて
「一人の律法の専門家が、イエスを試みようとして『先生、どのおきてが律法のうちで、いちばん重要ですか』と尋ねた。イエスは答えて、

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
これがいちばん重要な、第一のおきてである。第二もこれに似ている。
 『隣人をあなた自身のように愛せよ』
すべての律法と預言者の教えはこの二つのおきてに基づいている、と仰せられた。」


* 隣人とは、せまい意味での社会的に最も近い関係にある人をいいますが、イエスがいう隣人は、その関係を人類全体に広げ、誰でも、たとえ敵であっても自分の助けを必要としている人を隣人としています。


現代世界に当てはめて考えれば、食料不足で飢餓に苦しんでいる人びと、経済的格差のなかで貧困に苦しんでいる人びと、衛生状態が悪くさまざまな疾病に悩まされている人びと、正義を蹂躙され過酷な立場に追いこまれている人びと、災害で肉親や家屋・財産を失った人びとなど援助を必要としている人々は、地球上の各地域に存在します。

このような人々のために、天の父が完全であるように完全な者、慈悲深い者とならなければならないと思います。

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            北イタリア・アルベンガ礼拝堂の三位一体のキリストと12使徒


なぜ、そうならなければならないのでしょうか? パウロは、ローマ人への手紙のなかで書いています。
「すべてのものは神から出て、神よって保たれ、神に向かっているのである」(11, 36)。

また、アウグスティヌスは『告白録』の冒頭で、神に向かって、
「あなたは私たちををご自身に向かうようにお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と語りかけていました。

振り返れば、イエスは最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で人びとのために天の父に祈りました。
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」

完全に「一つになる」とき、神の愛の充満のうちに「愛の完成」が行われます。それは神の栄光の輝き、「永遠の命」の大きな喜び。永遠の至福のなかに入ることなのです。

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                 ロマネスク時代の《栄光の主・キリスト》
                               

                          *


宇宙の根源ブラフマンと人間の魂アートマンとの同一(梵我一如)、最高完全な善のイデアへのエロースの憧れ、完全である大いなる命と仏性を持つ人間との一致(仏我一如)、天の父の完全を求め、神と「一つになる」愛の完成への希望など、完全なものと「一つになる」ことにおいて共通していることは、人間の魂の究極的な願いであると思わざるをえません。



                         ***

                        エピローグ


事物が激しいテンポで移り変わっていく現代世界にいるわたしたちは、無常観を受けとめる余裕もないまま押し流されています。変わらない確かな求める気持ちもないのが現実ではないでしょうか。

紀元1世紀の初めごろイエスが世界終末のことについて語ったとき、次のようなことばを残しています。
「そのとき、人々は人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗ってくるのを見るであろう。・・・・・ 天地は過ぎ去る。しかし、わたしのことばは過ぎ去ることはない」(マルコ 13, 26〜31)。
イエスの言葉の意味するところは何でしょうか! 答えはかんたんにに出てきませんが、考えてみたいと思います。


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書家の金澤翔子さんが [ 三陸復興 ] のすばらしいことばを岩手県のために揮毫しました。東北の復興は遅々として進んでいないようですが、人々は生きる希望のうちに、もとの生活に戻るための努力をしています。

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しかし、わたしたちは、一方でこの度の大震災によって非常に多くの生命が失われた事実を忘れていません。さまざまな年齢の人々が生命を失いましたが、魂は不滅で永遠の命を生きていると確信しています。大震災の難をまぬがれ「生きている」わたしたちは、今ここで「命の意味」を深く考える時ではないでしょうか?

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                    ジョット  天に昇るキリスト   


                 《 spes et gaudium ! 》(希望と喜び!)
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by francesco1hen | 2012-03-29 11:48 | Comments(0)
2012年 03月 22日

[ 5 ] 《完全なもの》とは何でしょうか? (つづき1)

(1)宇宙の根源ブラフマンと人間の魂アートマンとの一致

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アーリア人が侵入してきたインド北西部のカイバル峠



紀元前1500年ごろインドに侵入したアーリア人は、『リグ・ヴェーダ』(賛歌集)というバラモン教の聖典を残しています。そのうちの一部『ウパニッシャッド』(奥義書の意)は、200種以上あり、前8世紀から紀元前後までに成立しています。この文書は深い瞑想へと発展する最古の哲学的思想といわれています。

『ウパニッシャッド』によれば、ブラフマン(梵)は宇宙の根本原理・最高存在で、宇宙に存在する見えるものと見えないものすべての森羅万象を創造し、かつ宇宙の全体の中に浸透しているとも言われています。そして、真実に存在するものは、不生・不滅・唯一の宇宙根本原因であるブラフマンのみである。一切の万物はブラフマンに基づいて生起・持続・消滅を繰り返すと説き、他の存在は虚妄(仮象)に過ぎないとしています。


人間個人の中心生命であるアートマン(我)は、個体の肉体や精神活動が消滅しても、内在的普遍として存在する。そして、外界に存在するすべての物とすべての活動の背後にある究極の最高存在であるブラフマン(宇宙の中心生命)と人間個人の中心生命(魂)アートマンとは同一であり、究極的に「一つになる」(梵我一如)と考えられていました。

