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2016年 08月 30日

桑山賀行彫刻展「木霊と共に50年」(5) 文楽の演者 と 神の手

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  [ 文楽の演者 と 神の手 ]


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「 演者 」2007 (内閣総理大臣賞)
 
「開演直前の緊張の一瞬、張りつめた空気の中で精神統一する演者」


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内閣総理大臣賞に輝いた「演者」。後方に神の手といわれる「演者 V. VI. 」が見える



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「 演者 II 」2008

「演じ終えた直後の緊張のうちに安堵と脱力感を感じている演者」



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同「 演者 II 」


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「 演者 III 」2009

「人形遣いと人形が一体となって演じ終えた一抹のさみしさを表現」



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「 演者 IV 」2010

「開演を前にして操る人と操られる人形が本当はどちらが操るのかを相談するように心を通わせている姿を表現」


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「 演者 V 」(神の手)2011

「文楽を見ていると人形遣いの姿が消える。人形に生命を与える手は神の手であろう」


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「 演者 VI 」(神の手)2012

「文楽人形が人形遣いの手によって生命を与えられたように動きだすとき、それが神の手のように思われる。人形に生命を与える瞬間を思い描いて制作」



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「 演者 VII 」(神の手)2013

「人より人らしく演じられる文楽人形。人形に命を吹き込み人の世界に導びくのは神の手であろうか・・・」



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* ある鑑賞者のコメント

「《文楽の演者と神の手》についての作者の解説はじつに素晴らしいと感じました。
演者は神の手のようであることは真実のことです。」


「神によって創造されて存在する人間のアイデンティ(存在の根拠)は、神です。神こそ人間の源泉で、人間の究極の目的です。人は神から出て、神に帰る。」


「神によって造られた人間の命は、神秘です。たとえ肉体的な生命が滅びても、魂は不滅です。この命こそ、最も大切にしなければならないものです。」


「神のみ旨(意志)に従い、その教えの真理に導かれて生きる。そこには正しい善い生き方があり、人間の美しく生きる姿があります。文楽人形のように・・・」


                   


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by francesco1hen | 2016-08-30 16:24
2014年 06月 23日

《 マラナ・タ 》という歌?

カトリック教会には、《 マラナ・タ 主よ来てください 》という新しい聖歌があります。「マラナ・タ」という言葉は新約聖書の最後にでている『ヨハネの黙示録』という記述の最後のことばです。
世の終りにキリストが再び来るという信仰にもとづいて、キリスト教徒の最終的願望、死者の復活と永遠の命が実現することを希求することばです。 まず、歌の歌詞を紹介します。



          《 マラナ・タ 主よ来てください 》


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1 主の食卓を囲み 命のパンをいただき
  救いの杯を飲み 
  主にあってわれらは一つ
   
   マラナ・タ マラナ・タ 
   主のみ国が来ますように!
   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!


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2 主の十字架を思い 主の復活をたたえ
  主のみ国をまち望み 
  主にあってわれらは生きる 

   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!
   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!


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3 主の呼びかけに応え
  主のみ言葉に従い 愛の息吹に満たされ
  主にあってわれらは歩む

   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!
   マラナ・タ マラナ・タ
   主のみ国が来ますように!

                        (新垣壬敏 作詩・作曲)


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1番の歌詞の「主の食卓を囲み」は、最後の晩餐と十字架の救いを想起し記念するミサで、キリストの御身体と御血をいただく、聖体拝領でキリストと一つに結ばれることを歌い、終末のときにキリストが再臨し、死者の肉体がキリストのように復活し、神とともに永遠の命を生きることをたたえ、願います。主にあってわれらは「一つ」は、愛に結ばれていることを意味しています。

1番の主題は、キリスト教が一番大事にしている「愛」です。



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2番の歌詞の「主の十字架を思い 主の復活をたたえ」は、十字架上で人類を救ったメシアであることを示すキリストの復活をたたえます。キリストの復活はキリスト教信仰の核心です。それは天国における永遠の命の約束の保証でもあります。神の国を待ち望みながらキリスト教徒は、主とともに生きています。 

