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2012年 11月 30日

晩秋の舞岡公園「小谷戸の里」(その2)

「狐久保」から「中丸の丘」に登ってみました。展望風景がいので好きな場所です。
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遠くの方に見えるのは、なぜあんなところに大きなクレーンがあるのだろうかと不思議におもうほどです。

「中丸の丘」を下って、水田をぬってゆくと「さくらなみ池」と「宮田池」が、ならんでいるところに出ます。ここには、いつもたくさんのカメラマンが、三脚と大きな望遠レンズを備えたカメラで水鳥を狙っています。彼らは忍耐ぶかい人たちです。でも、いい人たち、時々にこやかに話しを交わしています。
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手前は「さくらなみ池」
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宮田池です。この池の奥の方は、立ち入り禁止の鳥獣保護区の「宮田保護区」になっています。

水田は刈り入れも終わり、稲束がきれいに干してあります。刈り取られた根元には、みどりの芽がのびているところもあります。奥の方に「水車小屋」が見えます。
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水田の近くに「小谷戸の里情報館」という小屋があります。その近くに「水車小屋」がありました。
今にも廻りそうなのです。動けばもっといいのですが〜。
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美しい田んぼの風景を愉しみながら歩き、帰ることにしました。午後の2時半ともなると、里山の風が冷たくなってきます。行き交う人も、「寒くなってきましたね〜」です。
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                          *


昨夜、BBC制作の「神秘の太陽系」という TV を見ました。太陽系のさまざまな惑星の不思議な父兄をみせると同時に地球上各地のみることもできないような珍しい風景をみせてくれました。

宇宙を創造し、地球上の人類などをはじめ微細なものまで創造し、かつこれを維持し、恵みおおい自然をお与えになっている「神の神秘」を感ずるばかりでした。

自然とかかわりのなかで生まれた里山の美しさや楽しさを満喫する、晩秋の舞岡公園「小谷戸の里」への訪問でした。

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                         ***


それにしても、里山のうつり変わりの早いのには驚きます。人に言わせれば「そんなの当たり前だ、ただ気付くか気付かないだけだよ!」と、こともなげに言う人もいます。

二十四節気があるように、わが国の移り変わはげしい微妙な姿を見せろ自然、奥ゆかしさを感じさせる自然のなかで、日本の美しい文化は育ってきました。

自然のうつろいのなかにある世の中のことを、松尾芭蕉は「不易流行」といいました。変わることが変わらないのだ、と。世の中は「無常だ」(常に変わらないと言うことはない)ということと同じです。ただ芭蕉は、そのなかで俳諧の美を求めました。多くの文人墨客は、その自然のなかに没入しました。

これらのことを考えると、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」という、イエスの言葉が思いだされます。文語文の聖書では、「天地は過ぎん、されどわが言葉はすぎざるべし」でした。                                              (マルコによる福音書 13, 31)



                          *
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by francesco1hen | 2012-11-30 12:54 | Comments(0)
2012年 11月 29日

晩秋の舞岡公園「小谷戸の里」(その1)

お気に入りの舞岡公園には、今年の7月と8月の初めに訪れたいます。このブログでも紹介いたしましたが、7・8月とはまったく違った風景に出合いました。先ほど夏の写真と見比べてみましたが、その変化には驚嘆しました!

やはり秋の終りを肌で感ずるような、晩秋の舞岡公園「小谷戸の里」の訪問でした。(11:00〜14:30)

神奈川中央交通「京急ニュータウン」のバス停をおりると、このような風景でした。

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歩道をあるいて「公園入り口」に向かうとき見あげると、うれしくなるような秋らしい空です。

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入り口に近い「もみじ休憩所」の紅葉はまさに秋でした。散るのを待って、くれていたようです。

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「小谷戸の里」のまわりの丘は、このような風景です。冬はすぐそこまできているような気配です。

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夏きたとき、たいへん気に入った「ばらの丸の丘」です。ケヤキの葉がすっかり落ちていました。
読書している人がいました。秋ですね〜。

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この日差しは暖かい冬のような日差しです。率直にそう感じました。

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「ばらの丸の丘」をへて、「瓜久保」や「狐久保」にまわってみました。窪地なのですが、たいへん気持ちのいいところです。林の中だから気持ちがいいのです。

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大きな望遠カメラで野鳥をねらっている人がいました。キャンバス・チェアーに座りじっくりと待っていました。「なにを撮っていますか」と訊ねたら「何でも撮ります」(笑)という返事が戻ってきました(笑)。
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                   舞岡公園「小谷戸の里」は、やはり、わたくしのお気に入りの場所でした。



                        *   *   *


                    
                   次回 「舞岡公園小谷戸の里(その2)」 がつづきます。
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by francesco1hen | 2012-11-29 18:24 | Comments(0)
2012年 11月 28日

偶感  湘南・藤沢市の「木と花と鳥」

偶感という古いことばを使いました。むかし、「偶感  忘れ得ぬ人 」というような随筆をよく見かけましたし、読みました。子供のころ家の門札に、ただ、「 寓 居」と書かれていたり、「 安田寓 」と書いてあったのを見たことがあります。寓は、当用漢字表の外の字になっています。このごろは「 寓居 」とか「 中村寓 」というよな表札は見かけません。寓は、仮住まい、仮住まいするの意で、自分の家をへりくだっていう言い方です。

