家田足穂のエキサイト・ブログ

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2018年 09月 12日

「無常という事」と「究極の幸福」

「無常という事」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

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「無常」は昔のことだけではなく、現代においても世は「無常」です。

小林秀雄は「無常という事」(1942)というエッセイで、「現代人は、鎌倉時代のなま女房(若い女)ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と警告しています。




「常なるもの」は、どこにあるのでしょうか。

聖書につぎの言葉があります。

「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることがない」(マタイ 13・31)。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通ってでなければ、だれも父である神のもとに行くことはできない」(ヨハネ 14・6)。

          三位一体の神こそ、「常なるもの」・真理であり、永遠の命です。

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             父と子と聖霊の三位一体の神が、「常なるもの」です。




人間に必要な「平安と平和」ー 幸福

釈迦が悟りを開き、その境地で死の世界に入ったようすを表わす絵を「仏涅槃図」といいます。

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                高野山金剛峰寺の「仏涅槃図」



釈迦の入滅(死)を「涅槃・寂静」(漢訳)ともいいます。サンスクリット語で〈ニルヴァーナ〉・〈シャンティ〉。その現代語訳は「絶対の安らぎ」と「平和」です。
悟りの境地に入った釈迦の死は、絶対の安らぎと平和でした。

  人間にとって「平和・平安」は、常に必要なものです。


最後の晩餐の夜イエスは、「わたしはあなた方に平安を残す。わたしの平安をあなた方に与える」と告げました。ここで「平安」は、真の幸福のことです。

  まことの幸福とは、完全に「神と一つになる」ことです。




「極楽」と「天国」 ー 究極の幸福 ー 

現代の日本では「極楽」は、死語のようです。一般に抵抗なく使われているのは「天国」です。

「極楽」(スクーヴァティ)の意味は「幸いのあるところ」です。


「天国」は、「天の国」または「神の国」ともいいます。究極の幸福のあるところです。その「神の国」とは、来世で人が完全に「神と一つになる」ことです。それが「究極の幸福」です。

         「神の栄光の中にある」ということであるとも言えます。

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# by francesco1hen | 2018-09-12 10:53 | Comments(0)
2018年 09月 07日

[ 心に響く ことば ]

             〈 人の創造 の真意 〉

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「神は自分にかたどって人を創造された。男と女とに創造された」(創世記 1・27)。


「神である主は土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きるものとなった」(創世記 2・7)。


神に似せて造られ「命の息」を吹き入れられた人間は、神の似像(imago Dei)であり、神の本性に与りうる「霊」をもつ存在となりました。


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                  〈 人の 永遠への想い 〉


コヘレトは書いています。

「神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。また、人の心に永遠の思いを授けられた」(コヘレトの言葉 3・11)と。


また、知恵の書は、

「命を愛される主よ、あなたはすべてのものをいとおしまれる。すべてはあなたのもの。実に、あなたの不滅の霊がすべてのものに及んでいる」(知恵の書 11・26)と記しています。


人に与えられたこの「不滅の霊」(魂)は、神と命を共にできる「永遠の命」です。


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                〈 人は 神の目に貴く、重んじられる 〉


神に造られた人間について、預言者イザヤは素晴らしい言葉をのこしています。


「人は、わたしの目に貴く、重んじられる」(イザヤ書 43・1)。

「これらの者はみな、わたしの名をもって呼ばれる者。わたしがわたしの栄光のために創造し、形づくり、造りあげた者」(イザヤ書 43・7)。


これらの言葉は、神によって創造された人間が、神に愛される貴重な存在であることを示し、その存在が、神の栄光の輝きとなるということです。

    だから「人間の尊厳」(Hominis Dignitati)が叫ばれるのです。


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                         *


 
                   〈 貴重な存在である人間 〉


神に似せて創造され、「命の息」すなわち「不滅の霊」という命を与えられた人間は、神の愛の対象として、「神の命」の中に招かれています。

知恵の書は、人が貴重な存在であることを次のように書いています。


「あなたは存在するすべてのものを愛し、造られたものをすべて愛し、造られたものを何一つ忌み嫌われない。もし憎いものがあったとすれば、あなたはそれを形づくられなかったであろう。あなたが望まれなければ、どうして存在し続けることができよう」(知恵の書 11・24ー25)。


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                 パントクラトール(天地万物の支配者)


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この知恵の書が書いているように、

     「神の目に貴く、重んじられる」人間は、神から愛される存在です。



                         *



            ラテン語のことば〈 hic et nunc 〉訳せば〈 今ここに 〉


今ここに「生きている」ことは 素晴らしい。そして、死後も「不滅の霊」(魂)が神とともに「永遠の命」を生きることは、〈 最高の善いこと 〉です。


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          ー 何かを感じているふたりの人 ー









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# by francesco1hen | 2018-09-07 14:17 | Comments(0)
2018年 08月 18日

《 手が生み出す 木彫の世界 》 2

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    〈ひまわり〉

彫刻ギャラリーGakou の展示風景 〈ひまわり〉もそうですが、桑山賀行は、過ぎゆくものの美しさのうちに「無常という事」を追求している彫刻家であるように思われます。


「目で見る 桑山賀行展」

桑山賀行氏は、1948年 愛知県常滑市に生まれる。日展の評議員、審査員を務め、2007年 日展・内閣総理大臣賞受賞。2011年 清里の森 彫刻ギャラリーGakou 開館。

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    〈帆〉 廃れた案山子に「無常である事」を感じさせます。


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   〈風景 ー 海 ー〉 精密に船舶工学で造られた船も廃れた姿で残っている。


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    〈過去の街〉


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    〈道〉 道は、過去から未来へと続いていることを暗示しています。


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    〈演者 III〉部分

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    〈演者 VII〉「神の手によって動く人形」


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     〈蓮華〉


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      〈蓮華一笛〉

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     〈雲上の月見〉

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     〈雛祭り〉

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     〈窓〉 部分

                     
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 桑山賀行氏は、希有の木彫家として多彩な作品で人を驚嘆させている彫刻家です。



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# by francesco1hen | 2018-08-18 21:51 | Comments(0)
2018年 08月 18日

《 手が生み出す 木彫の世界 》  清里の森 彫刻ギャラリーGakou にて


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〈鳥のように〉海でも空でも何処でも駆け回ることができるような大きな翼、大きな帆、それに魚の尾をもつ船をイメージして造りました。(作者のことば)




[ 手で見る 小原二三夫 x 目で見る 桑山賀行 展 ]

 小原二三夫さんは、1952年青森県十和田市で、全盲の視覚障害者として生まれました。以来八戸盲学校・高等部・関西学院大学社会部を経て、現在は日本ライトハウス情報文化センターに勤務しておられます。

2013年「桑山賀行と土曜会 第22回手で触れて見る彫刻展」会場で、桑山賀行氏から木彫制作を勧められ、2014年の「桑山賀行と土曜会 第24回てで触れ見てみる彫刻展」に木彫数点を出品して、以後毎年出品されています。

この度は、「手で見る 小原二三夫 x 目で見る 桑山賀行 展」を清里の森 彫刻ギャラリーGakou で 2018年5月2日(水)から6日(日)まで開催。6月から10月までは第1週の土・日に開館されています。

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    〈落ちる〉

「作者のことば」 
 歩道をブロック塀沿いに歩いていて、突然左脚が落ち、右膝だけでほとんど全体重を支えている情景を作品にしてみました。右膝の激痛のためショック状態になり、救急車が呼ばれました。前にあるのはストレッチャーです。


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     〈笛の音〉

 「笛の音」の笛を吹いている人は、レリーフなので充分に作り込めないと思って、立体で作ってみました。

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    〈なかよし〉

 2人の子どもが、なかよくシーソーのようなものに乗って、手をつないで揺られているところをイメージして彫ってみました。シーソーのようなもののどちらか一方の端を押さえると揺れます。こんな風景、見られるのでしょうか。

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    〈 考える II 〉

 船の形に似せた台に座し、頬杖をついて考えている姿を、磨崖仏のように彫り込んでみました。彫り込むのはなかなか難しかったのですが、磨崖仏には憧れています。


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     〈囚われの身〉

 前に向かって進もうとする人が、後ろから多くの目で監視され、手で押さえられ、ぎゅっとつながれている、そんな姿をイメージして作ってみました。このようなイメージは、若い頃から持っていました。

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     〈どうぞ〉

 この子のひろげた手に、なんでも「どうぞ」と言ってあげたくなるような、そんなイメージで作ってみました。大きな作品を作った時に出た端材で作りました。


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    〈風:なびく・ゆらぐ〉

 セット作品。風になびいたり揺らいだりする姿をイメージして彫ってみました。触るとゆらゆら揺れますし、2つを一緒に回してみても面白いです。
 このセット作品は、一つの円柱を螺旋状に2つに切り分けて作ったものです。出き上がるまでは「難産」でした。

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      〈かにさん散歩〉〈合掌〉 〈花風車〉

〈合掌〉地に座し、力強く、思いを込めて祈っている姿です。全体の形は、八戸の是川縄文館にある国宝の合掌土偶のレプリカに触ったときの印象を参考にしています。
 頭の後ろにあるのは、合掌している小さな手3つです。


                    *


手で見る 小原二三夫さんの木彫作品は以上のようです。生き方の色々な経験から生まれた作品の数々でした。



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# by francesco1hen | 2018-08-18 17:02 | Comments(0)
2018年 08月 12日

サンメドウズ清里ハイランドパークの《 清里テラス 》

パノラマリフトで空中散歩です。                 

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天空テラスの賑わいは、このようです。

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天空テラスは、標高 1,900m です。眺望は格別です。

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眺望に感激している二人                  

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テラスには30分計の砂時計があって、その間自由に使えます。
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    思い思いの人々の姿

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       石のテラスもなかなかです。ただ人はよってきませんね。



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# by francesco1hen | 2018-08-12 17:39 | Comments(0)
2018年 07月 30日

「奥の細道」「露地口と露地」「狭い門と細い道」? 