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           書家金澤翔子の書




最高存在ブラフマンと個としての人間アートマンは、「同一である」ことが人間の理想であり、それは「究極的完全」であるという悟りでした。

                       *


グプタ朝時代(4〜6世紀)にバラモン教を受けついで、支配的宗教になったヒンドゥー教は多神教ですが、その中心的神々は、ブラフマン神(宇宙の創造)、ヴィシュヌ神(宇宙の維持)、シヴァ神(宇宙の破壊)の三神で、その神々によって、宇宙は創造・維持・破壊が繰り返されると考えられています。


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         ローイ・カント  ブラフマン神  ヴィシュヌ神  シヴァ神


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(2)プラトンにおける《完全であるもの》


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人間の魂の欲求であるエロースは「自分に欠けている価値あるものを求めようとする情熱(衝動)である」と定義されています。プラトンは「より高い次元のものへの絶えることのない憧れである」(『響宴(シンポジオン』211c)と定義しています。



さらに、プラトンはエロース(求める愛)を性愛からイデアまでの5段階に分けています。異性への愛、感覚的な愛、社会的な愛、学問的な愛、哲学的最高の愛の5段階です。最高の愛とは、イデアへのあこがれ、善美のイデアに向かう愛とされています(『響宴』211)。

哲学者プラトンは、この世界をイデア界と現象界の二つに分けています。そして、目に見えるものは真に存在しない仮の姿(仮象)である。真実に存在するものは目に見えないイデアである。

感覚で知る可視的なものが存在せず、理性でしか知り得ない不可視のイデアが真の存在であるという、この見方は不当・不可思議な見解であると考えられます。

しかし、事実〈目に見える点や線〉は極小の面積でしかなく、〈描かれた三角形〉は時間とともに変化・消滅していまします。ところが目に見えない純粋抽象の三角形は、いくら時間が経っても三角形の本質を失うことはありません。・ ー ∆ の現象は存在せず、三角形のイデアは永久に存在しつづけます。

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現象の背後にある根源的原理「真実在」であるイデアとは何でしょうか? プラトンの『響宴』(211)によれば次のようになります。

イデアは不滅で恒久的存在である。それは生じたり減じたりするものではなく、また増えたり減少したりするものでもない。イデアは絶対美であり、他に影響されない独立自存の唯一の存在である。二つとない美そのもので美の真実在である。イデアはエロースの最終目標であり、最も完全なもの、善のイデアである。これこそ真の存在である。

イデアは生成・消滅しないもの、感覚では捉えられない「永遠不変の神的存在」であると考えられています。


以上のことをまとめてると、つぎのようにも言えます。

求める愛である「エロ−ス」は、究極の対象であるイデア「美のイデア」または「善のイデア」への憧れであって、「真実在」であるイデアを知ることはできてもそれに到達し、一致することはできません。また、最高である「真実在」あるイデアは、憧れてる「エロース」に応え語りかけてくる人格的な存在ではありません。

もちろん、ブラフマンも「アートマン」に語りかける存在ではありませんが、プラトンの考え方は、
最高存在であるブラフマンと人間の魂アートマンが同一、「一つになる」(梵我一如)という『ウパニッシャッド』の考え方とは大きく異なります。

プラトンの場合は、エロースの最高の目標がそこにあるだけなのに対して、ウパニッシャッドの教えは、生きている実存の人間の悟りが、「平安に生きる」ことにつながるのではないでしょうか。


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   アポロンの神託で名高いデルポイ(デルフィ)の神殿跡と野外劇場、ポリスの中心の風景です。
   なにか神秘的な雰囲気が感じられますね!
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by francesco1hen | 2012-03-22 17:51 | Comments(0)
2012年 03月 21日

[ 5 ] 《完全なもの》とは何でしょうか?

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                           題字は、書家金澤翔子の書。



 祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。おごれる人も久しからず、唯春の夢のごとし。 (『平家物語』)

                        *

 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
(『方丈記』)


この二つの文章は、表現の緊密さとリズムの良さからともに人気のあるものです。しかも、万人から受入れられていた「無常観」をよく表わしていることで有名です。



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東日本大震災一周年を迎えて、新聞はつぎのように書いています。

「未曽有の揺れと津波は、街の姿形だけでなく住民の生活や人生も一瞬で変えた。生活の利便性を支えていた原発は、目に見えない恐怖となり、ふるさとから住民を遠ざけた。発生から一年。多くの被災者には今も悲しみや苦労が続く。」

とにかく、生活の場の「復興」は、一刻も早く続けなければなりません。しかし・・・

大震災はさまざまな面で、われわれに考え方を変えなければならないことを教えています。大震災は巨大な自然の力で、人々が築きあげてきた街や現代文明に浴してきた広範囲の地域全体を壊滅させました。そして、2万人余りの命が無差別的に奪われ失われました。このとき以来の数々の困難や不幸は、今なお被災者たちに重くのしかかっています。


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これらの大災害の出来事は、われわれに現代の有為転変・生々流転・諸行無常を感じさせるものではないでしょうか。