ほとんど使われなくなった偶感は、折々にふと心にうかんだ感想のことです。ハルキュオーネという名前から、「ハルキュオン」という愛らしい鳥の名前ができました。そこで、藤沢市の木と花と鳥のことを思い出しました。


b0221219_1654124.jpg藤沢市の木は「黒松」です黒松はふつうに見る松の木です。なぜ市の木になったかは知りませんが、あらためてこの松を見るとなかなかいい木であると再認識しました。右の松は、近くの中村さんの家の黒松です。いつも庭師がはいって手入れがよく気持ちのいい松の木です。




b0221219_16543539.jpgこの黒松は、あるところで偶然に見つけた黒松です。この松は、いつも柔和で信仰深い親しい知人が、なにかの記念として、自分の家の門がまえの松を植えたものでした。 「久輝(ひさき)の松」の札がついていましたので、植えた日付がわかりました平成12年9月6日でした。偶然みつけた日は、彼が亡くなってから1ヶ月ほど後のことです。亡くなったのは松を植えた年から12年後の平成24年9月6日でした。植樹と帰天の日は、12年後のおなじ月日でした。

偶然の一致とはいえ、なにか感ずることがありました。この黒松を見るたびにその優しい彼の顔を思いだし、親しかった知人のことを想いだすのです。

松といえば、もう一つ思いだすことがあります。大学時代からの親友であった彼は,ドイツ哲学を学んだ人です。1997年写真のような賀状をくれました。ガリ版印刷で彼が刷ったものです。
賀状には「古松聞春声」(古い松から春の声を聞いている)と書かれていました。添え書きには「秋にはわが家でも豊かに稔り、うまい米を食べています」と。

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この賀状へのわたくしの返礼として,「靜聴松風」(静かに松の風を聴く)ということばを送りました。


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「 藤沢市の花 」は、フジです。市の名前から当然えらばれたものと言うことがわかります。
写真は、四季をつうじて市民に親しまれている新林公園のみごとな藤棚です。建物は、長屋門の立派な姿です。藤の季節にひときわ美しく見えます。


「藤沢市の鳥」は、カワセミ(翡翠)です。「 飛ぶ宝石 」とか「 清流の宝石 」と、たいへんいい別名があります。すがたを見れば、カワセミもいいのですが、「ハルキュオン」にくらべると、いささかかわいそうな気もします。なぜ「カワセミ」なのでしょうか。「 川瀬美 」なのでしょうか?
それならいいのですが、「ハルキュオン」は、たいへん美しい名前だと思います〜ね!


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                         ハルキュオン


                       *    *    *











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by francesco1hen | 2012-11-28 18:17 | Comments(0)
2012年 11月 27日

エピローグ 《 エーゲ海とスニオン岬 》

  ギリシア神話と叙事詩から

スニオン岬はアティカ地方の最南端の半島です。そこには海の支配者ポセイドーンの神殿がありました。現在の神殿の姿は、廃墟ゆえの美しい風景をみせています。エーゲ海が300度ぐらいの広さで見ることができます。ここで広がる展望は、なかなか経験できない風景です。

古代ギリシア時代から船乗りたちは、このスニオン岬のポセイドーン神殿を目印にして航海したものと思われます。ちなみに、ポセイドーンの「ポセイ」は、「夫」という意味で、「ドーン」は、「大地の」という意味です。海と大地はやはり関係が深いものですね。

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この《 ギリシア神話と叙事詩から 》という9回のシリーズの最初に、「プロローグ」という言葉を使いました。ギリシア語では「プロロゴス」ということばです。前のことば、という意味です。ギリシア悲劇で、最初におこなわれる、プロロゴス(序幕)がそれです。

プロローグは、作品の意図などをしめす前置きの部分で、序詩、序文、序章、序幕などとしで使われています。序とか序文は古い感じなので「はじめに」とかく人もいます。

「はじめに」という言葉から、平塚らいてふ女史の「始めに女性は太陽であった」という言葉が思い浮かびます。

ギリシア語の最初の文字は、A 「アルファ」です。最後の文字は、W 「オメガ」です。


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エピローグは、ギリシア語で「エピロゴス」です。後のことばの意です。ギリシア悲劇では「エクソダス」が使われています。その意味は「脱出」すなち、役者の退場ということです。今風にいうと、終幕ということでしょうか。ギリシアの野外劇場では、幕がありませんから、脱出ないしは、退場でしょうね。

フランス映画の最後は、《 fin 》 でした。邦画では  [ 完 ] でした。 fin も 完 も、この頃はあまり見ることがありません。 fin や 完には、「完全」という意味もあります。

ところで、「オメガ」は、終りです。終りには、完成の意味があります。 fin も 完 も、作品の完成です。ある修道女は、「わたくしを、オメガにお導きください」と祈っていたそうです。この「オメガ」は、天国にいって「神と一つになる」こと、すなわち《 愛の完成 》を意味しているのです。

『新約聖書』のヨハネ黙示録(新約聖書の唯一の預言書)につぎの言葉があります。

「わたしはアルファであり、オメガである」と。今もおられ、前にもおられ、後のもられる方、万物の支配者、神である主は仰せになる。

アルファは、世界の創造のこと。オメガは、世界の終末のことです。創造と終末を知っているものは、完全であり、「全能永遠の神」であるという意味です。

「万物の支配者」はギリシア語で、「パントクラトール」です。キリスト教美術で、パントクラトールは「万物を支配するキリスト」という題名で、壁画やモザイクやイコンに描かれています。そのキリストの両側には、 A W というギリシア文字が書かれています。

