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2014年 06月 23日

《 マラナ・タ 》という歌?

カトリック教会には、《 マラナ・タ 主よ来てください 》という新しい聖歌があります。「マラナ・タ」という言葉は新約聖書の最後にでている『ヨハネの黙示録』という記述の最後のことばです。
世の終りにキリストが再び来るという信仰にもとづいて、キリスト教徒の最終的願望、死者の復活と永遠の命が実現することを希求することばです。 まず、歌の歌詞を紹介します。



          《 マラナ・タ 主よ来てください 》


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1 主の食卓を囲み 命のパンをいただき
  救いの杯を飲み 
  主にあってわれらは一つ
   
   マラナ・タ マラナ・タ 
   主のみ国が来ますように!
   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!


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2 主の十字架を思い 主の復活をたたえ
  主のみ国をまち望み 
  主にあってわれらは生きる 

   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!
   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!


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3 主の呼びかけに応え
  主のみ言葉に従い 愛の息吹に満たされ
  主にあってわれらは歩む

   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!
   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!

                        (新垣壬敏 作詩・作曲)


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1番の歌詞の「主の食卓を囲み」は、最後の晩餐と十字架の救いを想起し記念するミサで、キリストの御身体と御血をいただく、聖体拝領でキリストと一つに結ばれることを歌い、終末のときにキリストが再臨し、死者の肉体がキリストのように復活し、神とともに永遠の命を生きることをたたえ、願います。主にあってわれらは「一つ」は、愛に結ばれていることを意味しています。

1番の主題は、キリスト教が一番大事にしている「愛」です。



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2番の歌詞の「主の十字架を思い 主の復活をたたえ」は、十字架上で人類を救ったメシアであることを示すキリストの復活をたたえます。キリストの復活はキリスト教信仰の核心です。それは天国における永遠の命の約束の保証でもあります。神の国を待ち望みながらキリスト教徒は、主とともに生きています。 

2番の主題は、人間が本質的に希望的存在であることを示している「希望」です。
「希望と喜び」という美しい言葉があります。なぜ「希望と喜び」なのですか、希望のさきには「神」と一つに結ばれる「愛」があるからです。


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3番の主題は、「信仰・信頼」です。イエスの福音のはじめは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」でした。キリストの福音のことばに信頼して、「愛の息吹」である聖霊の働きに満たされながらキリスト教徒は、神への信頼のもとで地上の旅を歩みながら「神の国」ー「永遠の命」をめざします。

マラナ・タ 主よ来てください! 主のみ国が来ますように! と叫びながら、歌いながら「永遠の命」を信じ、神と一つになることを希望し、完全に神と一つになる「愛の完成」に向かっています。



                     *



使徒パウロの「コリント人への第一の手紙」の13章「愛の賛歌」の13節で「それゆえ、信仰と、希望と、愛この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」と記しています。「信仰・希望・愛」、とくに「愛は最も大事なも」のです。


聖アウグスティヌスは晩年の著書『信仰・希望・愛について』(1巻)のなかで、キリスト教徒が大切にしている信仰・希望・愛は、愛のよって分ちがたく結ばれている。そして愛こそ神にいたる道であり、律法・預言・福音の最終目標は愛であり、愛は天国において完成すると教えています。



                  *  *  *



「最後の晩餐」のときイエスは弟子たちに、「新しい掟」を3回に渡って与え、それが「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と教え、命じました。



    「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」。

               (→ ヨハネによる福音 13 , 34 . 15 , 12 -13 . 17. )




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by francesco1hen | 2014-06-23 11:41 | Comments(0)
2012年 03月 29日

[ 5 ] 《完全なもの》とは何でしょうか? (つづき2)

(3)如来完全とは

阿弥陀仏は、サンスクリット語でアミターバ(無量光仏)・アミターユス(無量寿仏)と表わされています。無量光仏とは限りない光・大きさをもつもの、無量寿仏とは無限の寿命・永遠の命をもつもの意、つまり真理を悟り、空間と時間を超越している仏陀のことです。

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阿弥陀仏は仏陀の称号「如来」で呼称され、阿弥陀如来ともいわれています。
「如来」タターガタは、真理に悟入して真理のうちにあるもの〈如去〉と真理から来たもの〈如来〉という意味をもっています。一遍上人によれば、阿弥陀如来は「如如常住」(真理そのもので永遠不滅の仏である)といっています。