現代文明はあらゆる意味で危険性を孕み、不変・不滅・完全なものはないことが明らかになりました。平穏で楽しい幸福な生活が一瞬に、また、時とともに失われていくとき、人びとはそれが変わらないこと、その永続を望まない者はいません。


むかしの人は、この世は生滅変化し(諸行無常)、その存在や現象は無であり空である(諸法無我)。だから絶対の安らぎや平和を求めなければならない(涅槃寂静)と考えました。

このようなことに関して、人類は紀元前8世紀の頃から「不滅・完全」、「平和・平安」に生きるためにはどうしたらよいかを考えていました。


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by francesco1hen | 2012-03-21 17:42 | Comments(0)
2012年 03月 15日

[ 4 ] 正義と弱者への配慮 ー 律法が教えること ー

(1)イスラエルの地理的な特徴

イスラエルの国土の大きさは、南北の長さは470Kmで、東西は最長でも135Kmです。塩の湖として有名な死海から海岸まで車で90分ぐらいです。東に高原などの山地をもち、西は地中海に面しています。そして、南北に長いイスラエル国土は、北の地域から南の地方まで意外とさまざまな風景を見せてくれます。

そのイスラエルは、地理学的に4つの地域に分かれています。北の方は比較的に緑豊かな地域のところが多いのですが南の方は厳しさを感じさせる乾燥地域で山や岩の砂漠もあります。

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死海(塩の湖)とクムランの洞窟






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            《イスラエル》という名は「神は支配する」という意味をもっています。






(2)イスラエル民族の歴史

紀元前2000年ごろ、メソポタミア地方のウルの町の近くのアブラハムが、神ヤーウェと契約を結んで一族が約束の地カナーン(現在のイスラエル)まで移動し定住しました。その契約とは、アブラハムたちが唯一の神ヤーウェを礼拝すること、ヤーウェはアブラハムに子孫の繁栄と土地を与えることでした。これをアブラハムの契約「第一の契約」といい、この時からイスラエル民族は、民族の第一の出発点に立ちました。

定住したアブラハム一族はその後イサクとヤコブの時代をへて、飢饉に襲われたときエジプトに逃れてそこに移住して、民族の数を増やしました。エジプトの国王が増えすぎたイスラエル人を弾圧する事態になり、ここに民族の指導者モーゼに率いられたイスラエル人のエジプト脱出が始まります。

追われる彼らが紅海(葦の海)に差し掛かったときの「出エジプトの奇跡的な救い」は有名です。モーゼに率いられたイスラエルの12氏族は、40年間シナイ砂漠をさまよいました。このときモーゼが、シナイ山で神ヤーウェと民族に与えられた律法を守らせるという「シナイ契約」を結びました。この契約は「第二の契約」と言って、イスラエルの民の新しい第二の出発となりました。


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イスラエル12氏族の徴とイスラエル(ヘブライ)人






紀元前1000年ごろヘブライ王国が成立し、ダビデ、ソロモン王時代の繁栄を誇りましたが、前932年に王国はイスラエル王国とユダ王国に分裂し、前8世紀には、それぞれアッシリアと新バビロニアに滅ぼされました。それ以後は他の国に支配される不幸な時代を経験します。




(3)イスラエルの民の「契約と律法」(その意味は何ですか?)

契約をヘブライ語で「ベリト」といって、相互の暖かい親密な交わりをあらわす言葉です。ヤーウェとの親密な交わり、ヤーウェとの一致に向かわせるものです。そのために「神ヤーウェの教え」としての律法も守ることが求められました(律法はトーラーと呼ばれ、意味は「教えること」です)。

ヤーウェ自身も次のように教えています。「わたしは聖なるものであるから、あなたちも聖なるものになりなさい」(レビ記 11,45)と。これは人間を神と結びつくことが出来るものと認め、人間を高めるためにおこなわれる「愛としての契約」であり、聖なる神に招く(神と一致させる)ための契約であり律法です。

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民族の指導者モーゼが、神ヤーウェから律法を与えられたといわれる《シナイ山》


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死海西南のツィンの砂漠をへて         「約束の地」豊かなカナーン地方へ





(4)律法のことば (とくに正義と弱者への配慮について)

律法は、イスラエル人のおこなうべき人間的生活規範で360余りの掟です。内容から祭儀律法、性的律法、倫理的律法などがありますが、ここで、とくに注目したいのは倫理的律法です。

これらの律法の大事な点は、律法が正義と公正(社会的弱者への配慮)と愛にもとづいていることです。正義とは、すべての人間がたがいの立場を認めあうこと、人間の権利が守られてることです。
公正とは、権利の外側でのいたわりの心、弱者への配慮です。しかも、この権利と公正の背後には、これを支える「いつくしみ」(強い絆で結ばれている愛)と「あわれみ」(捨てておけない気持ち、同情、共感同苦)がなければ実現しません。正義と公正を求める律法の根底には愛があるということに注目したいと思います。

律法の言葉の一つ一つを知ることによって、律法は厳しすぎるほど人間的であり、どんな人間でもこれを守るべき普遍的なものであることがわかります。まず、社会的弱者への配慮を示すものを見てみましょう。

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     緑豊かなイズレエルの谷(谷といっても少し低くなっているだけです)