〔1〕風雅の誠(まこと)を求める『奥の細道』

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 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」の序文で始る『奥の細道』の旅は、西行500回忌1689年(元禄2)松尾芭蕉と門人河合曾良が江戸を発って、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江までの600里(2400Km)の旅でした。  
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 「みちのく」という辺境の地への旅で、芭蕉は多くの自然の美しさに出合い俳諧の真髄を求めました。
 この旅で芭蕉は、「不易流行」ということを深く知るようになったのです。

 「不易」とは、宇宙・大自然は変化「流行」しながらも、それを超越して不変である、ということです。
「流行」は、宇宙・大自然が、その時々に応じて変化していく有様をいいます。

 しかし、「不易」と「流行」は、対立するものではなく、大自然はたえず変化
(流行)しながらも不変(不易)であると、考える自然観であるといえます。

 俳諧では、真に「流行」を得れば自ずから「不易」を生じ、また、真に「不易」に徹すれば、そのまま
「流行」を生ずる、といわれています。



 芭蕉は、「奥の細道」の旅で「風雅の誠」を求めています。

 「風雅の誠」とは自我意識を捨て大自然と一体になった「永遠不変の境地」のことをいいます。

 それは「不易流行」の根底にあって、それを生み出すものです。
 そして、「風雅の誠」は、蕉風俳諧の根本理念になっています。


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ところで平家物語では、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と「無常」と「常なるもの」は別のものです。しかし、芭蕉では「諸行無常」は「流行」です。無常でない「常なるもの」は「不易」です。

 俳諧においては「不易」と「流行」の根本は一つであり、芭蕉はそれを「風雅の誠」と呼んでいます。


古来わが国では、「大自然 = 神々」という考え方があります。これが芭蕉においては、大自然と一体になった「永遠不変の境地」(風雅の誠)となっています。これは俳諧に生きる者が求める「究極の境地」です。


 それはまた「大自然 = 神々と一体になった」という、心の深奥の願いであったといえるではないでしょう  か。


    


                        *




〔2〕露地口 と 露地から 茶室の「和・敬・清・寂」
                             

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 「露地」という細い道を通って、「にじり口」という狭い戸口から入る「茶室」とは、どのような処でしょうか。

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 千利休の茶室で現存する唯一の妙喜庵待庵は、二畳敷という最小の茶室です。この小さな茶室空間は、数寄が凝らされて複雑になっていますが、この数寄屋風の小間は「宇宙自然の縮小としての茶室」です。たとえ小さな草庵であっても、そこでは宇宙自然の広がりが象徴されています。

 
                        *


 茶道の祖村田珠光が、足利義政に茶道の精神をたずねられ「和・敬・清・寂」と答えた、四文字の意味を体現し、実践ることが茶道の本分とされています。

 千家では、利休が定めたこの四文字を「四規」として重要視しています。


 「和」の字は、禾と口で出来ています。その「和」は、戦争をやめ平和の状態にする講和の意味です。禾(食 物)を口にすると、人は和やかになります。茶室の主人と客が互いに心を和らげ、謹み敬い茶亊を行ないま  す。

 「敬」が重んじられるのは、互いを敬うことがあってこそ、「賓主互感」のよい茶会が成り立つからです。

 「清」も大切で、茶室や道具は清潔であることが求められます。それだけではなく、茶席に招かれる人は俗事  にまみれた人でなく、清い心の人でなければなりません。

 「寂」は、茶室が脱俗した静寂な場所を理想としていることを示しています。


 しかも「和敬清寂」は、茶亊と人のありかた全体が、これに貫かれていなければならない大切なことです。

 さらに言葉を重ねるならば、必要とされるものがすべて清さの中で整い、和やかで謙虚な気持ちで静寂のうち に、大切な時を楽しむのが、「和・敬・清・寂」の茶室空間です。


   それは、つぎの言葉でも表わされています。


「賓主互感」親密な交わり。     「一期一会」大切な出合い。
「一座建立」同席する人々の一体感。 「余情残心」いつまでも消滅しない充実感。



                       *



          「和敬清寂」の「和」と「寂」に関連して考えてみます。


 釈迦の悟りの境地を「涅槃寂静」といいます。「涅槃」のサンスクリット語〈ニルヴァーナ〉の現代語訳は、「絶対の安らぎ」です。「寂静」〈シャンディー〉の現代語訳は「平和」です。

 茶道の「和」と「寂」は、「涅槃寂静」=「絶対の安らぎ」と「平和」に通じるものがあります。

 茶道の究極の境地は、善いもので満たされた人間の「平和・平穏」の世界ではないでしょうか。それは茶道という「場」での、精神的に深い 心の在り方 です。



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〔3〕永遠の命を求める「狭い門 と 細い道」 ー 道・真理・命 ー

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  「わたし(イエス)は門である」。そして「わたしは善い羊飼いである。・・・
わたしは善い羊飼いであり、自分の羊を知っている。わたしの羊もまたわたしを知っている。・・・ そして、わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ 10・7.14 -15)とイエスは、人々の語りました。

 この個所の「知る」は、単に知り合うという意味ではなく、両者のあいだの深い信頼と愛の絆があり、心の交流があることを意味しています。

 それは「狭い門 と 細い道」を通る者のすがたです。



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 また、イエスは「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」(マルコ 8・34 -35)と言っています。



 さらに、最後の晩餐の時には、「新しい掟」を与えました。

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 「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 13・34 )と。

 二度目には、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない」(同 15・12 -13)と加えました。

 さらに三度目には、「あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの命令である」(同 15・17)と「新しい掟」を命じました。



 晩餐の夜の「イエスは真の〈ぶどうの木〉」のたとえでは、

 「わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人にうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ」(ヨハネ 15・5)と、親しく語りました。


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 晩餐が終わってからイエスは、ゲッセマネの園でイエスを信じる者のために祈りました。それは父である神への次のような「祈り」でした。


 「どうか、皆を一つにしてください。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしの内にいるようにしてください。・・・ 


 わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。
             
                            (同 17・ 21 - 23)


 この祈りは、晩餐の早い段階で弟子たちに告げていたつぎの言葉を、父である神に願った祈りであったのです。その言葉は、つぎのような「ふしぎな言葉」でした。


 「わたしが父の内におり、あなた方がわたしの内におり、
  そして、
  わたしがあなた方の内にいることを、
  その日、あなた方は悟であろう」。
                             (ヨハネ 14・20)


その日とは、「神の国」に入るときのことです。 神の国は「神そのもの」のことです。そのことは、今挙げた「ゲッセマネの園の祈り」で明らかにされたばかりです。



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     「狭い門 と 細い道」の先には、神とともに在る「永遠の命」があるのです。


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# by francesco1hen | 2018-07-30 11:25 | Comments(0)
2018年 07月 23日

「茶室」にいたる 露地口・露地・にじり口

「茶室にいたる露地口・露地・にじり口」と「命にいたる狭い門と細い道」
  ー その比較 と 類似について ー


               〔 露地口から茶室まで 〕


 茶室にいたるまでの「場」の設定には重要な意味があります。いうまでもなく茶室のもつ意味は最も大きいのですが、茶室にいたるまでには、いくつかの重要な意味をもった「場」の設定が工夫されています。

 茶室のある庭を「露地」といいます。非日常的空間である茶室とそれをめぐる庭に入るためには、まず「露地口」を通らなければなりません。

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 露地口は、日常的な空間と非日常的空間を区別するためのごく狭い入口です。
露地は「中潜」(なかくぐり)によって外露地と内露地に区別されています。

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        「外露地」 その奥は「中潜」       

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この二枚は「中潜」の例です。


 露地口と中潜という二重の結界(意識を変える場)がおかれることにより、露地も外露地と内露地に分れるようになりました。この外露地と内露地を区別するために作られたのが「中潜」です。                             