「はじめ」と「おわり」には、さまざまな深い意味があると思わざるをえないと考えさせられます。

                      
                               *   *   *



                             fin             完





                     多くの方々の訪問をうけました。ありがとうございました。





                                    * 
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by francesco1hen | 2012-11-27 23:47 | Comments(0)
2012年 11月 26日

[ 8 ] オデュッセウスとペーネロペイア

  ギリシア神話と叙事詩から

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ポリス・アテナイの最南端にあるスニオン岬。 この彼方のイオニア海や地中海で、オデュッセウスは漂流をかさね、数々の冒険を経験しました。

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10年間かかったトロイア戦争がおわり、オデュッセウスたちギリシア軍はいよいよ帰国の途につきました。しかし、オデュッセウスの仲間たちは、簡単に帰国できず方々を漂流すことになってしましました。


『オデュッセイアー』も、古代から人々に愛聴され、また、よく読まれた叙事詩です。
愛聴とは、古代から叙事詩は歌われたからです。



巨人キュクロープスのいる島で仲間たちを殺されたオデュッセウスは、計略をねって一つ眼の巨人ポリュペーモスの大切な眼をつぶしてから、島を脱出しました。ところがポリュペーモスは、海の支配者ポセイドーンが大事にしていた息子でした。これを怒ったポセイドーンは、オデュッセウスたちの行くさきで散々な目にあわせます。戦いが終わっても10年間の漂流と冒険をつづければならなっかった原因は、じつに、ここにあったのです。

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オデュッセウスたちの漂流と
一つ眼の巨人ポリュペーモスを倒すオデュッセウスたち
(ギリシア陶器・赤絵)








漂流中に、船乗りの身を破滅させる恐ろしいセイレーネスの島に近づいたとき、美しいセイレーネスの声をなんとかして聞きたいという好奇心を抑えることはできませんでした。そこで彼は知恵をしぼり考えました。自分を帆柱に縛り付けさせ、船乗りたちの耳にロウを注いで聞こえないようにして、全速力で通りぬけるという方法です。

耐えられぬ声を聴いてオデュッセウスは、セイレーネスのほうへ行きたいという力に身をもだえながらも、ついに美しい声をきくことができました。

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右の絵では、セイレーネスが、船まできてオデュッセウスを誘惑しています。
危険を知らせるサイレンは、破滅にみちびくセイレーネス(セイレーン)の声からきています。

オデュッセウスたちは、船乗りを破滅に誘う難所セイレーネスの島を通過しても、さらに十二本の足をもつ怪物スキュレーの難所をすぎても、オデュッセウスは度重なる暴風に翻弄され、船も部下もこごとく失ってしまいました。

いまや一人になってしまったオデュッセウスは、オーギギュエーの島の美しい姿のニンフ、カリュプソーの洞窟にとどまっていました。帰国するあてもないままに、彼は女神カリュプソーの親切な慰めや歓待をうけながら、もう長い年月がいつの間にか過ぎていました。

この頃になると、ゼウスを始め神々はオデュッセウスの身の上をあわれに思い、彼を故郷イタケーに帰すように計らいました。使者ヘルメスから神々の意思をつたえられた美しいカリュプソーは、それを残念におもいましたが、ただちにオデュッセウスに筏を作らせ、自ら織りあげた帆布を筏にはらせて、バイエケースの島に行くようにすすめました。筏はカリュプソーが送る順風に帆をあげて十七日の航海をつづけ、翌十八日にオデュッセウスは、バイエケースの島のおぼろげな島影を見ることができました。

このとき海の神ポセイドーンは、オデゥッセウスの筏が海を渡っていくのを発見しました。またまた大嵐がひき起されました。オデゥッセウスは、逆巻く大波に投げ出され、見るかげもなくなった筏にしがみついていました。

このさなか、海の女神レウコテアーとアテナー女神に助けられて、オデュッセウスは三日目にはバイエケースの島の岸辺にたどり着くことができました。疲れきっていた彼は海岸の近くの森に入って木の葉をあつめ、そのなかに深く身を埋め横たわると、そのまま寝込んでしましました。

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目が覚めたときオデュッセウスの前に立っていたのは、この国の女神のように美しい王女ナウシカーでした。飢えに苦しみながらも、彼は自分が難破した次第をものがたり、身にまとう布一枚を乞い、この国の都に案内してくれるように頼みました。話しの途中、ふとイタケーにのこしている妻ペーネロペイアのことを想いだしたのか、「男が彼の妻と一体になって生活するほど素晴らしいものはない」と、もらしました。このギリシア語のことばのなかに「ホモプロネオンテ(同じ思いを分かち合って)」という、美しいことばが使われています。

オデュッセウスは都で国王アルキノオスの宮殿に案内され、響宴の間で大いに歓待されました。アルキノオス国王は、善良で思慮深いオデュッセウスが王女ナウシカーと結婚して、この国に永住してくれればよいと思うのでした。しかし無理矢理に引き留めようとはせず、帰国するための配慮までしてくれたのです。