2番の主題は、人間が本質的に希望的存在であることを示している「希望」です。
「希望と喜び」という美しい言葉があります。なぜ「希望と喜び」なのですか、希望のさきには「神」と一つに結ばれる「愛」があるからです。


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3番の主題は、「信仰・信頼」です。イエスの福音のはじめは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」でした。キリストの福音のことばに信頼して、「愛の息吹」である聖霊の働きに満たされながらキリスト教徒は、神への信頼のもとで地上の旅を歩みながら「神の国」ー「永遠の命」をめざします。

マラナ・タ 主よ来てください! 主のみ国が来ますように! と叫びながら、歌いながら「永遠の命」を信じ、神と一つになることを希望し、完全に神と一つになる「愛の完成」に向かっています。



                     *



使徒パウロの「コリント人への第一の手紙」の13章「愛の賛歌」の13節で「それゆえ、信仰と、希望と、愛この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」と記しています。「信仰・希望・愛」、とくに「愛は最も大事なも」のです。


聖アウグスティヌスは晩年の著書『信仰・希望・愛について』(1巻)のなかで、キリスト教徒が大切にしている信仰・希望・愛は、愛のよって分ちがたく結ばれている。そして愛こそ神にいたる道であり、律法・預言・福音の最終目標は愛であり、愛は天国において完成すると教えています。



                  *  *  *



「最後の晩餐」のときイエスは弟子たちに、「新しい掟」を3回に渡って与え、それが「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と教え、命じました。



    「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」。

               (→ ヨハネによる福音 13 , 34 . 15 , 12 -13 . 17. )




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by francesco1hen | 2014-06-23 11:41 | Comments(0)
2011年 11月 13日

(3)《メサイア》のテキスト(歌詞)の特徴と構成

わが国で《メサイア》の歌詞の対訳を見ますと、第一部「預言と降誕」・第二部「受難」・第三部 「復活・永生」となっていることが一般的です。ところが歌詞の内容をよく調べてみると《メサイア》が歌う主題は、キリスト教信仰内容の全体像として見事に構成され、そのヴィジョン(キリスト教の全体的展望)が歌われていることがわかります。

ジェネンズは《メサイア》の全テキストを、主として旧約聖書の預言書と詩編、新約聖書のルカとマタイによる福音書、パウロのコリントの教会への手紙とヨハネの黙示録からの引用によって構成しています。そのテキストは、メシア・イエスの預言と降誕、奇跡と福音宣教、受難と十字架による救い、キリストの復活と昇天、教会による全世界への宣教、イエスの約束による死者の復活と永遠の生命における「救いの完成」(神の国の実現)という一貫したキリスト教のヴィジョンを示しています。

ジェネンズのテキストは、キリスト・イエスの生涯とその福音的約束とを明らかにするために、旧約聖書からのおびただしい引用によって出来ています。日本人に難解な旧約聖書からの引用の多さが、わが国にでの《メサイア》の内容の誤解や理解されにくい原因であると思われます。

さて《メサイア》のテキストとこれにもとづく楽曲の構成を分析してみますと、全体の楽曲は2つのシンフォニアと16の楽曲群(このうち2つは単独楽曲)によって構成されています。ここで、すでにヘンデルは、テキスト全体をすぐれた楽曲構成によって、オラトリの傑作《メサイア》を見事な音楽に作り上げています。それは希望に満ちた「全人類的音楽」と評価されています。

次回は、より深く《メサイア》に接近するために、テキストと楽曲構成にもとづいて《メサイア》の各部と全体の「歌われる内容」について解説します。


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G.F.ヘンデルの肖像

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《ハレルヤ!》の世界?