「中潜」の中門を通るといよいよ茶室に近づきます。   

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「ツクバイ」       


 茶室の手前には、聖なる場所に入る身の清めと心構えを整えるために「ツクバイ」(蹲踞 = つくばうは、謙虚な姿勢、慎み深い清らかな心)が作られており、客はこのツクバイで水をくんで口と手を清めます。                   

結界を越えて、その度に緊張の度合いを高めながら、客は数寄の聖なる茶室への最後の戸口である「にじり口」と呼ばれる60センチ四方の最も小さな狭い入口に至ります。               

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「にじり口」の一例     
               
                                       客は一礼して身をかがめながら「にじり口」から数寄を凝らした茶室に入ります。「にじり口」から入ると狭小な茶室空間は大きく感じられ、無限の可能性をもつようになったと言われています。                         

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「妙喜庵」と呼ばれている茶室


 
                         *



 
                 〔 命にいたる 狭い門 と 細い道 〕


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 聖書に「二つの門」や「狭い戸口」という個所があります。とくに有名なのは「狭い門」の所です。これは「露地口」と「にじり口」を思い出させます。

 狭い門から入りなさい。滅びへの道は広く、そこに通じる道は広々としていて、そこから入る者は多い。しかし。いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つけるものは少ない。 
                                      (マタイ 12・13 -14 )

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 「狭い門」と「露地口」、「狭い戸口」と「にじり口」は形の上でも、意味的にも似ています。「露地口」は普通の広い門ではなく、非日常的な「和敬清寂」の茶道の世界に入る狭い入口です。「にじり口」も最も大切な茶道の場「茶室」に入る戸口です。


 「狭い門」は、実はイエスのことです。あるとき、イエスは「わたしは羊の通る門である。わたしを通って入るなら、その人は救われる」(ヨハネ10・9 )と言いました。

 イエスの福音の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて(考え方を変えて)、福音を信じなさい」でした。福音を信じた者の究極的結果は、「神の国」ー 神とともに在る「永遠の命」です。


   「いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細い」のです。 

   「茶室」にいたる「露地口・露地・にじり口」と同じように。


 「中潜」にも意味があります。

 イエスが旅にでようとしたとき、金持の青年が走りよって尋ねました。  

「先生、永遠のいのちを受け継ぐためには何をすればよいのでしょうか」。

イエスは答えました。「律法を守りなさい」と。「これらのことは皆、小さい時から守っています」と青年。

イエスはこの真面目な青年を、じっと見つめて、愛情を込めて、言いました。


 「あなたに欠けているものが一つある。行って、持っているものをことごとく売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしについて来なさい」。


青年はこの言葉を聞いて、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きました。多くの財産を持っていたからです。



 「露地口・露地・中潜」は、ある意味で関門です。世間的な執着を捨て、ひたすら茶道の「和敬清寂」の世界を求めることが必要とされるのです。


 イエスの門は、世間的な富よりも、より大切なことのみを求めているのです。
これに関してイエスは、「富を持つものが 神の国に入るのは、なんと難しいことであろう」。

 さらに加えて「金持が 神の国に入るよりは、らくだ が針の穴を通るほうがもっとやさしい」と。    
                           
                            (マルコ 10・23 -27)

 
 「にじり口」は、敵意や虚飾・雑念を捨て、純粋な「和敬清寂」茶道の世界に入る戸口です。 最も厳しい「狭い門」です。

 これと同じように、福音(イエスの門)では、イエスに従うことが求められています。


 イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び集めて、「わたしに従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架を担なって、わたしに従いなさい。


 自分の命を救おうと望む者はそれを失ない、わたしのため、また福音のために、命を失うしなう者は、それを救う。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益があるだろうか」と語りました。

                            (マルコ 8・34 -36)


        「神の国・永遠の命」への 門は狭く、そこに 通じる道 は細いのです。


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 「広い門・広い道」とは、現世的な 富の豊かさや、自己中心的な 快適なこと のみを求めることが、
「滅びへの道」になるのです。


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                         *



               ヨハネによる福音書に、有名な言葉があります。
                     〔 道・真理・命 〕

      
              「わたしは道であり、真理であり、命である。
              わたしを通ってでなければ、
              だれも父(である神)のもとに行くことはできない」。

                      (ヨハネ 14・6)


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# by francesco1hen | 2018-07-23 11:44 | Comments(0)
2018年 07月 20日

詩編 22「メシアの受難の詩」と 《 メサイア 》の楽曲

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            エル・グレコ  「エリ、エリ、レマバクタニ!」


詩編22 は、他人から非道に扱われ、神との断絶を体験する人の嘆きの詩といわれています。したがって、「神のしもベの苦しみと願い」 という題を付けられることもあります。

しかし、その多くの言葉は、イエスの受難の情況を彷彿させるものがあり、また、新約聖書のイエスの受難に引用される個所が多いので有名です。

 それで、この詩編は「メシアの受難の詩」 といわれています。

              

                   *



             詩編22「メシアの受難の詩」



22・2  わたしの神よ、わたしの神よ
      なぜわたしをお見捨てになるのですか。
 
         (この言葉は、マタイ27・46 マルコ15・34で引用される)

      なぜわたしを遠く離れ、救おうともせず
      呻きの声も聞いてくださらないのか。

   3  わたしの神よ
      昼は、呼び求めても答えてくださらない。
      夜も、黙ることをお許しにならない。

   4   だがあなたは、聖所にいまし
      イスラエルの賛美を受ける方。

   5  わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
      依り頼んで、救われて来た。 

   6  助けを求めてあなたに叫び、救い出され
      あなたにより頼んで、裏切られたことはない。

   7  わたしは虫けら、とても人とはいえない。
      人間の屑、民の恥。  

  8  わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑い   (ルカ23・35-37で)
   唇を突き出し、頭を振る。

      (マタイ27・39-44 マルコ15・29で、《メサイア》 27曲の歌詞。)

   9  「主に頼んで救ってもらがよい。
      主が愛していておられるなら、助けてくださるだろう」

               (マタイ 27・43-44で、《メサイア》28曲の歌詞。)

  10  わたしを母の胎内から取り出し
      その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
  11  母がわたしを身ごもったといから
      わたしはあなたにすがってきました。
      母の胎内にいるときから、あなたはわたしの神。

  12  わたしを遠く離れないでください    
       苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

  13  雄牛が群がってわたしを囲み
      バシャンの猛牛がわたしに迫る。 
  14  餌食を前にした獅子のようにうなり
      牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。

  15  わたしは水となって注ぎだされ    (無抵抗になすがままにされる)

      骨はことごとくはずされ       (肉体的に激しい苦痛を受ける)

      心は胸の中で蝋のように溶ける。         (魂の苦悩の表現)

  16  口は渇いて素焼きのかけらとなり    (ヨハネ 19・28で「渇く」)

      舌は上顎にはり付く。       (十字架上の苦難を想像させる表現)


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グリューネヴァルト    「イエスの磔刑」         


      あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

  17  犬どもがわたしを取り囲み
      さいなむ者が群がってわたしを囲み  
      獅子のようにわたしの手足を砕く。  (ヨハネ 19・34「刺し貫き」)


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          ルーベンス  「刺し貫かれるイエス」



     18  骨が数えられる程になってしまったわたしの体を
         彼らはさらしものにして眺め
      19  わたしの着物を分け
         衣を取ろうとしてくじを引く。
     
                  (マタイ 27・35 と ヨハネ 19・23-24 で)

  20  主よ、あなただけは
     わたしから遠く離れないでください。
     わたしの力の神よ
    今すぐにわたしを助けてください。
   21  わたしの魂を剣から救い出し
       わたしの身を犬どもから救い出してください。
22  獅子の口、雄牛の角からわたしを救い
       わたしに答えてください。



                  *

  
   「詩編22」の22節以下は省略。あと、32節までつづきます。


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      アヴィニオンのピエタ
     

                   *



ここに掲げた「詩編22」には、メシアの受難におけるイエスの肉体的・精神的苦痛と苦悩、苦難における例えようもない孤独感に苛まれていることが、余すところなく表わされています。


                   *



       「詩編22」からの歌詞による《 メサイア 》の楽曲


《 メサイア 》第10楽曲群 第27曲と28曲の主題は、ゴルゴタの丘におけるメシア受難の描写です。

十字架上のイエスに浴びせられる群衆の嘲笑と悪意の言葉、メシアへの神を恐れぬ侮辱と暴言が中心になっています。

その声楽的語法は、テノールの〔レチタティーヴォ・アコンパニャート〕と〔合唱〕という形が採られています。



第27曲「彼を見る人は皆、彼を嘲笑い」(メシアに対する群衆の嘲笑と悪意)

   彼を見る人は皆、彼を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。    
                              (詩編22・8)


第28曲「主に頼んで救ってもらうがよい」(メシアへの侮蔑と暴言)

   「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しているなら、助けてくれるだろう」
                              (詩編22・9)



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        エル・グレコ  「成り終われり」 イエスの十字架上での死