一遍は、この阿弥陀如来をさまざまな呼称で記しています。特に注目したいものは「如来万徳(阿弥陀如来は全ての善・全ての徳を持っておられる)」、「万徳の円明なる事(まどかにして明るい阿弥陀仏のあらゆる徳)」、「万善円満の仏(すべて善であり満ち足りて完全な仏)」、「来迎の阿弥陀如来は万善の法(真理)」などがあります。

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                  聖衆来迎図(高野山金剛峰寺)


万善万徳、万善円満の仏などは、如来の完全性を表わしている呼称です。円満は完全、欠けるとこのない状態で量的には全体を質的には最高を意味しています。阿弥陀仏は、広大無辺・永遠の命・万善円満・真理そのもの・不滅完全な存在です。「完全」は最高の意味において「如来」という称号のなかに含まれています。
つまり「如来完全」です。

現代の仏教者は、人が安心して生きられる処は、大いなる命・限りなき命に入り包み込まれる処、そこにこそ滅びることのない確かな「永遠の命」の歓びがある、と説いています。

大乗仏教では、もろもろの命の根源である永遠・無量の命のことを仏陀といい、その命を自分の命として生きる者もまた仏陀と呼んでいます。つまり、仏性(ぶっしょう・仏となる可能性)をもつ人間は、永遠の命の仏(無量寿仏)と「仏我一如」の真理のうちに万善円満・完全な存在として生きることが出来るのです。古代インドの『ウパニシャッド』の「梵我一如」とよく似ていますね。


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現代の美しい阿弥陀如来像


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阿弥陀如来座像 宇治・平等院鳳凰堂




(4)天の父が完全であるように!

マタイとルカによる福音書のなかで「敵を愛しなさい」というイエスの教えの箇所のおわりに、次のような言葉があります。
「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5, 48)
「あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となりなさい」(ルカ 6, 36)

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                バロック時代の三位一体を表現する天上壁画


完全な者、慈悲深い者になるためにはどんな道があるのでしょうか。それは、イエスの福音の一つ一つの言葉にしたがうことであると考えられます。いくつかの言葉をあげてみます。

「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは、・・・。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。・・・だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5, 44~48)。

「空の鳥、野のゆり」のたとえで有名な「摂理への信頼」の箇所の「『何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか』と思い煩ってはならない。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが皆、必要であることを知っておられる。まず神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう」(マタイ 6, 25~34)。

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             ローマ時代の三位一体の神・父と子とと聖霊をあらわす壁画


「裁いてはならない。そうすれば、あなたがたも裁かれないであろう」(マタイ 7, 1)。

「そのとき、ペトロはイエスに近寄って、『主よ、兄弟たちがわたしに対して罪を犯したならば、何回までゆるしたらよいのでしょうか。七回までですか。』と尋ねた。イエスは答えられた。『わたしはあなたにいう。七回どころか、七十倍までもと』。・・・・・わたしの天の父も、もしあなたたち一人一人が、自分の兄弟を心からゆるさないならば、あなたたちに同じようになさるであろう」(マタイ 18, 21. 35)。(赦すことの大切さ)

「だから、何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」(マタイ 7, 12)。(黄金律といわれています)

最後に最も大切なおきてについて
「一人の律法の専門家が、イエスを試みようとして『先生、どのおきてが律法のうちで、いちばん重要ですか』と尋ねた。イエスは答えて、

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
これがいちばん重要な、第一のおきてである。第二もこれに似ている。
 『隣人をあなた自身のように愛せよ』
すべての律法と預言者の教えはこの二つのおきてに基づいている、と仰せられた。」


* 隣人とは、せまい意味での社会的に最も近い関係にある人をいいますが、イエスがいう隣人は、その関係を人類全体に広げ、誰でも、たとえ敵であっても自分の助けを必要としている人を隣人としています。


現代世界に当てはめて考えれば、食料不足で飢餓に苦しんでいる人びと、経済的格差のなかで貧困に苦しんでいる人びと、衛生状態が悪くさまざまな疾病に悩まされている人びと、正義を蹂躙され過酷な立場に追いこまれている人びと、災害で肉親や家屋・財産を失った人びとなど援助を必要としている人々は、地球上の各地域に存在します。

