家田足穂のエキサイト・ブログ

france1pen.exblog.jp
ブログトップ

タグ:無量寿 ( 3 ) タグの人気記事


2011年 10月 11日

漢字の面白さと意味の深さ(10) 永と遠

永井隆さんは長崎で被爆、自らも重い傷を受けながらも、直後から負傷者の治療や、原爆障害の研究にあたりました。「平和」と「復興」を祈り求めながら、白血病が悪化し病床にあっても文筆活動をつづけました。『長崎の鐘』や『この子を残して』は、人々の感動をよんだ忘れられない作品です。
作家(カトリック文学者)遠藤周作は、その代表作『海と毒薬』『沈黙』『深い川』で有名です。多くの作品の中で、日本人のもつべきキリスト教の姿を求め、苦しむ人に寄り添う同伴者イエスを描くことにより、日本人の心にしっくりくるキリスト教像を求めました。『イエスの生涯』では、国際タグ・ハマショールド賞を受賞しました。


[ 永 ] 象形は、流れる水の形。永は水が合流して勢いよく流れるところで、水の流れの長いことをいいます。このことからすべて「ながい」こと、とくに時間の長く久しいの意味に使われていることが多いです。用例には、永遠、永久、永寿、永世、永続などがあります。

[ 遠 ] 象形を見ると、袁は死者が死後の世界に旅立つのを送ることを示す字で、偏のしんにゅうを加えると遠くへゆくの意味をあらわし「とおい」の意味となります。遠近、遠望、遠路、敬遠。そして、久遠(永遠の時間の果てしないこと)。[永遠は、限られた時間とまったく別のものです]


永遠の用例として、「至高、真実、永遠に生きる神」「人間の永遠の命の源である神」神をこのような言葉で表すことがあります。
また「無始本有常住不滅の仏」(至高永遠の阿弥陀仏)「無量光仏・無量寿仏」(無限の光・空間と無限永遠の時間をもっている阿弥陀仏)もよく似た表し方です。

神を信じ信頼し、神と共にあることを望み、「神と一つになる」こと(愛)を願うことによって「永遠の命]は与えられます。同じように、「南無阿弥陀仏」の念仏によって、人間は救われて「阿弥陀仏と一体となる」(無量寿=永遠の命)と仏教は教えています。


b0221219_11535285.jpg

b0221219_11575712.jpg


わたくしたちが、こよなく愛した御射鹿池を後にして・・・・・、
わたくしたちは、また、旅に出かけます。

b0221219_1205426.jpg

                           本告光男氏撮影




                    *  *



       わたしの掟(新しい掟)を自分のものとし、それを守る人、
       その人はわたしを愛するものである。
       わたしを愛するものは、わたしの父に愛される。
       わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。

                        (ヨハネによる福音書 14 , 21 )


    わたしとは、イエスのことです。わたしの父とは、父である神です。
    キリスト教の神は、三位一体の神、すなわち、父と子と聖霊の三つのペルソナが、
    唯一の神である三位一体の神といわれています。
    三つが一つになっている神の「神は愛である」というのが、神の本質です。
    だから、「愛である神」という表現もあります。




b0221219_14589.jpg


秋の隼人池の岸辺です。
[PR]

by francesco1hen | 2011-10-11 12:12 | Comments(0)
2011年 08月 08日

(2)インドの人々の挨拶 Namaste !

インドでは、ヒンヅー教徒でも仏教徒も合掌して《ナマステ!》と、うやうやしく挨拶を交わします。

これは「あなたを信頼し、お任せします」という意味です。日本でも初対面の人に会うときには「どうぞ、よろしくお願いたします」といいます。

この「ナマステ」という言葉は、サンスクリット語からヒンズー語に受け継がれ今も使われている言葉で、深い意味を持っています。漢民族は、この言葉を音訳して「南無!」としました。

日本では、そのまま仏教の言葉として「南無阿弥陀仏」とか、「南無妙法蓮華経」。さらには「南無八幡大菩薩」というよに使ってきました。

「ナマステ=南無・阿弥陀仏」の念仏は、阿弥陀仏に心から帰依して成仏することを願う深い意味をもった祈りです。つまり「阿弥陀仏の大いなる永遠の命(無量寿)と一つになること」を究極の願いとして求める祈りなのです。