                    *





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# by francesco1hen | 2018-07-20 11:03 | Comments(0)
2018年 07月 16日

中山湖・鐘山の瀧とその渓流  「凉し」写真集

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      朝の鐘山の瀧

 

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鐘山渓流
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                        *





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〈 完 〉





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# by francesco1hen | 2018-07-16 17:58 | Comments(0)
2018年 07月 15日

ヘンデル《 メサイア 》の歌詞になった「イザヤ53章」

《 メサイア 》第9楽曲群 ヤーウェの苦難のしもベの贖罪の真相

第23曲「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」 (受難のメシアの悲惨な姿)

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〔歌詞・テキスト〕〔コントラルトのアリア(独唱)〕


彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。

                              (イザヤ書53・3)

 打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
                              (イザヤ書50・6)



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                         *


イエスの受難の真相を伝えるこの希有な言葉として歌われる 第23曲のテキストは、くり返しくり返し歌われる表現の意味を目に見えるようにイメージしないかぎり、決して心撃つ歌にはならない。また、歌の心を心に受け止めることはできない。

大切なことは、「ヤーウェの受難のしもベの歌」の全体を集約したような、この曲のテキストの言葉そのものの意味を素直に捉えることが肝要です。


                         *


第24曲「彼が担ったのはわたしたちの病」(罪に目覚めた人の良心の声)

〔歌詞・テキスト〕〔合唱〕

 彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。
 彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎めであった。
 彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられた。

                             (イザヤ書53・4-5 )


第25曲「彼の受けた傷によって」(メシアの贖罪の意味)

〔歌詞・テキスト〕〔合唱〕

 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

                              (イザヤ書53・5)


第26曲「わたしたちは羊の群れ、道を誤り」(罪の告白の言葉)

〔歌詞・テキスト〕〔合唱〕

 わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせた。
                              (イザヤ書53・6)


                         *



第23曲のアリア「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」と、これに続く
第24曲「彼が担ったのはわたしたちの罪」
第25曲「彼の受けた傷によって」
第26曲「わたしたちは羊の群れ、道を誤り」の連続する三つの合唱の

テキストの言葉は、「苦難のしもベ」の悲惨なすがたを知って、これに無関心であったことを悔い、自分自身の罪の重さを悟る目覚めた人の良心の声、メシアの贖罪の意味を噛み締めた上での罪の告白の言葉です。


                   
                        * * 



第11楽曲群 メシアの十字架上での死と復活

 第29曲「嘲りに心を打ち砕かれ」(エルサレムの婦人たちの同情)
 第30曲「目を留めよ、よく見よ」(百人隊長らの心ある人々の感動)
 
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第31曲「彼は命ある者の地から断たれた」(メシアの十字架上の死)

〔歌詞・テキスト〕〔ソプラノのアコンパニャート〕

 あなたの民の背きゆえに、彼が神の手にかかり
 命あるもの地から断たれたことを。
                            (イザヤ書53・8)


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 第32曲「あなたは彼を陰府(死の国)に渡すことなく」
                       (メシアの埋葬・復活への希望)
 〔ソプラノのアリア〕


 第33曲「城門よ、頭を上げよ」(復活した「栄光の王」メシアの輝かしさと力)

 〔合唱〕

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      エル・グレコ  〈 キリストの復活 〉

  キリストの復活を見た者は一人もいません。復活のようすは画家の想像によるものです。


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       フラ・アンジェリコ 

      〈 復活したキリスト・イエスに最初に出会ったマグダラのマリア 〉



                        *





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# by francesco1hen | 2018-07-15 16:13 | Comments(0)
2018年 07月 13日

イザヤ書53章の「ヤーウェの苦難のしもベの歌」

イザヤ書53章の「ヤーウェの苦難のしもベの歌」は、旧約聖書におけるメシア預言の頂点となっています。

この歌が「文学の奇跡」といわれる理由は、イザヤ預言者が十字架の下に立って、磔刑のイエスを観ていたかのようにイエスの姿を描いていることです。

これは今まで、いずれの画家も描きえなかったイエスの受難の真実のすがたを、イザヤが「詩文のかたち」で書き残しているのことから「文学の奇跡」といわれるのです。


   
    「ヤーウェの苦難のしもベの歌」 (52・13 ー 53・12)


52・13 見よ、わたしの僕は栄える。
     はるかに高く上げられ、あがめられる。
   14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように
     彼の姿は損なわれ、人とは見えず
     もはや人の子の面影はない。
   15 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
     彼を見て、王たちも口を閉ざす。
     だれも物語らなかったことを見
     一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

53・1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じようか。
     主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

   2 渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
     この人は主の前に育った。
     見るべき面影はなく
     輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない。

   3 彼は軽蔑され、* 人々に見捨てられ * *
     多くの痛みを負い、病を知っている。
 
                   ( * マルコ 10・34. ルカ 18・31-33を見よ)
                    ( * * マタイ 2631. ヨハネ 16・32 を見よ)
                    
                      (《メサイア》第23曲の歌詞の前半)

    わたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

  4 彼が担ったのはわたしたちの病
    彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
    わたしたちは思っていた。
    神の手にかかり、打たれたから、 彼は苦しんだ、と。

  5 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり
 
    彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎めのためであった。
    彼の受けた懲らしめによって、
    わたしたちに平和が与えられ      
                       (《メサイア》第24曲の歌詞)
    
    彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

                       (《メサイア》第25曲の歌詞)
  6  わたしたちは羊の群れ
    道を誤り、それぞれの方角に向かって行った 。
                      
                        (《メサイア》第26曲の歌詞)


    そのわたしたちの罪をすべて *     ( * マタイ 26・31. 26・56 を見よ)
    主は彼に負わせられた。
  7 苦役を課せられて、かがみ込み *
                 ( * マタイ 26・67-68 と 27・27-30 を見よ )

    彼は口を開かなかった。*  
                  ( * マタイ 26・63 と ヨハネ 19・ 9 を見よ)

    屠り場に引かれる小羊のように *          ( * 黙示録 5・6 を見よ)
    毛を切る者の前にもの言わない羊のように
    彼は口を開かなかった。

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  8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。*

       ( * ヨハネ 18・3-11./ 18・19-24./ 18・28-19./19・28-37 を見よ)

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        彼の時代の誰が思い巡らせあであろうか。

        わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
        命ある者の地から断たれたことを。 
                          (《メサイア》第31曲の歌詞)

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      ジョット   〈ピエタ 聖母マリアの悲しみ〉


    9 彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに *
                     ( * ヨハネ 18・38. / 19・16 を見よ)

      その墓は神に逆らう者と共にされ *
               ( * マタイ 27・33-38/ ヨハネ 19・16-18 を見よ)
      富める者と共に葬られた。*       ( * マタイ 27・59-60 を見よ)

   10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
      彼は自からを償いの捧げ物とした。
      かれらは、子孫が末永く続くのを見る。
      主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。

   11 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。
      わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
      彼らの罪を自ら負った。

   12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
      彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
      彼が自らをなげうち、死んで
      罪びとのひとりに数えられらからだ。*
                 ( * マルコ 15・26-27. と ルカ 22・37 を見よ)

      多くの人の過ちを担い
      背いた者のために執り成しをしたのは
      この人であった。


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     ルオー  〈 キリストの顔 〉
           

                        *


このイザヤ53章の「ヤーウェの苦難のしもベの歌」を、使徒パウロは次のように要約しています。


キリストは神の身でありながら、神としてのありかたに固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、しもベの身となり、人間と同じようになった。

その姿はまさしく人間であり、死にいたるまで十字架の死にいたるまで、へりくだって従う者のとなった。

それゆえ、神はこの上なく彼を高め、すべての名にまさる名を惜しみなくお与えになった。
こうして、天にあるもの、地にあるもの、地下にあるものはすべて、イエスの名においてひざをかがめ、
すべての舌は「イエス・キリストは主である」と表明し、父である神の栄光を輝かす。

                      (フィリピの信徒への手紙 2・6 -11)


このフィリピの信徒への手紙で、「死にいたるまで、十字架の死にたるまで、へりくだって従う者となった」と要約された、イザヤ53章7-10節のメシア受難の描写は、まさにイエスの受難の真相に迫るものです。

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ベラスケス イエスの死



     イザヤ53章に「主の僕の苦難の後の栄光」という標題が付けられている聖書の訳もあります。


    
 *




   




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# by francesco1hen | 2018-07-13 12:40 | Comments(0)
2018年 07月 04日

 『知恵の書』の記述 と 現代人の生き方

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旧約聖書の収められている『知恵の書』が書かれたのは、前2世紀に七十人聖書が完成された後の前88年ー前30年の間と推定されています。

著者はユダヤ人でギリシア哲学思想に精通し、旧約聖書の内容にも明らかでした。ギリシア語で書かれた『知恵の書』の特徴は、不思議なことに旧約聖書と新約聖書をつなぐ役割をもっていることです。

