家田足穂のエキサイト・ブログ

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2016年 09月 30日

鬼才の彫刻家 桑山賀行の木彫作品(2)

文楽の「演者」(人形遣い)2007 内閣総理大臣賞(日展)

「開演直前の緊張の一瞬、はりつめた空気のなかで精神統一する演者」の姿。

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  演者(人形遣い)の存在感にみちたすがたには、何かを考えさせられます。
  人形に命を与える存在です。さらには、・・・・・ 。




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by francesco1hen | 2016-09-30 10:26 | Comments(0)
2016年 09月 29日

秀逸な彫刻家 桑山賀行の木彫作品(1)

文楽人形 「幕間」 2005

「一幕を終えた安堵感と同時につぎの幕開けの緊張感のある幕間を表現」している。

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        木彫の素晴らしさをよく示している作品ですね。






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by francesco1hen | 2016-09-29 10:49 | Comments(0)
2016年 09月 26日

妙心寺山内 「桂春院」庭園 史跡名勝(禅の庭)


臨済宗妙心寺派大本山「妙心寺」は、南総門から北へ七堂伽藍が一直線で並ぶ配置で 山門・仏殿・法堂・大方丈などが並んでいます。境内の塔頭(脇寺)の数は47と多く、随一を誇っています。そのなかで公開しているのは、桂春院・退蔵院・大心院の三か寺です。


なかでも「桂春院庭園」は史跡名勝で有名です。この度そこを訪れました。風情のある庭園なので紹介します。


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この門から入り庫裏を通ってなかに進むと、方丈北側の「清浄の庭」を見ることができます。 壷庭に井筒を利用して直立した枯滝の石組み、そこに滝の響き、白砂の渓流が音をたてて流れているような観をあらわしています。心身の塵垢を洗い浄めるような雰囲気です。



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               これが「清浄の庭」です。禅寺ならではの象徴的世界です。


 浄められた廊下を進むと「書院」に面する風雅な「侘びの庭」が目に入ります。



「侘びの庭」は、書院前庭より飛び石伝いに「既白庵茶室」(非公開)につうじる露地庭です。露地は梅軒門と猿戸によって内露地と外露地にわかれいます。


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               「侘びの庭」の梅軒門

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              奥に見えるのが方丈の縁先で、その前面に「真如の庭」が広がります。




「方丈」南側の「真如の庭」。 中心となる禅の庭園です。


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「真如の庭」の 真如 とは、宇宙に偏在する根源的実体 のことを言います。
 あるいは、永遠不変の真実(真理)ともいいます。

一面に杉苔の美しいなかに、小さい小石をさりげなく、無心に七・五・三風に配置したところは、十五夜満月を表現しているといわれています。これが禅の庭です。



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「方丈」とは、禅宗の長老(地位の高い住持)や寺の長である住職(住持)が居住する場所のことをいいます。桂春院の方丈の正面の襖は、狩野山雪(三楽の弟子 1590-1651)の「金碧松三日月」といわれる襖絵です。襖の奥には仏像が安置され、読経が行われます。


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                          *




この方丈東側の「思惟の庭」は、左右の築山に、十六羅漢、中央の礎石を座禅石にみたて、仙境に遊ぶような趣を持っています。

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                      [ 座禅について ]


座禅は、①結跏趺坐 ②呼吸・雑念を捨てる ③考案・不立文字で無想無念の「空無」の悟りの境地に入ります。

空無は、悟達の境地。「無我唯有仏」は、「仏我一如」のことをいいます。


ちなみに、ヨーガも行法による三段階は、サンスクリット語で次のようです。

①ダーラナ(凝念・ぎょうねん)= 精神を集中する。
②デャーナ(静虜・じょうりょ)= 静まり、澄みきった状態になる。
③サマーディ(三昧・さんまい)= 自分の意識が消え、対象だけが光り輝く。

このサマーディは、空無という悟達「無我唯有仏」「仏我一如」と同じです。
キリスト教でいうならば、「神との一致」「神と一つになる」という事でしょうか。


座禅の方法は、変転極まり無くいずれは滅びゆく、この世の「無常」を見通し、「常なるもの」と共にある悟りを求めることであると思われます。

真如の庭の「真如」は、永遠不変の真実・真理です。このことについては、つぎのような言葉もあります。



 
   「天地は過ぎ去る。しかし、わたし(真理)の言葉は過ぎ去ることがない。」

                       ( マタイによる福音書 24・35 )



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               桂春院を辞して、庫裏の玄関を出ました。「余情残心」








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by francesco1hen | 2016-09-26 11:47 | Comments(0)
2016年 09月 03日

木霊と共に50年「桑山賀行彫刻展」(7) 全体を見直す(総集編) 

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                   「風景ー海」滅び朽ち果てた船体


『平家物語』の始め

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花のいろ、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。


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            「赤とんぼ」 朽ち果てた向日葵にとまる赤とんぼ



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                 「帆」これも使い古され朽ちた案山子


『方丈記』のはじめ

 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世中にある人の栖と、またかくのごとし。・・・・・ 。


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                  「砂丘」 朽ち果てゆく古い柵とカラス。



『平家物語』と『方丈記』の冒頭で読み取れる無常観は、古来から日本では愛され認められてきた思想です。解説の必要がないくらい親しまれてきた言葉です。
ところが、いまや無常観は人々の気を惹かないようになっています。