いっぽう、オデュッセウスの領地イタケーで妻ペーネロペイアは、二十年近く夫が不在でも容色は衰えず、彼女との結婚で領地をねらう求婚者たちに悩まされていました。やっと領地イタケーに帰国したオデュッセウスは、十分な準備のうえ息子テーレマコスとともに不埒な求婚者たちをことごとく討ち滅ぼしました。オデュッセウスは汚れ切った広間を硫黄で浄めさせ、トロイア戦争出征いらいの妻との再会をはたしました。

このようにして、オデュッセウスとペーネロペイアは、「同じ思いを分ち合って(ホモプロネオンテ)」一つの家に住む歓びのひとときを過ごし、また、息子テーレマコスと一緒に家族と暮らす幸福を味わうことができたのです。



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オデュッセウスを待つペーネロペイア(ペネロープ)
左は、ブルーデルの作品です。



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                      次回は 《 愛するハルキュオーネ 》  です。
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by francesco1hen | 2012-11-26 11:31 | Comments(0)
2012年 11月 24日

[ 7 ] アキレウスとペンテシレイア

  ギリシア神話と叙事詩から

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b0221219_11574222.jpgアレクサンダー大王も、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の愛読者でした。遠征の陣中にあっても、いつも携えていた『イーリアス』を読む習慣があったそうです。

トロイア戦争がおわりに近づいた頃、またギリシア軍の英雄アキレウスが活躍します。彼は、人間ペーレウスと海の女神テティスとの間に生まれた子供でした。人間でもあるためこの子が戦いで死ぬことを知っていたテティスは、女装をさせけっして戦争に行かないようにさせていました。

しかし、トロイア戦争でアキレウスの武将としての、その力は誰にもまして必要とされていました。その出陣が要請されていたので、智将といわれていたオデュッセウスが、アキレウスを誘いだすことになりました。彼は商人に化けてアキレウスを訪ね、たくさんの女の衣装を広げて見せびらかしました。

アキレウスはたいして興味もなかったのですが、着物のかげに立派な短剣があるのを見つけて、たちまちにして戦争へ行く気持ちが高まり、トロイア戦争に参加することになってしまいました。

こうして、オデュッセウスの計略はみごとに成功しました。英雄アキレウスの出陣にはこのようなエピソードがありました。

戦争のおわりの頃、トロイア随一の英雄、王子のヘクトールが勇ましく戦うなかで、アキレウスの親友で彼の武具を借りて出陣したパトロクロスが、ヘクトールに倒されました。友の死を悲しんだアキレウスは、どうしても敵将のヘクトールを打ち取り、友の敵討ちをはたしたいと決意しまいた。

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                   ヘクトールとアンドロマケーの別れ


アキレウスの挑戦を受けてトロイアの王子、勇者へクトールは、死を覚悟してでも出陣しなければなりませんでした。

『イーリアス』全巻のなかで最も美しい第六巻に、死を覚悟して出陣する勇者へクトールと、それを悲しむ妻アンドロマケーの別れの場面がでてきます。そして、幼子アステュアナクスをかわいそうに思う母、わがが子をあやし口づけするヘクトールの姿、わがが子に祈願を込めた祈りのことばを語りかけ、愛しい妻の手に自分の子をおいてやるヘクトールの仕草などは、『イーリアス』のなかで、ひときわ親子の情愛が美しく描かれていて印象的です。

アキレウスは、友パトロクロスの敵を討つためトロイアの勇者へクトールに戦いを挑んできました。
受けて立つヘクトールは、力を尽くしてアキレウスと戦いました。決着はなかなかつきませんでしたが、一瞬の隙をついてアキレウスの剣が、ヘクトールの喉元を深くさして致命傷となり、ヘクトールはついに倒れました。ヘクトールの遺体はギリシア軍に引き取られてしまいました。

戦いがおわり、トロイア側に悲しみの気分が広がるなかで、トロイアのプリアモス王は、ギリシア軍の陣営におもむき、丁重にアキレウスに願いヘクトールの遺体を引き取ってきました。トロイアの人々の悲しみ、最愛の息子へクトールを喪った王妃へカベー、優しくしてくれたヘクトールを失ったヘレネーの悲しみ、盛大な葬儀に涙する女たちの嘆きのうちに、葬送の儀が行われました。

b0221219_22353731.jpgb0221219_22351173.jpg倒されたヘクトール                           


                                                                                                                            ヘクトールの葬送



盛大に葬送の儀が行われたその日、ペンテシレイア女王に率いられた強力なアマゾネス女軍団の来援が城下に到着しました。葬儀がおわり、ふたたび両軍の戦闘がくり広げられました。戦いの雌雄を決するアキレウスとペンテシレイアの戦いがおこなわれました。けなげに戦うペンテシレイアもついにアキレウスを倒すことはできず、アキレウスの鋭い剣を胸元に受けて、命を落としました。

アキレウスは、絶命してゆく彼女の顔をじっと見詰めました。彼女が最期を遂げるその刹那、このけなげな美しい女こそ、自分が最も深く愛する女性であったことを知りました。激しい憐れみと愛着と、後悔と自己嫌悪に苛まれて、アキレウスは自分の手がしてしまったことに、ただ茫然とするばかりでした。
しばらくして、彼にできたことは、彼女の遺体を清め、進んでトロイア軍に返して、丁重に葬らせることだけでした。