ところで、今日『知恵の書』の2章を読むときに驚くことは、これが前 1世紀に書かれたのもかかわらず、現代世界に住む人間の個人の生き方や国家・経済の在り方を浮かび上がらせるような記述があることです。『知恵の書』には、そのことが次のように記述されています。


2・1 彼らは正しく考えず、互いに言い合う。
    「われわれの一生は短く、悲しみに満ちている。人は最期にあたって何もすすべはなく、また陰府      (死)から人を救い出した者は誰もいない。

  2 われわれは偶然に生まれたものであり、後には、まったく存在しなかった者のようになる。われわれの    鼻の息は煙、人の思いは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。

  3 鼓動が止まると、体は灰となり、魂は軽い空気のように消え失せる。

  4 われわれの名は時とともに忘れられ、だれもわれわれの業を思い出してくれない。われわれの一生涯は    薄れゆく雲のように過ぎ去り、霧のように散らされる。日の光に追われ、その熱に溶かされながら。

  5 わらわれの生涯は影のように、ひとたび最後が来れば、やり直しはできない」。 


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この『知恵の書』のことばからは、死から先はないという人々の声が聞こえてくるようです。長時間の延命治療も人の生命を救うことはできず、「体は灰となり、魂は軽い空気のように消え失せる」結果に終わります。人の業績は間もなく人々の記憶から消え去り、人の生涯は雲散霧消してしまいます。

このように人の死の先には何もないと考えることは、人間の悲惨を感じさせるものでしかありません。死が人間の存在を完全に消滅させるということは、人間にただただ恐怖感を与えるだけです。  


そこで、彼らは次のように考えます。


  6 「さあ、目の前にある善いものを楽しもう。若い時のようにこの世のものをひたすら貪ろう。

  7 善い酒と香料におぼれ、春の花を見逃さず、
  8 バラのしぼみがしおれぬうちに、冠にしよう。

  9 われわれが飲んで騒がぬ野辺はないようにしよう。楽しみの跡を至る所に残しておこう。これこそわれ    われの取り分、われわれの定めなのだ。

 10 貧しい義人を虐げよう。年を重ねた老人の白髪も敬いはしない。

 11 わらわれの力を正義のものさしとしよう。弱さは無益なものとされているのだから」。 


この記述からは、現代世界の政治や経済の状況が現れてくるような気がします。


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    世界的に広がる貧富の格差


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人間が生きるために必要なものかと疑わせるような、富の豊かさを象徴する豪華な高層ビルの建物や住居。

高級グルメや高額商品を節度なく求める消費文化の現代人の行動は、贅沢な物質主義の虚飾ともいえる果実を貪るような愚かな姿に思えます。

その生き方が、たとえ生き甲斐のある充実した生活であっても、かならず訪れる死によって終わってしまうものであるならば、「生きる目的」をもたないその行動は、意味のない生涯であったとしか言えません。


「鼓動が止まると、体は灰となり、魂は空気のように消え失せる」ことは果たしてそのようでしょうか。


目に見える外面的な世界のことよりも、人間自身の内面(魂)に眼を向けて、新しい世界を見いださなければならない時ではないでしょうか?



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「われわれの名は時とともに忘れられ、誰もわれわれの業績を思い出してくれない。われわれの一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、霧のように散らされる」

という文字を読むとき、すべての人は生まれかつ、例外なく死に、死ぬ時はいかなる人も財産を持っていくことはできない。


    だから、死で終わる人間の生涯は、何であるかを問わざるをえなくなります。


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イエスのガリラヤでの福音宣教の第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は、人々がこれまで抱いてきた現世的な価値観の転換をせまる衝撃的なものでした。


イエスが人々に迫る呼びかけは、人々を幸福にするのは、地上の富ではなく、神の国(永遠の命)と神の前に正しい生活を求めることこそが、最も価値のある幸福・神の国にいくことができる、というメッセージでした。


                         *


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    ルオー「キリストの顔」






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# by francesco1hen | 2018-07-04 21:40 | Comments(0)
2018年 07月 02日

不思議な旧約聖書の『知恵の書』と「詩編30番」

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               モーゼが『十戒』を授けられたシナイ山


  不思議な書物『知恵の書』

旧約聖書に収められている『知恵の書』は、紀元前1世紀(ある説によれば、
前2世紀)にギリシア語で書かれた著者不明の教訓書です。

著者はユダヤ人で、ギリシア哲学思想に精通し、旧約聖書にも明らかでした。
この『知恵の書』は、旧約聖書のうちで新約聖書と最も密接な関係をもっています。
それはこの書が、旧約聖書と新約聖書をつなぐような役割をもっていることです。

内容は多義にわたっていますが、ここでは、「死と生」に言及している個所を紹介します。
(知恵1章 13 -15. 2章 23 - 24.)



                         *



    
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「死海」とよばれる湖         



神が死を造られたわけではなく、        
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。   

生かすためにこそ神は万物をお造りになった。  
世にある造られたものには価値がある。     
滅びをもたらす毒はその中になく、       
死の力がこの世を支配することもない。     
神の正しさは不滅である。           


神は人間を不滅な者として創造し、       
ご自分の本性の似姿として造られた。      

悪魔の妬みによって死がこの世に入り、     
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。  




神の本性の似姿(imago Dei = image of God)は、
     本来、人間が神の永遠性に与る存在である根拠です。     
 
       このことから「人間は、神の目に貴く重んじられる」       
       という意味の深さが理解できると思います。           




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イエスが、福音を宣べ伝えはじめたガリラヤ湖



「詩編30」のことば


神よ、あなたはわたしを救い、
死の力が勝ち誇るのを許されない。
神よ、あなたは死の国からわたしを引きあげ、
危うい命を救ってくださった。

滅びは神の怒りのうちに、いのちは恵みのうちにある。
夜が嘆きに包まれても、朝は喜びに明けそめる。

神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの救いとなってください。
  あなたは嘆きを喜びに変え、荒布を晴れ着に替えてくださった。


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善き牧者イエスと共にいる羊たち      




「この詩編30」は、〈いのち〉の与え主である神に信頼しながら歌われたものです。

滅びは神の怒りのいうちに・・・「滅び」と訳されている語は「一瞬」ともとれます。

新共同訳では「いっとき、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる」と訳しています。                            


そして、この詩編には、イエスの福音や十字架の救いのわざを思い起こすことができるかのような、言葉が見受けられます。                       


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# by francesco1hen | 2018-07-02 15:04 | Comments(0)
2018年 06月 29日

詩編 145「偉大な神への賛美」


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         詩編 145「神の偉大さと慈しみを讃える」


      わたしたちの神は偉大、すべてを超えて 讃えられる方。
      その偉大さは はかり知れない。
      今の世は次の世に あなたのわざを語り告げ、
      あなたの偉大な力をほめ歌う。

      神よ、あなたは恵み と あわれみ に満ち、
      怒るにおそく、いつくしみ 深い。
      その恵みは すべてのものに及び、
      憐れみは 造られた すべてのものの上にある。

      神よ、造られた すべてのものは あなたを讃え、
      あなたに従う人は感謝して歌う。
      彼らは あなたの国の栄光を語り、
      力ある あなたのわざを告げる。

      すべての人は あなたの力ある業と
      あなたの国の栄光を 知るようになる。
      あなたの国は永遠の国。
      あなたの支配は世々に及ぶ。

      神のことばは正しく、
      そのわざには 偽りがない。
      神は悩みのうちにある者を支え、
      倒れる者を すべて立たせてくださる。
      神を待ち望む すべてのものに、
      いのちの糧を豊かに恵まれる。
      生きている すべてのものの願いを、
      神は豊かに満たされる。

      神が行なわれることは すべて正しく、
      そのわざは 慈しみに満ちている。
      助けを求める すべてに人、
      心から祈る人のそばに 神はおられる。

      神をおそれる人の願いを聞き入れ、
      その叫びを聞いて助けられる。
      神を愛する人はすべて神に守られ、
      神に逆らう者は退けられる。


      わたしは神の誉れを語り、
      すべての民は世々限りなく、
      尊い 神の名を誉め讃える。



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                         *



この「神の偉大さと慈しみ」を讃える 詩編145番 には、神の愛を表わすヘブライ語の5つの言葉が すべて出てきます。この点でも、注目される 詩編です。

出てくる順に 「恵み」「憐れみ」「慈しみ」「知る」「愛」の5つです。

 「めぐみ」は、  ヘーン(恵みとしての愛・無償の愛)。
 「あわれみ」は、 ラーミム(心からの同情)。
 「いつくしみ」は、へセド(深いきずなの愛)。
 「知る」は、   ダート(深いところまで知る親しさ)。
 「愛」は、    アハベ(広い意味の愛・love)です。


ヘーンは、アモスの預言書に出てきます。あとの4つは、ホセアの預言書に出てきます。



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# by francesco1hen | 2018-06-29 23:39 | Comments(0)
2018年 06月 24日