刈り入のときの心得として、人は自分の権利(正義)だけではなく、社会的弱者への配慮を求められています。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者(移住者)、孤児、寡婦(夫を亡くした女性)のものとしなさい。」(申命記 24,19)

また、同じように「穀物を収穫するときは、畑の隅々まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や移住者のために残しておかなければならない」(レビ記 19,9-10)。というように律法は、優しい心を要請しています。

いたわりの心は、人間のみならず動物に対してももつべきであるよう求めています。

「牛とロバを組み合わせえて耕してはならない(力の違うものを互いに苦労させてはならない)」(申命記 22,10)。
「脱穀している牛に口籠(くっこ)を掛けてはならない」(同 25,4)。
「あなたは子やぎをその母親の乳で煮てはならない」(出エジプト記 23,19)。

これらはともに動物への憐れみをもつべきだと教え勧めています。

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律法は、人間が神ヤーウェに相応しいものとなるように与えられた教えです。つぎの律法も現代のわれわれが考え直さなけばならない問題が示されています。

「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年の間は自分の家のためにすべてを免除される。彼はめとった妻を喜ばせなければならない」(申命記 24,5)。

「同胞であれ、他国の人であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わなければならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。」(申命記 24,14-15)。



                           *


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《エルサレム》は、〈イル・シャローム〉から〈ヘ・エルサレーム〉へ、つまり《平和の街》という意味です。
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by francesco1hen | 2012-03-15 18:48 | Comments(0)
2012年 03月 12日

[ 3 ] インド人の挨拶「ナマステ! 」と 南無 そして平和・平安(つづき)

(4) キリスト教における神と「一つになる」とは?

律法の専門家の「律法でなにがいちばん重要なおきてですか」という質問にイエスは答えました。
「第一のおきては《心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい》。第二のおきては《隣人をあなた自身のように愛しなさい》である。この二つのおきてよりも大事なおきてはない。すべての律法と預言者の教えはこの二つのおきてに基づいている」と。

最後の晩餐の時には、「新しい掟」を弟子たちに与えました。新しい掟とは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」です。その席で、ことばを重ねて「愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と。その翌日イエスは十字架上で、人間のために命を御父に捧げました。そして、三日目に復活し、四十日後には天に昇りました。

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キリストにもっとも近づいたジョットの「キリストの昇天」(スクロヴェーニ礼拝堂の「キリストの生涯」)


愛するものたちは結ばれて「一つになり」、愛を喜びあいます。神を愛し、隣人(差別なく出合ったすべての人々)を愛し、また互いを愛し合う人は、神のみ旨を生きる人で神の愛のなかに招き入れられます。聖アウグスティヌスが、ミラノでの回心のときに「平安の光ともいうべきものが、わたしの心に満ち溢れました」と叫び、後になってこれを『告白録』に記述しています。このとき彼は、平安のうちに神との出合いを体験したのでした。

『告白録』の冒頭で「あなたは、わたしたちをあなたに向けてお造りになりました。ですから、わたしたちはあなたの中でしか安らぎをえることができないのです」と、回心の時の心の状態にもとづいて書いています。天国に入ったとき、神の愛の充満の中に入ったときに、「愛し、愛されたい」と願う人間の愛は完成されるのです。

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                三位一体の神を描くローマ時代の壁画


イエスはこのことを最後の晩餐の夜、弟子たちに語っています。「わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内におり、そして、わたしがななたたちの内にいることを、その日、あなたたちは悟であろう」(その日とは、天国に入ったとき)。これは、まさに三位一体の神との一致、その神と「一つになる」ことなのです。このことは、また《愛の完成》ともいわれます。

友のために命を捨てた「受難の愛」のイエスを心に深くうけとめていたアシジの聖フランチェスコは、そのキリストにもっとも近づきたいと願いつづけ、ついに十字架上でイエスが受けた五つの傷を自らの手足、脇腹に受けたのでした。彼は〈キリストとの一致〉をこのように経験したのでした。
五つの傷を「聖痕・スティグマ」といいます。

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アルヴェルナ山で「聖痕・スティグマ」を受けるフランチェスコ













(5)イスラム教の〈イスラーム!〉の意味は?



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エルサレムの「岩のドーム」(モスク)とダマスカスのウマイア・モスクの壮麗な美しさ



「アッラー・アクバル!」神は偉大なり!と唱えるイスラム教徒の守るべきことは、六信・五行といわれています。六信はアッラーをはじめ信ずべきものです。教えの根幹となっているものは平等思想の徹底、社会正義の実現、友愛の実行、退廃的行為の禁止です。五行は、六信と四つの教えを行うための方法です、すなわち、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼(メッカへの)です。これら五行を守ることは、すべての人が平等に行わなければなりません。平等思想はこのことにも現れています。喜捨は、平等の徹底、社会正義、友愛の実行のために行われます。

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       イスラム絵画・アラベスクの美しさが目を見張らせます。