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ペンテシレイアを倒すアキレウス (黒絵のギリシア陶器)

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アキレウスの剣で絶命するペンテシレイア (赤絵のギリシア陶器)


兄の王子トロイアの勇者ヘクトールが討たれ、援軍のペンテシレイア女王も討ち取られたトロイア側は、どうしてもアキレウスを討ち倒さなければなりませんでした。戦いはふたたびくり返され、王子パリスがアキレウスとの決戦を挑みました。

若いパリスは巧妙に戦いました。それに劣らずアキレウスは勇ましく立ち回りました。しかし、パリスには、彼を助けるアプロディーテが後ろについていました。アキレウスの致命的な弱点を教えられていたパリスは、はげげしい闘争のなか隙を逃さず、アキレウスの踵をねらい矢を放ちました。

踵を射られたアキレウスの紅潮していた顔は、見るみるうちに青ざめていきました。パリスの第二の矢を胸に受けると、そのまま地面に倒れて命が絶えました。英雄アキレウスの死は壮絶なありさまでした。このようすを近くで見守っていた戦友アイースは素早く駈けよって、アキレウスの痛々しい遺体を担いでギリシア軍の陣営に運んでいきました。

母の女神テティスの恐れは、ついに起ってしまいました。アキレウスの運命は、このような結末でおわりました。

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                 陣中で将棋を指す アキレウスとアイアース




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      次回は ホメロスの叙事詩『オデュッセイアー』の《 オデュッセウスとペーネロペイア 》 です。









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by francesco1hen | 2012-11-24 13:15 | Comments(0)
2012年 11月 23日

[ 6 ] ラオーダメイアとプローテシラオス

   ギリシア神話と叙事詩から

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この海、エーゲ海のはるか彼方にトロイアの城市がありました。


《 トロイア戦争の原因について 》

プローテシラオスは、トロイア戦争の最初の戦死者でした。ラオーダメイアは、その新妻でした。彼らの話しをする前にトロイア戦争の原因について触れておきたいと思います。

人間ペーレウスと海の女神テティスの結婚式?の宴席で神々たちが楽しんでいるところへ、争いの女神エリスが「最も美しいい女性に!」とかかれたリンゴをなげ込みました。それをめぐって三女神、ヘラーとアテナー、アプロディーテとのあいだに争いがおこり、相談の結果イーデー山で牛を飼っているトロイア王子のパリスが、美の判定をくだすことになりました。

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そこで女神たちは、パリスを買収しようとかげで誘いかけました。ヘラーは政治的支配の力を、アテナーは戦争における勝利を、アプロディーテは美女の愛を約束しました。この三つは、古代の人間が人生をどのように生きようかと考えるときの条件になっていました。

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牛飼いの王子パリスは、第三の申し出をえらびました。そして、世界一の美女を手に入れることになるのですが、絶世の美女ヘレネーはすでにスパルタ王メネラーオスの妃となていました。パリスはアプロディーテのみちびきで、船に乗ってギリシアに渡り王宮の客となって、その隙にヘレネーを誘惑して連れ出し、トロイアに帰国してしまいました。

王妃を奪われたメネラーオス王は、ギリシアの諸王にうったえ、アガメムノン王を中心に連合して、ヘレネー奪還のためのトロイアへの遠征が行われることになりました。この戦争は10年間の戦いで、最後には、「トロイアの木馬」の計で、トロイアの城市は炎上してしまいました。
有名なホメロスの叙事詩『イリアス』が、この戦争のようすを詳しく歌っています。

ギリシア文献の断片いよると、トロイア戦争の原因は、ゼウスが地上に人間が増えすぎたので、人口を減らして大地の負担を軽くするために戦争を計画したのだ、という根本的な原因を記しています。



《 ラオーダメイアとプローテシラオスの話し 》

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赤絵のギリシア陶器 「戦士の別れ」

トロイア戦争の最初の戦死者は、プローテシラオスでした。遠征軍がトロイアに着いたとき、船の舳先から一番先きに砂浜に降り立ったのが彼だったのです。そのとき待ち構えていた敵兵が、彼を目がけて一斉に槍を投げました。プローテシラオスは、このように上陸したその日、命を失うように運命づけられていたのです。

実は、彼は結婚式を挙げたその翌日、トロイアに向かって出征したのでした。プローテシラオスの戦死が故国に知らされたとき、新妻ラオーダメイアの父親はやむをえないことと諦めて、彼女をふたたび他に嫁がせようとしました。しかし、ラオーダメイアは断固としてこれを拒みました。

この上ないほど夫につよい愛情をもっていた彼女は、ロウで夫の像を造り、亡くなったプローテシラオスの像をかき抱き、涙とともに夫への思いを訴えるばかりでした。

一方のプローテシラオスは、ハデスの国に赴いたのですが、新妻ラオダーメイアへの熱い恋に苛まれていました。そして、ただ一日だけでも愛しい妻のもとに帰らせてくれるよう願うのでした。ハデスの国の女王ペルセポネーは、彼の心を知り哀れに思い夫ハデス王の許しをえて、プローテシラオスを生きている姿に還し、一時だけ地上に帰らせることを許しててやりました。