詩編のことば「つねに人々と共にいる神ヤーウェ」

  
詩編 139 番「つねに人々と共にいる 神ヤーウェの はからい」

 
 神よ、あなたは わたしを心にかけ、わたしの すべてを知っておられる。
 わたしが 座るのも、立つのも知り、遠くから わたしの思いを見通される。

 歩くときも、休むときも見守り、わたしの行いを すべて知っておられる。
 くちびるに言葉が のぼる前に、神よ、あなたは すべてを知っておられる。

 後ろからも、前からも、あなたの手は わたしを守る。
 わたしを包む あなたの英知は神秘に満ち、あまりに深く、およびもつかない。

 あなたから離れて、わたしは どこに行かれよう。
 
 翼を駆って、東に逃れても、海を渡り、西の果てに住んでも、
 あなたの手は わたしを導き、あなたの右の手は わたしを離さない。

 
 あなたは わたしの体をつくり、母の胎内で、わたしを形造られた。 
 わたしを造られた あなたのわざは不思議。
 わたしは心から その偉大なわざを讃える。

 神よ、あなたの思いは きわめがたく、そのすべてを知ることはできない。
 あなたのはからいは限りなく、生涯わたしは その中に生きる。



                   *






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# by francesco1hen | 2018-06-24 16:59 | Comments(0)
2018年 06月 22日

宇宙のすべてのもの賛美を呼びかける「詩編148番」

     詩編148番「宇宙の賛美」

  ハレルヤ。天は神をたたえよ。
  天にあるすべてのもは神をたたえよ。
  神の使いは神をたたえよ。
  すべての力は神をたたえよ。
 
  太陽と月は神をたたえよ。
  きらめく星座は神をたたえよ。
  大空は神をたたえよ。
  雲は神をたたえよ。

  神のことばで造られた 天にあるすべてのものは、
  神の名をたたえよ。
  
  地にあるものは神をたたえよ。
  海と そこにすむものは神をたたえよ。

  稲妻と霰、雪と霜は神をたたえよ。
  吹きすさぶ風は神をたたえよ。

  山と丘は神をたたえよ。
  実を結ぶ木、すべての糸杉は神をたたえよ。
 
  野のけもの、すべての家畜は神をたたえよ。
  地をはうもの、翼のある鳥は神をたたえよ。

  地を治める王、すべての民は神をたたえよ。
  すべての支配者は神をたたえよ。
  若者と おとめたちは神をたたえよ。
  年老いた者も、子供たちも神をたたえよ。

  すべてのもは神の名をたたえよ。
  神は偉大。その栄光は天地をおおう。ハレルヤ!



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この詩編 148 番が非常に好きであったアシジの聖フランチェスコは、兄弟たちとよくこの詩編を朗誦しました。

そして、後に姉妹キアーラの修道院の庭で、病苦に耐えながら《 兄弟太陽の賛歌 》という賛歌をつくり、神によって造られたものたちを兄弟姉妹と呼んで、ともに神を讃えました。

《兄弟太陽の賛歌》に興味をもつ方は、このエキサイト・ブログの

「アシジの聖フランチェスコの《兄弟太陽の賛歌》」

を検索して、または 探してご覧ください。


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# by francesco1hen | 2018-06-22 18:57 | Comments(0)
2018年 06月 22日

《 画家モネの睡蓮 》 と《 大船フラワーセンターのスイレン 》

 [ 印象派の画家クロード・モネ(1840-1826)の睡蓮の絵 ]


モネは 1899年からスイレンを描いていますが、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に展覧されている最晩年の〈睡蓮〉の大装飾画にいたるまで、「睡蓮」を主題にした作品は約200点残されています。

表現されたのは、初めは睡蓮の池の広い風景や日本風の橋のある池の睡蓮の美しさでした。しかし、次第に睡蓮の浮いている水面に向けられていきます。そして、太陽の光によって、季節や時間とともに変化していく光の効果を捉えようとしました。

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ジヴェルニー「モネの庭」(マルモッタン公式HPより)


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箱根ポーラ美術館・所蔵




 [ 大船フラワーセンターの〈 スイレン 〉]



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                    *





    [ 詩編のことば ]


  神よ、あなたの慈しみは はかり知れない。
  あなたの翼のかげに人々は逃れ、
  あなたの家の豊かさに飽かされ、
  喜びの川から水を飲む。

  いのちの泉は あなたのもとにあり、
  あなたの光のうちに わたしたちは光を見る。

  あなたを知る者に 慈しみを、
  心の正しい人に豊かな恵みを注いでください。


        詩編 36・ 8-9. 10. 11.






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# by francesco1hen | 2018-06-22 14:23 | Comments(0)
2018年 06月 17日

中村さん家の「ノウゼンカズラの花」

ノウゼンカズラ(凌霄花) 学名 Campsis gradiflora

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中村さん家の門脇で〈 ノウゼンカズラの花 〉が満開です。 


落葉つる植物です。赤橙色の花を鑑賞するために、古くから栽培されています。
中国原産の蔓植物で 6・7月に咲き、夏の間つぎつぎに咲きます。         

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漢字で「凌霄花」と書きますが、珍しい名前ですね。









《 詩編のことば 》



神よ、あなたのわざは わたしを喜ばせ、     
あなたの造られたものを わたしはたたえる。

神よ、あなたのわざは偉大、       
その思いは はかり知れない。       

心の鈍い者にはわからず、        
愚か者には悟れない。          

神に従う人は なつめやしのように栄え、 
レバノン杉のようにそびえる。      

神の家に植えられた人は、         わたしたちの神の庭で栄える。      

年を経ても なお実を結び、        
いつも いきいきと おい茂る。      


(詩編 92・5-7. 13-15)


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註。なつめやし 高さが30メートルほどにもなる常緑樹。
        レバノン杉とともに、繁栄や勝利のシンボルとされています。  

        レバノン杉 「香柏」とも訳されています。          
        高さが30メートル近くにもなり、枝を大きく広げる美しい木です。




       




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# by francesco1hen | 2018-06-17 17:26 | Comments(0)
2018年 06月 16日

ミルテの花 「銀梅花」(マートル)




《 ミルテの花 》は「清純」という花言葉をもっています。  

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ミルテ(独)・銀梅花(和名)・マートル(通称)は、地中海沿岸地方原産で、明治時代に渡来しました。
常緑低木の花木です。梅花の白を銀色にたとえて「銀梅花」と名づけたらしいです。葉はハーブとして「マートル」と呼ばれ、羊肉(ラム・マトン)の香付けとして使われています。

                       *

《 ミルテの花 》(Myrthenblüthen)は、ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)が、1881年にウィーンナ・ワルツとして作曲しています。

オーストリア皇太子ルドルフとベルギー王女ステファニーの結婚式を祝う作品として作られたものです。
1881年5月8日、ウィーンのプラーター公園で催された国民祭で初演されました。当日は歓喜する20,000人の聴衆が集まりました。皇太子夫妻は、大群衆に遮られて演奏会場にたどり着くことができませんでした。

後日、弟のエドワルトが日を改めて、《 ミルテの花 》オーケストラ版と自らが作曲した《 ヴェールと冠 》を、皇太子夫妻の前で演奏したそうです。

その後もこのウィーンナ・ワルツは人気のワルツで、2018年のニュー・イヤー・コンサートで演奏されました。

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《 ミルテの花 》(Myrthen)は、R.シューマン(1810-1856)も 26曲からなる連作歌曲を作っています。

1840年9月12日結婚式の前日、シューマンは「愛する花嫁に」と書いた新しい歌曲集を、純潔の象徴である〈ミルテの花〉で飾って贈りました。


                        *


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    ミルテの花の学名は、  Myrtus communis   です。

   ミルテの花・銀梅花・マートルから、色々なことが分りました。


                        *


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       スイレンの花もキレイです。(大船フラワーセンターにて)




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# by francesco1hen | 2018-06-16 16:46 | Comments(0)
2018年 05月 29日

神の栄光のなかで輝くわたしたち 「神と一つになる」

[ 三は位一体の神 ] について

旧約聖書の時代に、天地の創造主「神ヤーウェ」は、「主」(アドナイ)と呼ばれていました。

 この神は、父性的な神として知られていましたが、神の子イエスが福音を宣べ伝える言葉のなかで、ヤーウェの本当の「名」を明らかにしました。「父と子と聖霊」(父と子と聖霊の交わり)が神の名です。《名》は、そのものの本質を表わすものといわれます。


「父と子と聖霊」の神は、のちに「三位一体の神」といわれるようになりました。

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初期キリスト教時代の「三位一体の神」

    (父の懐に抱かれた神の子キリストと聖霊を表象する鳩が描かれています)


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           北イタリアにあるアルベンガ洗礼堂に描かれた「三位一体の神」
   
       (三重のXpi=キリストは、三位一体の神を示し、鳩は十二使徒、周りは空の星)