ところで〈イスラーム〉という言葉は、どんな意味をもってるのでしょうか。一般的には、神アッラーへの絶対的服従やアッラーへの絶対的帰依の意味にとられています。しかし、絶対的服従や絶対的帰依の結果どのようなことになるかと言えば、これこそ〈イスラーム〉の意味の大事なところで、それは「アッラーの神とモスレム・信徒の円融無障の一致」(完全に融合している至福)ということなのです。それはヘブライ語の《シャローム・平安》ともいうべき至福の状態ともいえます。


                         *


イスラームということばは、本当にすばらしい意味をもっています。
これは今まで見てきたヒンドゥー教、仏教、キリスト教においても究極的目標のなかで実現されることです。

ヒンドゥー教徒の願いが、業や輪廻から解脱して、ヴィシュヌ神やシバ神、あるいは、ブラフマン神と合一する絶対の平和・平安にあること。仏教における成仏、最近では成仏が「大いなる生命に包まれる」「大きな命と一つになる」と説かれていること。キリスト教のおける「三位一体の神と〈一つになる〉」「天の国における《愛の完成》」。そして、マホメットの教え〈イスラーム〉は、いずれの宗教においても究極的目標として同じように示されています。神や仏と「一つになる」ことこそ最高の幸福ではないでしょうか。

                         

                         
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          リザー・アッバース「宮廷の恋人たち」(1630) イスファハーン・イラン
                  本当に愉しそうな恋人たちですね!
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by francesco1hen | 2012-03-12 12:09 | Comments(0)
2012年 03月 11日

[ 3 ] インド人の挨拶 「ナマステ!」と 南無 そして平和・平安

(1)インド人の挨拶「ナマステ!」の意味

「ナマステ!」というヒンドゥー語の挨拶は、サンスクリット語にさかのぼります。その意味は「あなたを信頼しています」「どうかよろしくお願いします」になります。このあいさつは一日中おなじことばで交わされます。お互いの信頼のうちに挨拶を交わすというすばらしい挨拶であるといえます。


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「ナマステ!」の挨拶をするインド人
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            ガンジス川左岸に位置する最大の沐浴場 ワーラーナシーにおける沐浴(ベナレス)







(2)ヒンドゥー教徒の願い、輪廻からの解脱

ところで、ヒンドゥー教徒は何を願っているのでしょうか。一般にダルマ(法)と実利と愛欲を三大目標にし、究極的には輪廻からの解脱を願っています。

あらゆる行為は必ず業(ごう・カルマン)として潜在的に蓄積され、すべてのものは生死を無限に繰り返すとされていますが、これを輪廻といいます。ヒンドゥー教徒は、この輪廻からの解脱・解放を最高の目標にしています。

古代インドでは宇宙の根本原理ブラフマンと人間個人アートマンの合一により、輪廻からの解脱がえられると考えられていました。現代インド人の間ではヴィシュヌ神(宇宙の維持)シバ神(宇宙の破壊)、そしてブラフマン神(宇宙の創造)が信仰されています。

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         ヴィシュヌ神  現代はこのように描かれています。



(3)日本におけるナマステ・南無は、成仏への願い

わが国では、とくに初対面の人に「どうかよろしくお願いします」と挨拶します。インドの「ナマステ!」とよく似ています。しかし、もっと古くから、平安時代に浄土教が入ってきてから使われていました。南無阿弥陀仏の「南無」は、ナマステが漢訳され、それがそそのまま使われました。

「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏に帰依し、その救いを願う念仏です。救いとは成仏することです。仏になることは真理を悟ったものになる、つまり仏と同じになることです。「南無阿弥陀仏」を唱えることによって「仏と同一になる」と信じられています。成仏、仏となりたいという願いが「南無」ということになります。

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                   描かれた阿弥陀如来   


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如来とは、真理から来たもの、また、真理に達したものという意味があります。また、真理を悟ったものを仏陀、仏といいます。

釈迦が真理を悟り、仏陀となったとき涅槃寂静の境地に入ったと言われています。涅槃・ニルヴァーナの現代語訳は「絶対の安らぎ」です。寂静・シャンティは「平和・平安」です。





[補遺] 南無妙法蓮華経 国土草木悉皆成仏 という「題目」があります。この題目を唱えれば、国土の山河、草木も皆ことごとく仏になる,という意味です。
これは自然との同化・一体化を理想としている日本人独特の考え方であるといわれています日本人は自然を大切にしている民族であるということがよく表れているような気持ちがしますね。
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by francesco1hen | 2012-03-11 17:07 | Comments(0)
2012年 03月 08日

[ 2 ]  茶道「和・敬・清・寂」と キリシタン(つづき)

(3)「賓主互感」のなかの 和・敬・清・寂

狭い茶室の空間で賓主と亭主はきわめて短い間合いで対座し、立ち居振る舞いも一つ残らず見逃すことがありません。茶室の内外の音も、とりわけ賓主の衣ずれ、呼吸の音も聴き逃すことがないほど近い距離にあります。茶室におけるこの距離感は心理的にも親密なつながりを醸し出す、すぐれた空間です。

言い換えると、茶室は「和」の空間であると言うことができます。「一期一会」の心を込めた茶道の「ふるまい」は互いを理解し、知り合う喜びと親しさをいっそう深いものにします。茶室における招かれた賓客と招いた亭主は心と心の交流を深めるのです。賓主は謙虚な敬いの心をもって互いに相手を感じ合う貴重なとき「賓主互感」の時を持ちます。