このような人々のために、天の父が完全であるように完全な者、慈悲深い者とならなければならないと思います。

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            北イタリア・アルベンガ礼拝堂の三位一体のキリストと12使徒


なぜ、そうならなければならないのでしょうか? パウロは、ローマ人への手紙のなかで書いています。
「すべてのものは神から出て、神よって保たれ、神に向かっているのである」(11, 36)。

また、アウグスティヌスは『告白録』の冒頭で、神に向かって、
「あなたは私たちををご自身に向かうようにお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と語りかけていました。

振り返れば、イエスは最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で人びとのために天の父に祈りました。
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」

完全に「一つになる」とき、神の愛の充満のうちに「愛の完成」が行われます。それは神の栄光の輝き、「永遠の命」の大きな喜び。永遠の至福のなかに入ることなのです。

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                 ロマネスク時代の《栄光の主・キリスト》
                               

                          *


宇宙の根源ブラフマンと人間の魂アートマンとの同一(梵我一如)、最高完全な善のイデアへのエロースの憧れ、完全である大いなる命と仏性を持つ人間との一致(仏我一如)、天の父の完全を求め、神と「一つになる」愛の完成への希望など、完全なものと「一つになる」ことにおいて共通していることは、人間の魂の究極的な願いであると思わざるをえません。



                         ***

                        エピローグ


事物が激しいテンポで移り変わっていく現代世界にいるわたしたちは、無常観を受けとめる余裕もないまま押し流されています。変わらない確かな求める気持ちもないのが現実ではないでしょうか。

紀元1世紀の初めごろイエスが世界終末のことについて語ったとき、次のようなことばを残しています。
「そのとき、人々は人の子(キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗ってくるのを見るであろう。・・・・・ 天地は過ぎ去る。しかし、わたしのことばは過ぎ去ることはない」(マルコ 13, 26〜31)。
イエスの言葉の意味するところは何でしょうか! 答えはかんたんにに出てきませんが、考えてみたいと思います。


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書家の金澤翔子さんが [ 三陸復興 ] のすばらしいことばを岩手県のために揮毫しました。東北の復興は遅々として進んでいないようですが、人々は生きる希望のうちに、もとの生活に戻るための努力をしています。

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しかし、わたしたちは、一方でこの度の大震災によって非常に多くの生命が失われた事実を忘れていません。さまざまな年齢の人々が生命を失いましたが、魂は不滅で永遠の命を生きていると確信しています。大震災の難をまぬがれ「生きている」わたしたちは、今ここで「命の意味」を深く考える時ではないでしょうか?

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                    ジョット  天に昇るキリスト   


                 《 spes et gaudium ! 》(希望と喜び!)
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by francesco1hen | 2012-03-29 11:48 | Comments(0)
2011年 11月 24日

(9)《メサイア》第三部のハイライト

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「わたくしは、自らと人々の《精神の向上のために》崇高なるものへと少しでも高めたいと思い、全精力を傾けて音楽を創りました。」
このようにイギリス市民階級の人々に語ったヘンデルと、ドイツで数々の名曲を作曲し、信仰心を育てたバッハは、バロック音楽の世界を完結させた偉大な巨匠でした。



《華麗・勇壮なトランペット・アリア》


第三部第14楽曲群の第47曲「わたしはあなたがたに神秘を告げます」の絶妙なレチタティーヴォが、神秘の雰囲気を込めて死者の復活の神秘を告げます。そして第48曲「ラッパが鳴るとともに、死者は復活して朽ちないものとされ」のトランペット・アリアは、伸びやかに確信に満ちた声で繰り返し繰り返し、死者が復活して朽ちないものにされる神秘を揺るぎない信仰のうちに歌い、最後の審判の劇的様相を強烈に印象づける楽曲です。

この二つの楽曲では、すでにレチタティーヴォからテキストにあるラッパの音を模倣する伴奏が入り、オペラティックに歌うバスのダ・カーポ・アリアは、これまた最後の審判を模倣して繰り返すトランペットの助奏に支えられて、審判のときの一瞬に起る劇的変化「死者の復活の神秘」を象徴的に、劇的に、しかも視覚や聴覚に訴えるように表現しています。



《愛の完成》を歌う最終合唱、第53曲とその《アーメン・コーラス》こそ、ハイライト!


