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家田足穂のエキサイト・ブログ

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2017年 08月 09日

 「らくだが、針の穴を通るほうがやさしい」  聖書の言葉シリーズ(6)

「金持ちの青年の話」

ある青年がイエスに近寄って「永遠の命を受けるためには、どのようにすればいいのでしょうか」と尋ねました。イエスは、律法の掟を守りなさい、と。「子供のときから守っています」と青年は答ました。イエスは彼をじっと見て、愛情を込めて言いました。「あなたに欠けていることが一つある。行って、もっている物をことごとく売り、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を蓄えることになる。それから、わたしについて来なさい」。青年はこの言葉を聞いて、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きました。多くの財産を持っていたからです。(マルコによる福音書10章17-22節)


この話のあとで、聖書は「富の危険」についての記述をしています。そして、ここに「針の穴」のことが出てきます。


「富の危険」

イエスは弟子たちに言いました。「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持が神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。弟子たちは非常におどろき「それではいったい誰が救われるのだろうか」と話し合いました。(同10章23-27節)

元来ユダヤ人は、この世の財宝は神の祝福のしるしといていました。それで弟子たちは、現世の富や財宝を危険視するイエスの言葉に驚いたのです。しかし、イエスは当時の常識をくつがえすように、この世の富や財宝に執着せず、最も大切な神の国の「永遠の命」を求めることが肝要であると呼びかけているのです。現代のわたしたちも、経済的豊かさを求めることだけに、気を奪われていることには問題がありますね・・・・・ 。


ところで、気になるのは、「らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」ということです。「針の穴」はつぎのようです。

エリコの城門は、日没になると門を閉じます。夜間には必要に応じて、小さな門を開きます。
この門は荷物を運ぶラクダ一頭だけが通れるくらいの大きさで「針の穴」と呼ばれていました。
つまり、それは夜警対策としての小さな門でした。                


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# by francesco1hen | 2017-08-09 15:25
2017年 08月 08日

 意外なことば 「敵を愛しなさい」  聖書の言葉シリーズ(5)


    「敵を愛しなさい」!?     


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          V. v. ゴッホ  〈善いサマリア人〉


「敵を愛しなさい」と言われれば、だれでも「そんなこと出来るはずがない」と即座に答えるでしょう。
遠慮がちな人でも「それはちょっと・・・」と、迷惑そうな顔をします。常識的にいって意外な言葉「敵を愛しなさい」が、受け入れ難いのは当然のことです。

ところが新約聖書には、つぎのように書かれています。

「しかし、わたしはあなた方に言う。敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。
それは、あなたがたが天におられる父の子であることを示すためである。
天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。 ・・・・・ 

 だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさい」。
                            (マタイによる福音書 5章43−48節)

同じような言葉が、ルカによる福音書の6章27−36節に出てきます。最後の部分は、つぎのようになっています。

 「・・・・・ あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。



                         *



これに関連する「善きサマリア人のたとえ話」が、ルカによる福音書の10章25−37節に出てきます。

イエスは話しました。「ある人がエルサレムからエリコに下がっていく途中、強盗に襲われた。彼らはその人の着物をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにしたまま行ってしまった。すると一人の祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見て、道の向こう側を通っていった。また、同じく、一人のレビ人が、そこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。

ところが、旅をしていたあるサマリア人が、その人のそばまで来て、その人を哀れに思い近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてやった。それから自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き、介抱した。その翌日、サマリア人はデナリ銀貨二枚を取り出して、宿屋の主人に渡し『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰ってきたときに支払います』と言った。

さて、あなたはこの三人のうち、だれが、強盗に襲われた人に対して、隣人としてふるまったと思うか」。律法学者が「哀れみをほどこした人です」と言うと、イエスは、「では、あなたも行って、同じようにしなさい」と言いました。


三人のうち、祭司とレビ人は同胞のユダヤ人です。サマリア人は、ユダヤ人から罪びととして軽蔑され、敵対視されていました。にもかかわらず旅をしていたサマリア人は、半殺しにされていたユダヤ人の旅人を哀れに思い、丁寧に介抱しました。敵であるようなユダヤ人であっても、苦しんで助けを必要としている人を見て助けずにはおられなかったのです。