「敬」は、謙虚に相手を敬うことです。茶の湯に招かれた賓客は亭主を忖度(そんたく)し(相手のことを考える)、亭主は賓客のことを忖度します。したがって賓主はお互いに感謝の心をもって楽しく時を過ごします。これを「一座建立」といいます。

相手のことを忖度し大事にすることは神の愛の対象である人を認めあい大切にすることです。キリシタン宣教師が、愛の訳語として使った言葉は「お大切」でした。茶道の「敬」は、キリスト教的愛(神への愛、隣人への愛、兄弟愛)に通じるものがあります。

「清」は、茶の湯が清らかな交わりを理想とすることを表わしています。その象徴的行為としてツクバイで口を漱ぎ手を洗って身を清めます。清らかな交わりは単純・純粋と脱俗と完全を求めます。それはさらに、茶室や作法の完璧性にまで突き進みます。またそれは、無心純粋な心と心の交わりを理想とする世界です。

「寂」は、茶道精神において最高のものとされています。閑寂な草庵の茶室は、書院の茶道の座敷に比べれば清貧・無所有の世界です。無所有は無一物。「無一物 無尽蔵」が草庵の茶室の理想とされています。草庵の閑寂は落ち着きのある場所で、心の交わりの聖なる空間です。

またそれは森羅万象・無尽蔵の広がりをもった世界です。声のないひっそりとした草庵は、余韻をいつまでも愉しむ「余情残心」の世界であり、清らかな精神の交流がいつまでも持続する無尽蔵の世界です。


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(4)茶道の精神とキリスト教的諸徳
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「和敬清寂」をはじめとする奥の深い茶の湯の心を表わす言葉とキリスト教の諸徳には不思議なほど共通するところが見受けられます。和敬清寂をとなえた村田珠光は応永29年(1422)の生まれですからキリスト教の影響を受けたわけではありません。ところが、一つ一つの言葉を比較すると、そこには不思議と相通じ、対応するメンタリティを読み取ることができます。

閑寂のうちに漂う「和」の精神性は、キリスト教的徳目の「柔和」(マタイ 5, 5)と「愛」(=マタイ 5,9)です。
「賓主互感」のうちに理解し知り合う喜びと親しさは、人と人の間における愛にほかなりません。

つづく「敬」は、柔和・謙遜(マタイ 11, 29)から出てくるキリスト教的美徳です。柔和と謙遜はとりわけイエスその人のメンタリティでした。

清らかな交わりである「清」は、心の清い人(マタイ 5, 8)、体と心の貞潔(マタイ 5, 29)に通じ、単純・純粋、無心の境地への深まりを大切にする心の世界です。

閑にして音のない世界「寂」は、俗塵を離れた閑寂な茶室の無限の世界をあらわす言葉です。聖書にしばしば次のような記述が見られます。「人々を去らせると、イエスは祈るために山へ退かれた」「弟子を連れて高い山に登られた」「群衆を見て、山にお登りになった」などですが、これらはイエスが静寂な山で沈黙のうちに祈ること、その祈りの場は内的にもっとも深く結びつけられていた父なる神とのもっとも親密な対話の場であり、弟子たちに最も大切な教え、あるいは神秘を示す場所であったのです。イエスの時代に人里はなれた閑寂なところは山であったのです。

以上のように、「和敬清寂」の精神は、意外にもキリスト教における心性(メンタリティ)と共通する側面をもつものであると考えることができます。

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賓主の互いを思いやる忖度の親切と感謝の雰囲気を「一座建立」といいますが、これは「何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい」(マタイ 7, 12)という黄金律の教えと全く同じ精神です。

心を込めた「ふるまい」の最高の心構えを表わす、「一期一会」は、その時そのときを最善に生きることを教えているマタイ 6, 36 の「だから、あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の労苦は、その日だけで十分である」という精神にきわめて近いと思われます。

草庵風の茶室における精神の交流の持続を大切にする「余情残心」は、ミサでの交わりの儀(聖体拝領)の恵みの持続を願う心と同じです。閉祭の儀の「ミサは終わりました。行きなさい主の平和のうちに!」「神に感謝!」は、交わりの儀の「余情残心」とも言うべきものです。

言葉ではありませんが、茶室への路地と「にじり口」も聖書の言葉に対応する意味をもっていることを付け加えておきます。「狭い門から入りなさい。滅びへの道は広く、そこに通じる道は広々としていて、そこから入る者は多い。しかし、いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つける者は少ない」(マタイ 7, 13-14)という「二つの門」の喩えには、驚くほど茶道のメンタリティに近いものがあります。

この他にも、茶道とキリシタンとの少なからぬ関連性や類似性は多いのですが、機会を見つけてまた調べてみたいと思います。

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by francesco1hen | 2012-03-08 19:23 | Comments(1)
2012年 03月 08日

[ 2 ]   茶道「和・敬・清・寂」と キリシタン

(1)黄金の茶室と草庵風の茶室

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豊臣秀吉は、大阪に五重六階地下二階の豪壮で堅固な大阪城を築いたことでも有名です。図版は、「大阪夏の陣図屏風」に描かれた豊臣大阪城天守です。