家に戻ってきたプローテシラオスを見て、ラオーダメイアは夫が戦場から帰ったとばかりに喜んで、この上もない幸福なときを過ごしました。しかし、この歓びもつかの間、彼女ははじめて「事実」を悟らされました。ただ、この夫とともにあるためには、ただ一つの道だけがあることを知りました。夫との別れのとき、彼女はためらうことなく剣をとって、その胸へと深く刺しとおしたのでした。

ラオーダメイアは死をも恐れず、夫と「共にある」ことをえらびました。彼女のことは、「死を越える愛の物語」として感動を呼んでいます。プルタルコスの『愛をめぐる対話』で、このプローテシラオスやアルケスティスの話し、エウリュディケーとオルペウスの話しなどが伝えられています。

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           オーギュスト・ルノアールも《 パリスの審判 》を、このように描いています。


                          * 



           次回は 《英雄アキレウスとアマゾネス女王ペンテシレイア》 です。
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by francesco1hen | 2012-11-23 12:03 | Comments(0)
2012年 11月 22日

[ 5 -2 ] アルケースティスの愛について

  ギリシア神話と叙事詩から

アルケースティスの愛について、再度考えてみます。

ペライの国王アドメートスの妃になったアルケースティスは、もともと高貴な女性でした。嫁いだのちも夫との生活に感謝しながら、親切によく仕える妻でした(カリス)。夫への誠実な善意をもちつづけ、献身的といえるほど夫のために生きてきました(エウノイア)。夫の命のおわりを知ると、ためらうことなく身代わりになって夫のために死に向かうのも恐れませんでした(アガペー)。

このような自らの命を捨てて夫の命を救うすがたを見ると、わたしたちは、聖書の中のイエスの言葉を思いだします。「友のために命を捨てること、これほど大きな愛はない」(ヨハネ 15, 13 )。このイエスの言葉は、最後の晩餐のときの言葉で、翌日自分が十字架の上で人間を救うために、自分のすべてを父なる神に捧げたことをいったのです。

じつは、この直前にイエスは弟子たちにつぎのように話していたのです。「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」(ヨハネ 15 , 12 ) 。
これは第一の掟にたいして、「新しい掟」といわれています。

イエスのように自らの命を捨てて愛するとは、現実にはどのようなことでしょうか。


(1)マキシミリアノ・コルベ神父

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ポ−ランド人コルベ神父は、コンヴェンツァール・フランシスコ会の司祭として長崎・聖母の騎士社で活躍し、布教に尽くしていたことがあります。この神父は、人間の尊厳が容赦なく失われていくなかで、人間が持つべき愛を崇高なかたちで、目に見えるように示した人でした。

第二次世界大戦中、聖母の騎士社の出版が反政府的であるということで、アウシュビッツ・ビルクェナウ強制収容所に投獄されました。一人の囚人が脱走したことにより、十人の同房の者がアットランダムに選ばれ餓死刑になりました。その中の一人の男が「わたしには妻子がある」と叫びながらうめきました。コルベ神父はそれを聞いて「私はカトリックの司祭です。妻子もいませんから、私を身代わりにしてください」とい訴え、それが認められて餓死室に赴きました(1941年7月末)。

餓死室で受刑者たちは、飢えと渇きで錯乱状態に陥って死ぬのがふつうでした。コルベ神父のいる餓死室では、神父の励ましを受けた受刑者たちの祈りと歌声が響いて、餓死室があたかも聖堂のようであったと証言されています。

二週間後、コルベ神父を含む四人が存命でした。当局は刑死を早めるために注射によって、この四人を殺害しました(1941年 8月14日)。

証言は告げています。「マキシミリアノ神父は、壁にもたれて座り、目を開け、顔を左へ傾けていました。その顔はおだやかで、美しく輝いていました」と。

マキシミリアノ・コルベ神父は、1982年10月10日ローマ教皇庁で列聖(聖人と呼ばれる)されました。「アウシュヴィッツの聖人」とも呼ばれています。



(2)ニューヨーク・ハドソン川の航空機不時着事故にさいして


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1950年代のある冬のさなか、アメリカの航空機がハドソン川に不時着しました。多くの乗客は脱出して、それぞれ泳いで岸に向かいました。冷たく氷つくような水のなかで沈んでいく人もいました。
ある男性は泳げないので近くに流れていた木片にしがみつき岸へいこうと思っていました。見ると年老いた女性が彼に助けを求めていました。気付いた彼は、自分が木片にしがみついていれば生きられることも忘れて、素早く命の綱を彼女に渡しました。その男性は、そのまま冷たい水の中に沈んでいきました。

川岸でこの事故現場の状況を見ていた人びとは、この男性の勇気ある犠牲的精神に心を打たれました。そして、多くの人びとは、キリストの言葉をとっさの時でも忘れずに実行した、男性の勇気ある行為を讃えました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということばを目の当たりにした情景でした。

ニューヨーク・タイムズなどのアメリカの新聞は、大々的にこれを報じ、わが国の新聞でもたいへん感動的な記事として読むことができました。

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(3)「傷つく愛」を与えつづけたマザー・テレサ

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マザー・テレサ、本名は、アグネス・ゴンジャ・バヤジュ。1910年オスマントルコ帝国領コソボ州(現代のマケドニアのスコビエ)生まれ。長じて18歳のときアイルランド系の修道会のロレト修道会にはいり、カルカッタ(現コルカタ)に派遣され女学校で地理の教師をつとめていました。