天の父が完全であるように、また憐れみ深いように、あなたがたもそのような者になりなさい、というイエスのおしえは、悪人でも正しい人でも、すべての人は、神の国に招かれている大事な存在。生かされている一人ひとりは、神から愛されている尊い存在であるから大切にしなければならない、ことを教えています。


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ゴッホは30歳のころハーグの町でクリスチティーヌという名の娼婦を拾って同棲しています。ゴッホは弟のテオに書き送っています。「クリスティーナは、惨めな生活に荒れ果て、色あせ、顔も体も骨張って、女の甘い香やふくよかさはとうに消え失せていた。男にだまされて生んだ5才の女の児を抱え、父親の知れない赤ん坊をお腹に宿していた。僕はこの冬、男に捨てられた彼女をモデルに雇い、ひと冬の間一緒に働いた。おかげで、僕は彼女と娘を飢えと寒さから救い出した」と。

ゴッホは、困窮に打ちひしがれていた惨めな娼婦クリスティーヌを見る見かねて、同情して生活をともにして救ったのです。こういうゴッホが描いたのが、このゴッホの〈善いサマリア人〉の名画です。



                        *  *  *



      憐れみの心からの「共感同苦」   相手の隣人となって、その人を助ける「隣人愛」



                           *






# by francesco1hen | 2017-08-08 16:27
2017年 08月 05日

 イエスの福音宣教の第一声  聖書の言葉シリーズ(4)           

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ジョット 〈ヨハネによるキリストの洗礼〉


ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けたイエスは、ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えました。      
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と人々に福音の第一声を告げました。 


新約聖書には、「神の国」と「天の国」という同じような言葉が出てきます。調べてみますと「神の国」は、マタイによる聖書では3回、マルコでは4回、ルカでは10回、ヨハネでは1回です。

「天の国」は、マタイによる福音書だけに22回出てきます。ヨハネによる福音書では、「神の国」が1回ですが、同じ意味をもつ「永遠の命」という言葉が17回も使われています。そのためヨハネによる福音書は、「永遠の命の福音書」といわれています。                                      

イエスの福音の第一声は、すべての人は「神の国」に招かれているという「よい知らせ」を告げるものでした。神に似せて造られた人間は、神と共にいるべき存在として創造された者です。


ヨハネによる福音書は、神の子イエスが人間のすがたでこの世に現れた理由について、つぎにように記しています。「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(3章6節)。                        

イエスは、救い主として人の世界に来たのであると言っています。 このことから、「神の国」は「永遠の命」を生きるところである、ということができます。                      


イエスの福音の言葉は、人々にとって革命的な響きをもっていたと思われます。人間は誰しも地上の日常の富をもつことを幸福と考え、これを求めています。イエスは、「悔い改めて、福音を信じなさい」と、地上の幸福ではなく、神の国の幸福を求めるように、視点の転換を求めています。「神の国」に入ることは、神の「いのち」に入るということです。神と「いのち」をともにする「永遠の命」は、「至福」という最高の幸福です。                                                                                              イエスの福音の第一声は、人々には理解できないほどの「革命的な言葉」でした。            

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ヴェロッキオ 〈キリストの洗礼〉


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# by francesco1hen | 2017-08-05 18:07
2017年 08月 02日

「迷える羊」と「見失った羊」 聖書の言葉シリーズ(3)            

九十九頭の羊を山に残して、迷いでた一頭の羊を捜しに行く羊飼いの話はよく知られています。これにちなんで、「一人の命の重さは、地球よりも重い」ということがよく言われます。
 
聖書の記述は、つぎのようです。

あなたたちはこれらの小さな者の一人をも、軽んじないように気を付けなさい。・・・・・
ある人が百頭の羊を飼っていて、そのうち一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭の羊を山に残し、迷った一頭の羊を捜しにいかないであろうか。そしてもし見つけたなら ー あなたたちによく言っておく ー その人は迷わなかった九十九頭の羊よりも、その一頭を喜ぶであろう。
このようにこれらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなたたちの父のみ旨ではない。
   
                             (マタイによる福音書18章10−14節)