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この秀吉と千利休は天下の名器を集めて京都・北野神社の境内と松原でひらいた大規模な「北野大茶湯」(おおちゃのゆ)を主宰しました。秀吉自身は神社拝殿内にしつらえた名物道具飾りの三つの座敷の中央に自慢の黄金の茶室を設け、黄金に包まれた神のごとき位置に自らをおきました。茶道具まで黄金で造られたこの黄金の茶室は、当時の人々を驚嘆させました。

しかし、それは豪華でも黄金に閉ざされた小さな茶室に過ぎませんでした。


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これに反して、秀吉とともに大茶会を主宰した利休は、一方ではこれと全く趣を異にた草庵風の茶室を創意することによって「侘び茶」を大成しました。利休の茶室で現存する唯一の妙喜庵待庵は、二畳敷という最小の茶室ながら数々の数奇(すき)が凝(こ)らされていました。

この数寄屋風の小間は宇宙自然の縮小としての茶室、たとえ小さな草庵であっても、そこでは宇宙自然への広がりが象徴されていました。数寄が凝らされたその茶室は、閉ざされた黄金の茶室とは比較できないほどの宏大な世界でした。


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(2) 和・敬・清・寂 と ミサの聖体拝領

茶の湯の精神をもっともよく表している言葉は、「和」「敬」「清」「寂」です。
「和」は「禾」と「口」の字から出来ており、食べるという意味をもっています。つまり、飲食を共にすることによるお互いの親密感の広がり、愛と喜びと平和を表わす文字です。

茶道における「点茶と喫茶」(お茶を立て、お茶を飲む)は、薄茶と濃茶の二種類がありますが濃茶が正式の茶です。濃茶は、客の人数分の茶を茶碗に入れ、湯を注いで茶を練り上げて湯を加えます。その一椀の茶を上客から順番に飲み回す作法のことです。

濃茶の回し飲みというのは不思議な作法とされています。一つの茶碗でまわし飲む習慣のない日本人にとって、他人が口を付けた器から飲むということは抵抗感がのある飲み方です。古くから日本人は口を付けた器に対して潔癖でした。碗を手で持つとき、その手が碗の縁にかからないように持ち、碗や丼の内側に親指をかけることはまことに無作法、ということになっています。唇を直接つけるもの、茶碗、箸、湯呑みなどは共用しないで個人用のものを使います。親子兄弟といえども共にしないという区別の領域が唇です。

これを逆の立場からいうと、他人ではなく親密な関係に入る儀礼では、唇の領域を共にすることがさまざまな形でおこなわれています。夫婦のちぎりを結ぶ結婚式で行われる三三九度はこのカテゴリーに当たる行為です。同じ器から同じものをまわし飲む儀礼は洋の東西を問わず、古代から契約や固い盟約をむすぶ時には共同飲食が行われました。

共同で飲み共同でものを食べるということは、人と人を親密に結びつけ、平和な状態をつくり出す大切な儀礼として行われてきました。茶の湯における濃茶と懐石料理は、まさに共同飲食の儀礼をもっとも高度に洗練させた「文化のかたち」であると言えます。


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「南蛮屏風」に描かれた南蛮寺の一室で、南蛮人と日本人が茶を服し、語り合って茶の湯を行なっています。












カトリック教会のミサのなかで行われる聖体拝領は、まさに共同飲食として行われるのです。ミサという礼拝は、師イエスと12人の弟子の共同の食事である〈最後の晩餐〉と〈十字架上の犠牲〉をミサのなかで典礼的に再現することが中心になっています。聖体拝領は、十字架上で父である神に捧げられたキリストの体、聖体(ホスチア=犠牲)と聖血(おんち)を会衆である信徒が共同飲食することになるのです。
このさい聖体は一つのチボリュウム(聖体を入れておく器)から食べ、聖血は一つのカリス(杯)から回し飲みするのが原則です。

ミサにおける聖体拝領は、食べて飲むというその具体的な行為で〈キリストと一致する〉ことであり、聖体拝領する会衆は、キリストに結ばれることですべての信徒が〈一つに結ばれ〉、キリストの神秘体である教会を意識します。このキリストと一致する聖体拝領は、ラテン語でコムニオ(communio・一致の意味)と呼ばれています。〈神であるキリストと一つになる〉ことは、神の平和のなかにいることです。

このことを見ると、茶道とミサにおける食べて飲むという行為のうちには、互いに相通じるものがあり、それは異なる文化の出合いというなかの共通項の発見ということにもなると思います。

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鎌倉東慶寺に所蔵されている「キリシタンの聖体器(チボリュウム)」 IHS はイエスを象徴する記号です。




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by francesco1hen | 2012-03-08 15:18 | Comments(0)
2012年 03月 06日

[ 1 ]  断・捨・離 と 無一物 無尽蔵(つづき)

(2)無一物 無尽蔵 ついて

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「無一物 無尽蔵」あるいは「無一物」(無尽蔵が書かれていなくても人々はそれを読み取ります)は、禅室や茶室の床の間に軸として掛けられ、大切にされている精神です。