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《メサイア》についてより詳しく知りたい方は
家田足穂『《メサイア》は何を歌うのか その魅力と醍醐味』聖公会出版を参照してください。


  
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by francesco1hen | 2011-11-13 18:01 | Comments(0)
2011年 10月 11日

漢字の面白さと意味の深さ(10) 永と遠

永井隆さんは長崎で被爆、自らも重い傷を受けながらも、直後から負傷者の治療や、原爆障害の研究にあたりました。「平和」と「復興」を祈り求めながら、白血病が悪化し病床にあっても文筆活動をつづけました。『長崎の鐘』や『この子を残して』は、人々の感動をよんだ忘れられない作品です。
作家(カトリック文学者)遠藤周作は、その代表作『海と毒薬』『沈黙』『深い川』で有名です。多くの作品の中で、日本人のもつべきキリスト教の姿を求め、苦しむ人に寄り添う同伴者イエスを描くことにより、日本人の心にしっくりくるキリスト教像を求めました。『イエスの生涯』では、国際タグ・ハマショールド賞を受賞しました。


[ 永 ] 象形は、流れる水の形。永は水が合流して勢いよく流れるところで、水の流れの長いことをいいます。このことからすべて「ながい」こと、とくに時間の長く久しいの意味に使われていることが多いです。用例には、永遠、永久、永寿、永世、永続などがあります。

[ 遠 ] 象形を見ると、袁は死者が死後の世界に旅立つのを送ることを示す字で、偏のしんにゅうを加えると遠くへゆくの意味をあらわし「とおい」の意味となります。遠近、遠望、遠路、敬遠。そして、久遠(永遠の時間の果てしないこと)。[永遠は、限られた時間とまったく別のものです]


永遠の用例として、「至高、真実、永遠に生きる神」「人間の永遠の命の源である神」神をこのような言葉で表すことがあります。
また「無始本有常住不滅の仏」(至高永遠の阿弥陀仏)「無量光仏・無量寿仏」(無限の光・空間と無限永遠の時間をもっている阿弥陀仏)もよく似た表し方です。

神を信じ信頼し、神と共にあることを望み、「神と一つになる」こと(愛)を願うことによって「永遠の命]は与えられます。同じように、「南無阿弥陀仏」の念仏によって、人間は救われて「阿弥陀仏と一体となる」(無量寿=永遠の命)と仏教は教えています。


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わたくしたちが、こよなく愛した御射鹿池を後にして・・・・・、
わたくしたちは、また、旅に出かけます。

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                           本告光男氏撮影




                    *  *



       わたしの掟(新しい掟)を自分のものとし、それを守る人、
       その人はわたしを愛するものである。
       わたしを愛するものは、わたしの父に愛される。
       わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。

                        (ヨハネによる福音書 14 , 21 )


    わたしとは、イエスのことです。わたしの父とは、父である神です。
    キリスト教の神は、三位一体の神、すなわち、父と子と聖霊の三つのペルソナが、
    唯一の神である三位一体の神といわれています。
    三つが一つになっている神の「神は愛である」というのが、神の本質です。
    だから、「愛である神」という表現もあります。




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秋の隼人池の岸辺です。
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by francesco1hen | 2011-10-11 12:12 | Comments(0)
2011年 05月 13日

賛美する喜びと救われた歓び                   「捨てる」という霊性について(12)

賛美する喜び!「永遠の命」

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《 フランチェスコの死 》 
十字架から降ろされたキリストのように、死後地面に寝かせてくれるように頼んだフランチェスコの死の姿。


フランチェスコにとって「他のあらゆること以上に」大切なことは、神の国と神のみ旨を行う生活を求めることでした。神のみ旨はイエスの生涯に現れています。イエスの福音が優先して告げられた人々は、社会から軽蔑され、排除されていた貧しい人、病気の人、徴税人、罪深い女、サマリア人などでした。だから、フランチェスコは、キリストが福音で示されたことを、だれにでも差別することなく説教して最後まで止むことがありませんでした。

己を捨て、キリストに従ったフランチェスコがついに「聖痕」を受けたとき、外には隠された喜びでしたが、キリストと一致できたという喜びの頂点に達したものと思われます。精神的苦悩と肉体的病苦に悩まされている時期でも、フランチェスコは、被造物が全体がこぞって創造主である神に賛美と感謝を捧げる『兄弟太陽の賛歌』を、歓びのうちに歌うことができました。そして自然・宇宙が一体となって神を賛美する喜びを味わっていたに違いありません。

キリストが十字架から降ろされたときのように大地に身体を横たえたときも、彼は魂を神にゆだね、
「いっさいを捨てる者の幸福」(マタイ19・27−30)、神の栄光の中にいる「永遠の命」の喜びに浸っていました。「回心」すなわち価値観の転換によって生活した人の生涯はこのようなものであったのです。