《メサイア》の最終合唱、第53曲「その血で神のために屠られた小羊は」は、ドラマティックなセンスに満ちあふれ、圧倒的な全曲の終止部を作っています。音楽内容に深く立ちいたって聴くと、第53曲はヘンデルのゆたかな想像力によって生み出された真にすぐれた究極の合唱音楽であるといえます。

複雑な声部の組み合わせとテキスト・フレーズの繰り返しの多い第53曲の声楽書法の中には、テキストの意味内容と文脈がいきいきと反映されていることが見いだされます。

第53曲の第1部は、天の玉座の周りの「万の数万倍、千の数千倍」の天使たちの賛美の声の表現です。

第2部は、「天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるもの」の賛美の声を表わすように各声部の組合わせを変えながら、最後は天と地のすべてのもの、あらゆるものが一つになって「玉座に座っておられる方(父なる神)と小羊(キリスト)の栄光」を賛美する大合唱になっています。

第3部は、《Amen》 一語のテキストですが、第44曲「ハレルヤ!」で《メサイア》の賛美の頂点を形成したヘンデルが、さらにもう一度、最終合唱の《アーメン・コーラス》で第二部の最後「ハレルヤ!」につづく賛美の頂点を構築して、キリスト教信仰の全体像の芸術表現である《メサイア》を終結させています。


《アーメン・コーラス》は,音楽的に非常に緻密なカノン(模倣手法)を用いた雄大なフーガ(模倣反復)の合唱曲です。「アーメン」一語のテキストは、ここではホモフォニーやポリフォニーなどあらゆる作曲技法によって究極のフーガに変容し、159小節までの間に、ソプラノ26回、アルト37回、テノール37回、バス39回も繰り返されています。その延べ回数は139回の多数に上り、これに合唱人数を乗ずるならばさらに大きな数字になります。

合唱におけるアーメンの数は、ヨハネの黙示録的表現で「万の数万倍」「千の数千倍」。《アーメン・コーラス》の壮大で、神秘に与る喜びと感謝の賛美の響きの広がりは、ヨハネの黙示録の叙述を余すところなく、深遠壮大に音楽表現したものにほかなりません。


また《アーメン・コーラス》は、聖書テキストにもとづいて作曲され、演奏されたキリスト教信仰の全内容にたいする完全なる受容・肯定とその信仰宣言であると言えます。さらにそれは、キリストの再臨における「愛の完成(救いの完成)」への待望、ヨハネの黙示録の最後に書かれている「アーメン、主イエスよ、来てください(マラナ・タ)!」であるともいえましょう。


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by francesco1hen | 2011-11-24 11:50 | Comments(0)
2011年 11月 15日

(4)《メサイア》各部の主題と全体像 4

第三部「死者の復活と永遠の生命 ー 愛の完成」のテキストと楽曲の構成

第一部と第二部は、キリスト教信仰内容の全体像( Christian vision )を明確に歌っています。そして第三部は、第44曲《ハレルヤ!》が歌う「救いの完成」の神秘をくわしく説明するように歌う部分です。そういう意味で、なくてはならない大切な部分です。

まず歌われる第14楽曲群(第45曲〜第46曲)は、キリストの贖罪とキリストを信ずる者の復活を歌い、つづく第15楽曲群(第47曲〜第51曲)は、パウロのコリントの教会への手紙によって「死者の復活と永遠の生命」の神秘を解き明かすように歌います。

第16楽曲群(第52曲〜第53曲)は、死者の復活と永遠の生命への願望が、あますところなく満たされる「メシアによる救いの完成(愛の完成)」を限りなく歌う最終部分です。第53曲《その血で屠られた小羊は》は、第二部最後の第44曲《ハレルヤ!》の大合唱と同じように、救われた者たちの歓びと賛美の大合唱です。

終結の長大なアーメン・コーラスは、第一部から歌いつづけられてきたすべての信仰内容の力強い肯定であり、信仰宣言(信仰告白)であるといえます。あのヨハネの黙示録最後の「マラナ・タ(主よ、来てください)!」という、終末におけるキリストの再臨 ー 神の国の実現を願う、究極的願望にほかなりません。

ジェネンズとヘンデルの《メサイア》のメッセージは、すべての人間・人類が「永遠の生命」に招かれていること、それが必ず実現することを確信させる、呼びかけといえます。
端的にいえば《メサイア》は、救われる者たち、人類の《希望と喜び》の音楽なのです。