この「念仏」の深い意味を掘り下げ、日本人の心に深くしみ込ませたのは、鎌倉初期の法然や親鸞と鎌倉中期の一遍でした。今もなお彼らは、人々から注目されている人物です。

このようにナマステの本来の意味は、阿弥陀如来と完全に一つになる「成仏」をひたすら願うように
超越的な神的存在と完全に一つになる、というところにあります。しかもこのことは、すべての宗教の究極の憧れとなっています。

《ナマステ!》は素晴らしい挨拶です。しかも、諸宗教の究極の願望をも意味しています。

b0221219_2254496.jpg

花柄の服の女 ジュリアーノ・ヴァンジ

b0221219_2324568.jpg

ヴァンジ彫刻庭園美術館にて
[PR]

by francesco1hen | 2011-08-08 23:07 | Comments(0)
2011年 05月 13日

賛美する喜びと救われた歓び                   「捨てる」という霊性について(12)

賛美する喜び!「永遠の命」

b0221219_15415483.jpg

《 フランチェスコの死 》 
十字架から降ろされたキリストのように、死後地面に寝かせてくれるように頼んだフランチェスコの死の姿。


フランチェスコにとって「他のあらゆること以上に」大切なことは、神の国と神のみ旨を行う生活を求めることでした。神のみ旨はイエスの生涯に現れています。イエスの福音が優先して告げられた人々は、社会から軽蔑され、排除されていた貧しい人、病気の人、徴税人、罪深い女、サマリア人などでした。だから、フランチェスコは、キリストが福音で示されたことを、だれにでも差別することなく説教して最後まで止むことがありませんでした。

己を捨て、キリストに従ったフランチェスコがついに「聖痕」を受けたとき、外には隠された喜びでしたが、キリストと一致できたという喜びの頂点に達したものと思われます。精神的苦悩と肉体的病苦に悩まされている時期でも、フランチェスコは、被造物が全体がこぞって創造主である神に賛美と感謝を捧げる『兄弟太陽の賛歌』を、歓びのうちに歌うことができました。そして自然・宇宙が一体となって神を賛美する喜びを味わっていたに違いありません。

キリストが十字架から降ろされたときのように大地に身体を横たえたときも、彼は魂を神にゆだね、
「いっさいを捨てる者の幸福」(マタイ19・27−30)、神の栄光の中にいる「永遠の命」の喜びに浸っていました。「回心」すなわち価値観の転換によって生活した人の生涯はこのようなものであったのです。



救われた歓び!「無量寿」

捨聖一遍の「回心」(えしん)は、世俗にある一切の物とそれに対する執着の捨離、さらには自我をも完全に捨て、最後は「書籍経巻の焼却」によって残る物はただ一つ「南無阿弥陀仏」、仏と衆生が二つではなく一つに融け合っている世界でした。

b0221219_22245786.jpg

阿弥陀仏と一体となる 成仏


熊野成道以来始まった念仏勧進の遊行の中で、一遍は人間だけではなく森羅万象が共に念仏を唱えている世界を見出していました。念仏を勧めることに生涯をかけていた一遍は、すべての人々とともに
歓喜踊躍(かんぎゆやく)のうちに念仏宇宙に遊ぶ念仏を唱えることができたのです。

自力・我執を捨て、へりくだった者の目にはこのような念仏世界が見えていたのです。辛酸舐め尽くすような遊行の苦しみの中にあっても、一遍や時衆たちは救われた歓びを隠すことはできなかったのです。同行時衆たちの「踊り念仏」とそれに加わった町の人々や里の人々は、共に成仏(極楽往生)
を保証されて救いの歓びに浸ることができたのです。

フランチェスコと一遍のこの世における願いは、すべての被造物全体、森羅万象が神や仏を讃え、差別なく救われる幸福を現世においても、来世においても得ることでした。そのために「平和の挨拶」
と福音を伝え、また「南無阿弥陀仏」の念仏勧進によって救われた歓びを確実にしようとしたのでした。


余分なものを捨て、信頼し任せる境地こそ、究極の幸福・歓び、「永遠の命」と「無量寿」への道なのです。




《シャローム・平安!》《シャンティ・寂静・平和!》《ナマステ・南無!》



b0221219_22314523.jpg

「えのしま道」道標  「二世安楽」の字が見えます。 (二世とは、来世のこと)
[PR]

by francesco1hen | 2011-05-13 15:12 | Comments(0)