救われた歓び!「無量寿」

捨聖一遍の「回心」(えしん)は、世俗にある一切の物とそれに対する執着の捨離、さらには自我をも完全に捨て、最後は「書籍経巻の焼却」によって残る物はただ一つ「南無阿弥陀仏」、仏と衆生が二つではなく一つに融け合っている世界でした。

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阿弥陀仏と一体となる 成仏


熊野成道以来始まった念仏勧進の遊行の中で、一遍は人間だけではなく森羅万象が共に念仏を唱えている世界を見出していました。念仏を勧めることに生涯をかけていた一遍は、すべての人々とともに
歓喜踊躍(かんぎゆやく)のうちに念仏宇宙に遊ぶ念仏を唱えることができたのです。

自力・我執を捨て、へりくだった者の目にはこのような念仏世界が見えていたのです。辛酸舐め尽くすような遊行の苦しみの中にあっても、一遍や時衆たちは救われた歓びを隠すことはできなかったのです。同行時衆たちの「踊り念仏」とそれに加わった町の人々や里の人々は、共に成仏(極楽往生)
を保証されて救いの歓びに浸ることができたのです。

フランチェスコと一遍のこの世における願いは、すべての被造物全体、森羅万象が神や仏を讃え、差別なく救われる幸福を現世においても、来世においても得ることでした。そのために「平和の挨拶」
と福音を伝え、また「南無阿弥陀仏」の念仏勧進によって救われた歓びを確実にしようとしたのでした。


余分なものを捨て、信頼し任せる境地こそ、究極の幸福・歓び、「永遠の命」と「無量寿」への道なのです。




《シャローム・平安!》《シャンティ・寂静・平和!》《ナマステ・南無!》



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「えのしま道」道標  「二世安楽」の字が見えます。 (二世とは、来世のこと)
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by francesco1hen | 2011-05-13 15:12 | Comments(0)
2011年 05月 11日

「平和の挨拶」に込められた願い                 「捨てる」という霊性について(9)

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病者を癒すフランチェスコ


フランチェスコとその兄弟たちは、社会のあらゆる階層の人々に「平和の挨拶」を送っていました。
聖職者や修道士、爵位をもっている貴族や騎士に対して、都市の有力者や住民、村の人々の男女にも同じようにまた、ハンセン病患者やさまざまな病人、貧しい人や山賊や盗賊にも「平和の挨拶」を送り続けてきました。

フランチェスコは、いかなるときも人々の和解や都市住民の平和の回復、都市内部の紛争の調停などあらゆるところで「神から与えられる平和」を願っていました。「神から与えられる平和」こそ、すべての人々に最も大切なものと考えていたからでした。

この平和・平安という言葉はヘブライ語で「シャローム」。この語の本来の意味は、健康・健全・充実・繁栄・充満・完全などです。最後の晩餐のときのイエスの別れの言葉は、「わたしはあなたたちに平安を残す。わたしの平安をあなたたちに与える」(ヨハネ福音書14・27)でした。この少し前に、イエスは真の「平安」について弟子たちに告げています。

「わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内におり、そして、わたしがあなたたちの内にいることを、その日、あなたたちは悟であろう」(ヨハネ14・20)。その日とは「天の国」(永遠の命)に入ったときのことです。

フランチェスコが、あらゆることに超えて望んでいたことは、すべての人々が「神の愛の招き」に応えて、「永遠の命」の内に入ることでした。

イエスの教えと足跡に従って、十字架上の五つの傷と同じ「聖痕」をうけてキリストと一致したように、天の国(神の国)で「神と一致すること」、すなわち神と完全に一つになる「愛の完成」は、フランチェスコの究極の願いであったのです。

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十字架の「キリストとの同化」を願っていたフランチェスコ「聖痕」を受ける


彼がいかなるときも、すべての人々に欠かさず「平和の挨拶」を呼びかけたのは、この切なる願いを込めていたからでした。


皆さんに《シャローム・平安!》を。
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by francesco1hen | 2011-05-11 15:52 | Comments(0)