1946年汽車に乗って移動しているとき、「すべてを捨て、最も貧しい人のあいだで働くように」という啓示を受けて、1948年教皇庁から特別許可をもらい、修道会をはなれてカルカッタのスラム街に入りました。1950年から「神の愛の宣教者会」という修道会設立の認可を受けてから本格的な活動を始めました。

同会の目的は「飢えた人、貧しいい人、家のない人、からだの不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでした。彼女たちの働きは、その文字通りのものでした。自分たちの貧しさを気にしないで、人びとに尽くしていました。

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マザー・テレサは、カルカッタを始め貧困な地域を中心に活躍しました。カルカッタの「死を待つ人びとの家」を始め、ホスピスや児童養護施設など困っている人びとを親身になってたすけました。彼女は、宗教にこだわらず、貧しい人びとや病んだ人びと、死にゆく人びとを生涯にわたって愛し助けつづけました。彼女の愛は、傷つくまで与えつづける愛でした。

彼女は言います、「ほんとうの意味で、愛するということは、傷つくということなのです」。自分の痛みを感じるほどに与える愛を、マザー・テレサは与えつづけてきたのです。その活動は世界的に広がりました。国際的な多くの賞や勲章を与えられました。なかでも有名な賞は、1979年に受賞した「ノーベル平和賞」です。

マザー・テレサは、イエスが貧しい人、病気の人、罪深い女たち、徴税人、サマアリア人など、社会から軽蔑され疎外されていた人びとを愛されたように、身じかにいるそのような人びとを、傷つくまで愛しつづけ、自分の命を生涯にわたって与えつくした人でした。まさにキリストの愛、アガペーを人びとに与えつづけたのでした。

1997年死去。2003年10月19日教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列福されました。

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ここに登場した三人の人物は、イエスの言葉、「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。「友のために命を捨てること、これほど大きな愛はない」ということを、それぞれ自分の生きるなかで実際に行った人びとでした。


                           *

ギリシア語の「アガペー」という言葉は、キリストの十字架で示された「受難の愛」という深い意味をもつようになりました。アガペーは、ラテン語では、「カリタス」ということばで「神の愛」をあらわす言葉になりました。カリタスは、チャリティー・コンサートの「チャリティー(愛徳)」でよく使われます。



                 *         *         *



       次回は 《 トロイア戦争の最初の戦死者プローテシラオスとその妻ラオーダメイア 》 です。
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by francesco1hen | 2012-11-22 13:19 | Comments(0)
2012年 11月 21日

[ 5 -1] ギリシア悲劇『アルケースティス』

  ギリシア神話と叙事詩から

ギリシア神話のなかには、ハデスの国の神々も感歎するようなアルケースティスの純粋な愛の話しがあります。これを題材にして、とくに女性の立場に深い理解をもっていた悲劇作家エウリピデースが、『アルケースティス』という傑作を世に遺しています。

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ローマ時代 ポンペイの壁画




アルケースティスの話しの概要(あらすじ)は、つぎのような話しです。

ペライの王アドメートスは、多くの求婚者を退けて、貞淑のほまれ高いアルケースティスを妻に迎えました。その後、二人は無事平穏にペライの国をおさめ、一人の子エウメーロスにも恵まれ幸福に暮らしておりました。

しかし、アドメートスは、やがて病におそわれ自分が死に臨んだとき、身代わりになってくれる者がいたら、今しばらくは命を永らえることができるという、神意を知りました。それで、賞金をかけて領民に身代わりになってくれる者を求めました、応じる者はだれ一人も出てきませんでした。

困りはてたアドメートすは、年老いた両親に頼み込みましたが断られ、しかもそのうえ罵られるばかりでした。それでは最後にと、若い妻アルケスティスに頼んでみました。意外なことに、彼女は、「今までさし控えておりましたが、貴方のためになるのでしたら、私が代わって死にましょう」と申し出てくれました。その言葉が終わるか終わらないうちに、アルケースティスの顔は青ざめ、脈はとまり暗い影が、からだ全体に覆いかぶさるように見えました。

そのような慌ただしい出来事のなかで、アドメートスの親しい友であるヘラクレースが、ペライを訪れたのはちょうどその最中のことでした。懐かしい友の訪れで、それを断りきれなかったアドメートスは、妻の死をかくして別の建物でヘラクレースを歓待するのでした。その間、アルケースティスの命は、灯が消えるように細くなっていきました。彼女は、アドメートスに後事を託しながら息絶えました。命永らえたアドメートスは、悲しみながら愛する妻の葬儀を執りおこないました。

アドメートスは妻がいなくなて初めて、妻がどれほど自分にとって大切なものであったかを思い知らされました。そして、これからの寂しい年月をどうして過ごしたらよいかと嘆くばかりでした。
一方、アルケースティスが、子供を残して夫の身代わりになった行為は、「ただ人間のみならず、神々にも美しい行為として感動をあたえ、神々はこの栄光の女性に希有の恩恵を授けた。彼女への賛嘆の高まるうちに、アルケースティスはハデスの国からこの世に帰ることが許された」といわれました。彼女がこの世に帰るとき、「アドメートスのところに戻って三日目までは、この事実を話してはならない」と条件を付けられていました。

帰って来たアルケースティスをそれと知らなかった彼は,そのあいだ滑稽なほどかたくなに彼女に接していました。三日目になって、現れた女性が亡くなったアルケースティスであることを知ってアドメートスは、ただ茫然とするばかりでした。