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《ハレルヤ!》の大合唱と第53曲の《その血で屠られた小羊は》の最終大合唱はこのような世界でしょうか!
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by francesco1hen | 2011-11-15 17:23 | Comments(0)
2011年 08月 11日

(7)最後の晩餐におけるイエスの別れの言葉(挨拶)

最後の晩餐と十字架上の犠牲(救い)は、イエスの生涯が集約的に表わされている場面です。
イエスは、神の愛がどのようなものであるかを人間に分らせるために生涯のすべての場面を使って、「神は愛である」ということを話してきました。そして、最後の晩餐の時には「愛について」徹底的に弟子たちに話しました。そして翌日には、十字架上でそのことを実際に示しました。

イエスは、エルサレムの最後の晩餐の席で弟子たちに語りました。「わたしはあなたたちに平安を残す。わたしの平安をあなたたちに与える」。イエスが述べた「平和・平安」は、神と人間の愛における完全な一致です。神の国においてはじめて実現される「愛の完成」とは、全能永遠の命である「神と一つに」なることによって、人間が神の永遠の命に入ることを意味しています。

その意味は、さらに同じ日の晩餐のときのイエスの言葉で表わされました。

「わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内におり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日(天の国に入ったとき)、あなたたちは悟であろう」(ヨハネ14,20)

このことは、全能永遠の神(父と子聖霊の三位一体の神)と人間が、完全に融け合うように「一つにる」という真理を短いことばで言い表しているといえます。

このように人間は、神からの愛に招かれて、その神の愛の中で「永遠の命」、すべてにおいて満たされた《いのち》を生きるのです。

神の方に向かうように創られた人間は、その源泉であり目標である神のもとに戻ったとき、はじめて「愛の完成」としての「永遠の命」に生きるのです。

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ジョット 「最後の晩餐」 パドバのスクロヴェーニ礼拝堂《イエスの生涯》から
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ジュリアーノ・ヴァンジ 紫の服の男
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ヴァンジ彫刻庭園美術館にて
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by francesco1hen | 2011-08-11 17:19 | Comments(0)
2011年 05月 11日

「平和の挨拶」に込められた願い                 「捨てる」という霊性について(9)

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病者を癒すフランチェスコ


フランチェスコとその兄弟たちは、社会のあらゆる階層の人々に「平和の挨拶」を送っていました。
聖職者や修道士、爵位をもっている貴族や騎士に対して、都市の有力者や住民、村の人々の男女にも同じようにまた、ハンセン病患者やさまざまな病人、貧しい人や山賊や盗賊にも「平和の挨拶」を送り続けてきました。

フランチェスコは、いかなるときも人々の和解や都市住民の平和の回復、都市内部の紛争の調停などあらゆるところで「神から与えられる平和」を願っていました。「神から与えられる平和」こそ、すべての人々に最も大切なものと考えていたからでした。

この平和・平安という言葉はヘブライ語で「シャローム」。この語の本来の意味は、健康・健全・充実・繁栄・充満・完全などです。最後の晩餐のときのイエスの別れの言葉は、「わたしはあなたたちに平安を残す。わたしの平安をあなたたちに与える」(ヨハネ福音書14・27)でした。この少し前に、イエスは真の「平安」について弟子たちに告げています。

「わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内におり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日、あなたたちは悟であろう」(ヨハネ14・20)。その日とは「天の国」(永遠の命)に入ったときのことです。

フランチェスコが、あらゆることに超えて望んでいたことは、すべての人々が「神の愛の招き」に応えて、「永遠の命」の内に入ることでした。

イエスの教えと足跡に従って、十字架上の五つの傷と同じ「聖痕」をうけてキリストと一致したように、天の国(神の国)で「神と一致すること」、すなわち神と完全に一つになる「愛の完成」は、フランチェスコの究極の願いであったのです。

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十字架の「キリストとの同化」を願っていたフランチェスコ「聖痕」を受ける


彼がいかなるときも、すべての人々に欠かさず「平和の挨拶」を呼びかけたのは、この切なる願いを込めていたからでした。


皆さんに《シャローム・平安!》を。







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by francesco1hen | 2011-05-11 15:52 | Comments(0)