この「無一物とは何も存在しないこと、何れにも執着しない境地に達すると、大きな世界が開ける」とか「自分のものは何もない。この世のものはすべて自分のものになる」という意味です。また、あらゆる欲望を捨て、心を虚しくすれば、そこにありとあらゆる豊かさが満ち溢れてくるのだ、という意味にもなります。

この精神を「侘び茶」として完成したのが千利休でした。閑寂な自然のなかにとけ込んでいる最小の茶室・妙喜庵待庵は、天地宇宙の象徴として無限への広がりをもっています。

また、これまでの名物道具を見せるための「道具」本意の茶の湯から、利休がこれまでの飾りを極力排除した茶室や、飾り気のない茶道具を考案したのは、茶の湯を介して亭主も賓客も共に「虚飾」を捨て去り、無尽蔵のふれあいを楽しむためでした。

大切なものは、人と人との「深い交わり」にあったのでした。宇宙自然のなかでの人の生き方の理想を求めたのです。このことは現代の世界の状況・様相にあるわれわれに、個人の生きる根拠や方向性を示唆するものではないでしょうか。

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現代文明は、限度を知らないあらゆる欲望の集積であり、その総体としての観を呈しています。個人から国家レベルにおいて、また経済分野における企業や金融のグローバル化の状況は、その止まることを知らぬ欲望のすがたを如実に示しています。

現代世界の政治・経済の動きからすると,地球上の諸資源は無尽蔵ではありえず、遠からずその枯渇から免れません。造られるエネルギー原子力発電も苛烈な危険と隣り合わせの不安・恐怖にさらされています。

今回の東日本大震災・大津波、原発事故で、自然の力や人災によってわれわれの文明がいかに脆いものであったかを思い知らされました。そのような状況のなかから『反欲望の時代へ』という本も現れました。このことに関して、今われわれが「何を問われているのか」を真剣に考えなければならない時にあることに気付かされます。

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「人見るもよし、人見ざるもよし、われは咲くなり。」

武者小路実篤が牡丹の絵を描き、上の讃を書き添えました。花本来の咲きかたを見事に教えてくれています。

〈人間の本来の生き方〉とは何でしょうか。「幸福に生きること」という答えがあります。仏教では、「仏性(ぶっしょう・仏になる可能性)」を生きることです。キリスト教では、「希望と喜び」に生きること、それは「神の愛に招かれている存在」を生きることになります。

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by francesco1hen | 2012-03-06 22:27 | Comments(0)
2012年 03月 06日

[ 1 ] 断・捨・離 と 無一物 無尽蔵

(1)断・捨・離 について

『断捨離』という本が売れています。32万部突破。断捨離ブームはこの本から! 物を断ち、ガラクタを捨てれば、執着も離れていく、と。この本は究極の整理術を提唱し、新しい自分自身を発見できると解説しています。

豊かで便利快適な生活にあこがれ、人は旺盛な購買力で消費欲を満たしてきました。気がついてみると物に溢れて身動きできない自分自身に困惑しています。ひどい場合は「ゴミ屋敷」と言われるような状態にもなっています。整理術の指南を受けなければどうしようもない人々が、おびただしくいるので断捨離ブームが起こったに違いありません。

モノの整理に成功し、快適な生活のなかで自分自身を発見しても、また整理に負われる現実が来るでしょう。物への執着を断ち切り、欲望を捨て無所有になる。執着という束縛からは慣れて自由になる「眼」を開かなければ、本当に大切な「人間の生き方」は見えてこないのではないでしょうか。

「捨」ということに関連する「四無量心」(チャトゥル・アプラマーナ)という言葉があります。
「四無量心」とは、「慈」(最高の友情、友を愛する心)、「悲」(同感し、共に苦しむ心)、「喜」(人々の幸福を喜ぶ心)、「捨」(あらゆる執着を捨てる心)の深さ大きさで人々を悟りに導くという意味です。さらに「捨施」「喜捨」「捨身」という大事な意味をもつ言葉もあります。

現代風にいうならば、ボランティア活動や国際協力、開発援助などがそれです。断捨離は自分の快適生活のためだけでなく、人間として人々との連帯、隣人(出合うすべての人)との絆をたもつ生き方にならなければならないものです。

地球上の1/5だけの人々が富裕で便利快適な生活を享受しているのに、4/5の人々が貧困や欠乏に悩まされ、当然認められるべき権利も奪われているような状態は、あってはならないことです。



平静を意味する「捨」(ウペッカー、ウペクシャー)は、心が暗く沈んでいる悪い状態から離れさせ、心を平静・平安の状態にすると考えられています。ということは、「捨」は釈迦の悟りの境地「涅槃・寂静」(絶対の安らぎ・心の平和)に、つながりをもつものと言えます。


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                   一遍上人の言葉

「本来無一物(もつ)なれば、諸事において、実有(う)我物の思いなすべからず。一切を捨離すべしと云々。」

(人間は本来無所有であるから、何事につけ、確かに我がものとして所有するという考えをしてはならない。一切を捨て去るべきである。)『播州法語集』七十八より
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by francesco1hen | 2012-03-06 18:45 | Comments(0)