小林秀雄の「無常という事」は、昭和十七年(1942)六月号の「文学界」で発表されたエッセイで、文庫本でも版を重ねています。高校の教科書にも載り、大学入試の問題にもよく使われている有名な文です。ところが今や「無常」という言葉は死語になっています。「むじょうかん」という言葉を聞いてもどういう字であるかも分らない人が多いようです。エッセイの末尾に小林秀雄は書いています。
「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事が分っていない。常なるものを見失ったからである。」


「無常という事」では、冒頭に『一言芳談抄』の中にある文が出てきます。

「或云(あるひといわく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひてとはれて云、生死無常のありさまを思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり云々」


人には生死があります。人は生きて死ぬ。この世は無常であり、人もまた無常です。
比叡のかんなぎの若い女性は、この世のことはどうであろうと、来世では、仏の手によって救われることをひたすらに願っていました。

来世の死後のことを考えないで、日常の現実的生活にだけに心を奪われている生き方には、考えるべきことがあるように思われます。現代でもこの世は「無常」です。神を捨ててしまった罪深いこの時代こそ、「常なるもの」を意識して求めなければならないのではないでしょうか。ちなみに東日本大震災も熊本地震も「無常」そのもです。現代でも「無常である事」は、われわれのすぐそこにあります。


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  「赤とんぼ」と「枯れた向日葵と山羊の頭蓋骨」が示す「生と死」が無常。



[ ソクラテスは、アテナイの人々に語りかけました。]

人の内面世界(魂・精神)に目を向けるようにと語ったソクラテスは、アテナイの市民たちを批判して「すぐれた人間になるためには、財産や容貌、名誉や評判を気にしないで、自分の魂をすぐれたものにしなければならない」と。これは古代的価値観である「知識・権力・財産・快楽」を求めすぎることを戒めるものでした。歴史のすべての時代、現代でも大なり小なり、このような価値観は信じられ、求められてきました。しかし、この価値観は否定されることもしばしばでした。


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            人はどのような「道」を歩めばよいのでしょうか?


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   「森への道」は、「無常でないもの」(永遠なるもの)への道でしょうか?



[ 旧約聖書の『知恵の書』の記述の現代的な響き ]

 「われわれの一生は短く、悲しみに満ちている。人の最後にあたって何も癒すすべはなく、また陰府から人を救い出したものは誰もいない。われわれは偶然に生まれたものであり、後には、まったく存在しなかったもののようになる。われわれの鼻の息は煙り、人の思いは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。鼓動が止まると、体は灰となり、魂は軽い空気のように消え失せる。われわれの名は時ともに忘れられ、誰もわれわれの業を思い出してくれない。われわれの一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、霧のように散らされる、日の光に追われ、その熱に溶かされながら。われわれの生涯は影のように過ぎゆき、ひとたび最後が来れば、やり直しは出来ない。・・・・ さあ、目の前にある善いものを楽しもう。・・・・・(物質的快楽を!) 」(2・1〜6)

以下叙述は続きます。その様子は、現代人が経済優先の物質的豊かさを追い求め、消費生活で欲望を満たすような様子が記述されます。『知恵の書』は紀元前1世紀に書かれた書物ですが、その記述は現代人の姿そのものようです。


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                      何処に出口があるのでしょうか。



[ 価値観の転換を求めるキリスト(救い主)・イエス ]

イエスの福音の第一声は「時は満ち、神国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。現世的な生活よりも神とともにある神の国の「永遠の命」を求めなさいというメッセージでした。過ぎ去っていく世界よりも、無常でない「永遠の命」を求めなさいということでした。このことのためにイエスはこの世に現れたのです。


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「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広々としていて、そこから入る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細いことか。それを見いだす人は少ない」。


「たとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったなら、なんの益があろうか」。イエスの言葉は、衝撃的な意味をもつものでした。「永遠の命」は、無常なこの世の富や栄誉は神の国の素晴らしさとは比較にならないほどの価値があるのだ、という福音でした。

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                    人間にさしのべられる恵の神の手。


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                      新しい命を与える神の愛の手。



来世の救い「無常でないもの」とは「神と一つになる」喜びです。比叡のかんなぎの若い女性が願ったことは「無常でない」仏の救いでした。この願いは、人間の究極的な願いです。これによって人は「絶対の安らぎ」を得るのです。


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  演者と人形は一体です。「神と一つになる」こととはこのようなことかも。


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           神秘に開かれた「窓」や「戸口」とも考えられますね。



「無常である事」は、人の生と死を考えさせ「無常でないもの」、「永遠の命」への道を開くものです。


                          *



                * [ 木彫家 桑山賀行のこれからの展開 ] *



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「とんがり帽子 — 日本の歌より」2015


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「雨が降り」2015



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「しかられて ー 日本の歌より」2015



ロビーの一部に珍しい「額縁に入った彫刻」がありました。これからの作品の傾向をしめす作品です。これからは「日本の歌より」という作品が、人々を驚かせることになるようです。あるいは、ほのぼのとした歌の世界の平和を醸し出すような作品かもしれません。 皆さんと共に固唾をのんで待ちましょう。 (^_~) //。








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by francesco1hen | 2016-09-03 23:54 | Comments(0)