この『アルケースティス』という悲劇のうちにあらわれた彼女の純粋な愛が、ギリシア語のカリス(親切と感謝)、エウノイア(善意と献身)、アガペー(無私の愛)であることは言うまでもありません。

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                 *         *         *  

  
《 ギリシア悲劇がおこなわれた古代ギリシアの野外劇場 》

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アテナイのアクロポリスの真下にあるディオニソス劇場です。ここでエウリピデースの『アルケースティス』の悲劇が上演されました。


以下のフォトは、スパルタのあったペロポネソス半島のコリント地峡に近い、エピダウロスの劇場。
エピダウロスの劇場は、最も保存状態がよい古代遺跡で、その劇場は最大の規模を誇っています。
収容人数は、14,000人といわれ、最上の席からでも役者の声が十分聞こえるような音響効果がえられるように設計されていたことで有名です。また、その巨大さと左右対称(シンメトリア)の美しさが素晴らしい劇場であるとも言われています。(紀元前4世紀)

筆者は、この劇場で歌を歌ったことがありますが、自分の声が劇場の空間に充満していることを体験したことがあります。30年前のことで懐かしさがこみ上げてきます。ここに掲載したのは、そのとき撮影したフォトです。

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最上段の席から見たエピダウロスの劇場。下のフォトは、舞台後方より見た劇場のようす。
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                                  *

                    次回は 《 アアルケスティスの愛について 》 を載せます。
                   次次回は 《トロイア戦争最初の戦死者とその妻ラオダメイア》 です。
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by francesco1hen | 2012-11-21 11:19 | Comments(0)
2012年 11月 20日

[ 4 ] 冥界の王ハデスとペルセポネー

  ギリシア神話と叙事詩から

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クニドスのデーメーテル  威厳にみちた、また、精神的な深さも感じられる姿です。

ペルセポネーは、オリンポスの主神ゼウスとデーメーテルの娘(コレー)です。デーメーテルは、名前が示すように大地(デー)の母(メーテル)つまり大地毋神で、農業(とくに麦の栽培)を司る女神です。したがって娘のペルセポネーは、麦の象徴でもあります。

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娘・コレー         ギリシアの若々しい乙女の姿が見られます。ペルセポネーもこのようであったかと思われます。




麦のことを 「ビオス」といいます。そして、「ビオス」には生命という意味もあります。 麦は蒔かれ、生育して実を結び、枯れていきます。 また、翌年それをくり返します。このことを見ると、命あるすべてのものは、生・死・再生をくり返すということが明らかになっています。












神話には、デーメーテルの娘ペルセポネーが、冥界の王ハデスに突如、誘拐されるという有名な話しがあります。この突如という愛の激しさと、止めることができない運命や宿命は、じつはエロ−スの矢によって仕組まれているということを示しています。

あるとき、アプロディーテが、あることに気付いてエロースに話しかけました。「おまえと私が司っている愛はどんなものよりも強いものです。ゼウスも、すべての神々もこれに逆らうことはできなかったのです。でも、まだハデスだけがわたしたちの愛の支配の外にいるのは、何としても面白くないし、残念なことではないの! 」と。そこで、エロースがゼウスの兄のハデスに愛の矢を射たので、冥界王ハデスが恋いに狂い、突如ペルセポネーを誘拐することになったのです。

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春になって野原一面に美しい花々が咲き乱れていました。野にでた娘たちは、夢中になって花摘みに興じていました。ペルセポネーもその一人でした。
ところが、突如大地が割れてたちましにして現れたハデスは、驚き泣き叫ぶうら若いペルセポネーをかき抱き、有無をいわさず死者のいる冥界へ連れていってしまいました。ペルセポネーは、死者の国の王妃にさせられてしまったのです。



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娘がいなくなったので、デーメーテルは仕事も忘れ夢中になってペルセポネーを探しまわりました。散々苦労したのちに分ったのは、ハデスが冥界へ連れていってしまったということでした。
デーメーテルは、ハデスのところに行き、話し合ったすえ、一年の三分の一はハデスのところで、あとは母のもとで暮らすことを認めさせ、ペルセポネーを取りかえしてきました。娘が帰って来たので歓びのうちにデーメーテルが司る畑の麦は、また生育するようになりました。そして、ペルセポネーが、ハデスのもとに帰っていく頃になると麦は枯れてしまいます。

ギリシアでは、冬まかれた麦は生育して、夏に実をむすび枯れていきます。夏がおわり冬にはペルセポネーが冥界へ行っている間、季節は冬になります。ペルセポネーが母のもとに帰ってくるのは、夏の季節ということになります。ギリシアでは、夏と冬の二つの季節があるのです。
また、このことは女の生涯が、母のもとで暮らす時期と夫ともに過ごす時間の二つがあることを示しています。

ハデスとペルセポネーの話しのなかには、生・死・再生のくり返し、二つの季節の説明、母と子、女の生涯のすがたを示していると考えれます。ギリシア神話は、人間にこのようなことも教えているのです。


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                  冥界の王ハデスと王妃ペルセポネー



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             次回は 《 ギリシア悲劇『 アルケスティス 』 》 です。
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by francesco1hen | 2012-11-20 18:04 | Comments(0)