 結論的にいえることは、神が「三位一体」であることを「信じる」ことはできるが、これを完全に「説明する」ことはできない、ということです。

 三位一体の神の「神秘」は人知の限界を超えることで、「信じる」ことによってのみ知ることができることです。




[ 晩餐の夜のふしぎな言葉 ]

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   レンブラント 「最後の晩餐」

    (彼の作品はこのエスキースのみで、完成作を遺していません)



最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちにつぎのことを話しました。

「わたしが父のうちにおり、あなた方がわたしのうちにおり、そして、わたしがあなた方のうちにいることを、その日、あなた方は悟であろう」(ヨハネ福音書 14・20)。

その日というのは、神の国に入った(神の命に入った)ときのことです。このイエスの言葉は、すぐには理解し難いことばです。


〈イスラーム〉という言葉があります。その意味は、アラーへの「帰依」と一般に知られていますが、その深い意味は「神アラーとモスレム(信者)の円融無障の一致」で、完全に一つに融け合っている状態をしめす言葉です。

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             モスクの天井のイメージは〈イスラーム〉のようです。


このように、人は神の国に入ったとき、父と子とすべての人々が、聖霊の交わりのなかで「完全に一つ」になっていることを悟るのです。


そして、その夜イエスは、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人をお愛しになり、わたしたちはその人のところに行き、ともにそこに住む」(ヨハネ 14・23)とまで語りました。




[ イエスはまことの〈ぶどうの木〉]

ヨハネによる福音書の15章は、心の温まる美しいことばのある箇所です。なかでもつぎの言葉は「こころ」に響いてきます。


「わたしはぶどうの木であり、あなた方はその枝である。人がわたしに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ。 ・・・・・ 

あなた方がわたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まることになる。わたしが父の掟を守って、その愛に留まっているのと同じである。わたしがこれらのことをあなた方に話したのは、わたしの喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満ち溢れるためである」(ヨハネ 15・5. 10-11)。


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      ローマ・サン・サンクリメンテ教会の「キリストはぶどうの木」




[ ゲッセマネの園で祈る ]

晩餐の夜、十字架の受難がせまるなかゲッセマネの園で、イエスは自分自身と弟子たち、および、イエスを信じる者たちのために、父である神に祈りました。この祈りのなかで、ヨハネによる福音書14章20節の「ことば」が、明らかになります。


「どうか、すべての者を一つにしてください。父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らのうちにおり、あなたがわたしのうちにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(ヨハネ 17・21-23)。


この父である神へのイエスの祈りは、わたしたちの大きな希望と喜びです。さらにつづく祈りは、それ以上に喜びを大きくするものです。


「父よ。わたしにくださった人々が、わたしのいる所に、ともにいるようにしてください。世界が造られる前から、あなたがわたしを愛して、お与えくださった、わたしの栄光を彼らに見せるためです。 ・・・・・

 わたしを愛してくださったあなたの愛が、彼らにあり、また、わたしも彼らのうちにいるようになるためです」(ヨハネ 17・24. 26.)。

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               ゲッセマネの園で祈るイエス (エル・グレコ)


わたしたちは信仰と愛によって、神の子イエスと「一つ」になり、父である神からも愛されます。わたしたちは、父と子と聖霊の交わりのなかで「一つの愛」となるからです。




[ 父と子と聖霊のみ名に入る ]

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                〈 円 〉にかぎりなく近い〈 八角形 〉


八角形は、限りなく円(完全)に近いかたちです。八角形は、円の「天」と四角の「地」の中間のかたちと言われます。

それは天の神の完全(神の国)に憧れる象徴として八角形の「鍾塔」になりました。また、父と子と聖霊のみ名に入る洗礼を受ける「洗礼聖堂」の形になりました。


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        八角形の「洗礼聖堂」 と 八角形の「鐘塔」 (ミラノの美しいロマネスク聖堂)



イエスは十字架の受難の「死」から、三日目に「復活」し、40日後に「昇天」しました。 地上から離れるとき、弟子たちに告げました。

「あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊のみ名に入る(沈める)洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい」(マタイ 28・19-20)。


「神の命」のなかに入る洗礼を受け、キリストを信じる者はすでに「永遠の命」を持っていることになります。そして、この世を終わって「神の命」に入るとき、


「わたしたちはみな、鏡のように主(神)の栄光を映し出しながら、主の霊(聖霊)によって栄光から栄光へと、主(神)と同じ姿に変えられていくのです」(コリント人への第二の手紙 3・18)と 使徒パウロは記しています。


  

 「神の命」に入るとき わたしたちは、神と「完全に一つ」になって、神の栄光のなかで輝くのです。




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# by francesco1hen | 2018-05-29 16:48 | Comments(0)
2018年 05月 12日

「神の目に貴く重んじられる人間」  ー 奥が深い聖書のことば ー

[ 神に創造された人間 ]

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 人の創造について、創世記はつぎのように述べています。「神はご自分にかたどって人を創造された。人を神にかたどって創造され、男と女とに創造された」(創 1・27)。「また、神である主は土に塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きるものとなった」(創 2・7)。

 神に似せて造られ「命の息」を吹き入れられた人間は「神の似像」( imago Dei )であり、神の本性に与りうる「霊」を持っている存在になりました。


 旧約聖書の中で、コヘレトは書いています。「神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた」(コヘレトの言葉 3・11)と。

 また、知恵の書は「命を愛される主よ、あなたはすべてのもをいとおしまれる。すべてはあなたのもの。実に、あなたの不滅の霊がすべてのものに及んでいる」(11・26 - 12・1)と記しています。


 この不滅の霊は、神と命を共にできる「永遠の命」です。




                 
           
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                      預言者イザヤ
[ 人は、神の目に貴く重んじられる ]

 神に造られた人間について、預言者イザヤは、その預言書43章 1- 8節で素晴らしい言葉を記しています。とくに4節と7節に注目したいと思います。

「お前はわたしの目に貴く、重んじられる」と「これらの者はみな、わたしの名をもって呼ばれる者。わたしがわたしの栄光のために創造し、形づくり、造りあげた者」は、神によって創造された者が神に愛される貴重な存在であることを示し、その存在が神の栄光の輝きとなるというのです。

 神に似せて創造され、「命の息」すなわち「不滅の霊」という命を与えられた人間は、神の愛の対象として「神の命」の中へと招かれています。


 知恵の書は、人が貴重な存在であることをつぎのように、「あなたは存在するものすべてを愛し、造られたものすべてを愛し、造られたものを何一つ忌み嫌われない。もし憎いものがあったとすれば、あなたはそれを形づくられなかったであろう。あなたが望まなければ、どうして存在し続けることができよう」と書いています(11・24-25)。

                    *


 しかし、原罪の不幸を引きずって苦しんでいる人間をあわれみ、父である神はこれを救おうとされたのです。キリスト・イエスはこのことを明らかにしています。

 「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3・16)という言葉です。



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救い主キリストの誕生(ジョット)       



[ 道であり、真理であり、命であるイエス ]


 イエスの福音の第一声は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。悔い改めとは、これまでの世俗の富を求める生き方を止め、最も大事な「神の国」を求めなさい、そのためには、「善い知らせ」を信じなさい、ということでした。

 福音という言葉は、イザヤ預言書の61章1-2節に出てきます。「貧しい人に善い知らせを告げ」がその言葉です。(ルカ 4・18-19で引用される)

 イエスの福音は、貧しい者、病に苦しむ人々、徴税人、罪深い女、サマリア人たち罪びとにされていたり、社会から排除されていた人たちに向けられていました。


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 この「小さくされていた」彼らも、神の目に貴く、愛されていた存在であり、イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マルコ 21・3 -17)と、彼らが心やすらぐ言葉を与えています。


 イエスがエルサレムに入り、受難が近づいていた頃、弟子たちに「人の子が来たのも、仕えられるためでなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ 10・44-45)と、イエス自身のことを述べています。

 最後の晩餐の時には、「新しい掟」を与えて、それを命じ、「受難の愛」(十字架)の救いに赴きました。


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ゲッセマネの園で祈るイエス



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イエスの逮捕 受難が始る


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ルーベンス作

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         十字架の救いのイエス・キリスト(エル・グレコ)



 十字架上の死のあと、三日目に復活して、40日後に昇天しました。キリストが昇天する時の弟子たちへの最後の言葉は、「あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。すなわち、父と子と聖霊のみ名に入る洗礼を彼らに授け、わたしがあなたたちに命じたことを、すべて守るように教えなさい」(マタイ 28・28-29)でした。


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                  キリストの昇天
  

 ここで「み名に入れる」の、み名は、名前で呼ばれる「神そのもの」を指し、三位一体の「神の命」に入ることを意味しています。

 イエスの福音宣教の第一声の「神の国を求めよ」ということは、「神の命」に入ることであったのです。

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                  キリストの洗礼 (ヴェロッキオ)