 「一人でも滅びること」は、神の国に入れないこと。神の国とは「神との交わり」そのものです。交わりは、完全に一つになって、神と「いのち」を共にすることで、至福の状態に入っていることです。この最高の幸福に招くことが、神のみ旨(意志)です。


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同じような「見失った羊」の話は、ルカによる福音書の15章4−7節にでてきます。


ルカによる福音書の15章は「あわれみの福音書」といわれ、神のあわれみに関するたとえ話が三つでてきます。「見失った羊」と「なくした銀貨」と「放蕩息子」が、それです。

このたとえが話されたときの情況は、徴税人や罪人たちが、イエスの話を聞こうとして近寄ってきたので、パリサイ派の人々や律法学者たちが「この人は罪びとたちを迎えて、食事も一緒にしている」とつぶやいていたので、イエスが三つのたとえ話をしたのでした。この事情を知った上で、「見失った羊」のおわりの部分を読んでみたいと思います。


「・・・・。このように、悔い改める一人の罪びとのためには、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、天においてはもっと大きな喜びがあるであろう」。


                             *


このたとえは、神から離れている者が神に立ち戻ることは、神の大きな喜びであることをよく示している言葉です。それほど神は一人ひとりの人間を大切にされているのです。この神のみ旨をイザヤ預言者は「神の目に人は尊い」(神は一人ひとりの人間を大事にしている)という言葉を使っています。


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            羊を肩にのせている善い羊飼いイエス(ロシア・イコン)



ルカによる福音書では、羊飼いが「見失った羊を見つけ出すと、喜んで自分の肩にのせて、家に帰り、友人や近所の人びとを呼び集めて、『いっしょに喜んでください。見失ったわたしの羊が見つかりましたから』と言うであろう」と書いてあります。


                             *


このたとえによって、神のあわれみは、罪ぶかい人やとるに足りない価値のない者にも注がれているのだと、イエスは告げているようです。



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# by francesco1hen | 2017-08-02 10:23
2017年 08月 01日

 イエスは「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」          聖書の言葉シリーズ(2)            




 イエスは「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」          聖書の言葉シリーズ(2)            _b0221219_15464527.jpeg
羊がいるイスラエルの風景               
                          
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                        ガリラヤ湖 この辺りから福音は宣べ伝えられた



イエスは、律法学者やパリサイ派人々から「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」(ルカ7・34)と軽蔑され悪口を言われていました。あるときは、学んだことのない無学者とか悪霊つき、と言われたこともあります。

律法学者やパリサイ派の人々は、律法に精通し、これを厳格に守ることを人々に要求していました。律法を守らないものは罪びとであると決めつけていました。そして、自分たちは完全であると思い込んでいました。

ところが、イスラエルの社会では、祈る時間がない貧しい人や病人・罪深い女・徴税人、そして、敵対視されていたサマリア人たちは、それぞれの理由から求められるように律法を守れない事情がありました。そのために、不当にも罪びとにされていた人々でした。

イエスが特にあわれみの目を向けて愛したのは、このような人びとでした。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マルコ2・17)と言っています。

イエスは、パリサイ派の人や律法学者から責められて罪びとにされた人びとを救い出すために、その苦しみに捨ておかれ、蔑まれ排斥される彼らの立場に「共感同苦」して、彼らに寄り添って共に食事をし話を聞きながら語り、勇気付けるために時を過ごしていたのでした。


                        *



 このようなことは、「新約聖書」によく書かれています。


   さまざまな病人を癒す(マルコによる福音書 1章32−34節)

   ヤイロの娘と出血病の女の話(マルコによる福音書 5章21−34節)

   罪深い女赦される(ルカによる福音書 7章36−50節)

   徴税人の頭レビ(マタイ)、イエスの弟子として召し出される(マタイによる福音書 9章9−13節)

   サマリア人の女との問答(ヨハネによる福音書 4章1−30節 39−42節)

例を示すならば、このような話などがあります。


 イエスは「大飯食らいの大酒飲み、徴税人や罪びとの仲間」          聖書の言葉シリーズ(2)            _b0221219_16182332.jpg
              善い羊飼いイエス (ローマ時代の彫刻)







# by francesco1hen | 2017-08-01 16:34