 神にかたどり神に似せて創造され、「命の息」を与えられた人間の本性は、人が「神と一つになる」ことのできる存在であることを示しています。


                   *



       だから「人は神の目に貴く、重んじられる」存在です。





 *




[ 東方キリスト教の十二祝祭 ]
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          受胎告知            キリストの降誕    
         イエスの神殿奉献        キリストの洗礼
         キリストの変容         ラザロの復活

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          エルサレム入城          十字架のキリスト
          死者の国に降るキリスト      キリストの昇天
          聖霊降臨(ペンテコステ)     マリアの眠り(被昇天)


                         *



 
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               パントクラトール(天地万物の支配者キリスト) 




                    *   *   *






 [ イザヤ書 43章 4節 ]   を検索すると、たくさんの項目が出てきます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉は有名で、注目されています。


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預言者イザヤ(ミケランジェロ)














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# by francesco1hen | 2018-05-12 22:43 | Comments(0)
2018年 04月 29日

緑が濃くなった新緑の新林公園 2018_04_28

4月11日に「新林公園初期新緑グラデーションの歓びと愉しみ」を投稿しました。
4月28日に、新林公園をふたたび訪れました。人々にとっても愉しい日でした。

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新林公園の正門からの並木のエントランス          


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  旧福原家長屋門の入口                      

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端正な長屋門のかや葺き屋根                  

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    今年の藤の花は早く咲き、白いフジの花が清楚に咲いていました。

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    この道の手前方向に古民家があります。

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    鯉のぼりが立てられる季節になりました。


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    緑濃い里山風の新林公園のメーン風景です。

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    二本の大きなメタセコイア(落羽松)。
    秋になり落葉のとき、落羽松という名が納得できます。


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    落羽松の下を通っているテレビに出てくるような「女剣士」

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    メタセコイアの下で、ゆったりとした時間を過ごす二人
    よい休日でした。


                    *



           人々も喜ぶ、緑濃い新林公園の風景でした。








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# by francesco1hen | 2018-04-29 22:11 | Comments(0)
2018年 04月 25日

京都 大原 寂光院 ー 平家物語ゆかりの ー

京都 大原 寂光院


     聖徳太子用明天皇間人皇后菩提之為開創
     高倉天皇国母建礼門院徳子皇后 閑居御所
                    大原西陵
     平家物語 灌頂之巻 大原御幸 諸行無常之寺



院の初代は、聖徳太子の御乳母人であった玉照姫(548年に出家)。以来、代々高貴の家門の姫君が法灯を守り続けてきました。

第二代の阿波内侍(藤原信西の息女)は、崇徳天皇の寵愛を受けた女官でしたが、建礼門院には宮中より仕えていました。出家後に入寺し「大原女」のモデルとされています。

第三代の建礼門院徳子(平清盛の息女、高倉天皇の中宮で安徳天皇の国母)は、文治元年(1185) 九月に入寺。源平の戦いに敗れ、壇ノ浦で滅亡した平家一門とわが子安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過ごし閑居御所としていました。


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                                     photo チカリ

    寂光院の受付から山門にいたる美しい石組みの階段




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                                    photo チカリ



山門を入って本堂前北側の庭園は、回遊式四方正面の池で、林泉・木立・清浄の池として表現されています。正面奥の石清水を引いた三段の滝は、玉だれの泉といわれ、一段一段高さと角度が異なり、三つの滝がそれぞれ異なる音色が一つになって合奏するように作庭されています。

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                                     photo チカリ

有名な「四方正面の池」を見てから寂光院本堂へ向かいます。

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                               photo チカリ
    
山門から眺める清楚な寂光院本堂




本堂左手の奥に、「建礼門院御庵室跡」がひっそりと佇んでいました。こんな処が隠棲の地であったのかと感慨に耽りました。


               寂光院御詠歌 二首


 池水に汀の桜散りしきて 浪の花こそさかりなりけれ    (後白河法皇)

 思いきやみ山のおくに住居して 雲井の月をよそに見むとは  (建礼門院)




平家物語の冒頭の言葉

        祇園精舎の鐘の声 諸業無常の響きあり。

        沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕わす。



大原の寂光院は、『平家物語』とは切り離せないところです。


『平家物語』は、1220年以前、鎌倉時代の軍記物語の傑作中の傑作です。作者は、信濃前司行長が有力とされています。原作は3巻ともいわれ、平曲として琵琶法師に語られていく間に12巻に成長したようです。

古代社会から武家社会への変革期に、新しい時代を作り上げる平清盛・源義経らの英雄的行動と、没落していく平氏・貴族的なものへの哀傷とを、生き生きと描いた軍記物語の代表的作品です。


                            *


  『平家物語』の巻末を飾る「大原御幸」のくだりは、深い感銘をうけます。

清盛の娘建礼門院は、白河法皇の息子高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生みました。そして、平家の栄枯盛衰のすべてを体現する女性でした。かたや法皇は、源平の争乱をすべて演出した人物です。

「大原御幸」は、この二人が出会い、互いに過去を回想し、涙に暮れるのが描かれています。しかし、現実に白河法皇が「大原御幸」を行なったかは疑わしいようです。

そもそも「灌頂の巻」は、『平家物語』の本編が成立して100年ほど後に付け加えられ、『平家物語』全体をつらぬく諸行無常の精神を一巻にまとめた性格を持っています。

それゆえに、この二人の登場人物は、わたくしたちに深い感銘を与えるのでしょう。




                           *




                   現代でも、すべてのもは「無常」です。

                「無常でないもの」は、何処にあるのでしょうか?







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# by francesco1hen | 2018-04-25 10:47 | Comments(0)
2018年 04月 20日

大原 三千院の 国宝「往生極楽院」と「わらべ地蔵たち」

「往生極楽院」は、三千院の源となった寺院です。

寺伝によると、寛和二年(986)に『往生要集』の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が、父母の菩提のため姉の安養尼とともに建立したと伝えれています。

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   極楽院堂内の堂々たる金色の「阿弥陀三尊像」は国宝です。

中尊の阿弥陀如は来迎印を結び、右の観音菩薩は往生者を蓮台に載せる姿で、左の勢至菩薩は合掌しています。


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この船底型天井は、堂内に比べて大きい「阿弥陀三尊像」を納める工夫として天井を船底型に折り上げています。現在は肉眼ではわかり難いものの、その天井には極楽浄土に舞う天女や諸菩薩が極彩色で描かれています(写真は復元模写されたものです。円融蔵展示室)。

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朱雀門                          


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                     *




[ 往生極楽院の 微笑ましい「わらべ地蔵たち」]


極楽院には、意外な地蔵たちがいました。恋に疲れた女も癒されるのでしょうか?

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   なんとも微笑ましい「わらべ地蔵たち」でした。



  京都 大原 三千院 は、若葉がことさらに美しく、心やすらぐ処でした。



                       *



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                  京都の里山 大原                      











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# by francesco1hen | 2018-04-20 16:25 | Comments(0)
2018年 04月 20日

京都 大原 三千院

大原は、京都の里山です。大原女はいませんけれど、美しい里山です。

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永六輔の「 〜 京都大原三千院 〜 恋に疲れた女が、ひとり 〜 。」という歌が浮かびます。 それとは別に、三千院の門は立派です。


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    総門の内側です。




[ 本堂客殿の前庭の「聚碧園」(しゅうへきえん)]


これは、江戸時代の茶人・金森宗和が修築した池泉鑑賞式庭園と伝えれています。


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客殿では、抹茶を飲むことができます。          

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    客殿の裏側から



[ 本堂 宸殿から眺める 「有清園」]


宸殿(しんでん)は、後白河法皇により始められた声明による法要を今に伝える道場です。この宸殿から極楽院を眺める有清園は、中国六朝時代の詩人、謝霊運の「山水清音有」より命名された池泉回遊式庭園です。

杉木立の中、苔の大海原と紅葉が有名です。今は、もみじの新緑がキレイです。

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  奥の方に見えるのが往生極楽院です。よく気をつけると、遠くに池が見えます。                    

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有清園の美しさをあとに、国宝「往生極楽院」に向かいます。






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# by francesco1hen | 2018-04-20 14:55 | Comments(0)
2018年 04月 11日

新林公園の初期新緑グラデーションの歓びと愉しみ  ( '18. 4. 10. )

藤沢市には、新林公園という都市のすぐそばに里山風の公園があります。場所によっては深山幽谷を思わせるような所もあります。四季をつうじて味わいのある公園です。
今からの新緑が素晴らしいので、ご紹介におよびました。

    ご覧くだされば、その良さは分って頂けると思います。

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平地の所はおおよそ廻ってきました。4月下旬になれば、藤棚の藤が満開になります。そのころは、樹木の緑もいっそう鮮やかになり、また、愉しです。




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# by francesco1hen | 2018-04-11 17:44 | Comments(0)
2018年 04月 07日

鎌倉 本覚寺の枝垂れ桜 と 妙本寺の満開の桜花



東身延と呼ばれている本覚寺は、遠い身延山参詣が困難な人々のために、身延山から日蓮上人の遺骨を分骨してこの寺に移したことで、東身延と言われるようになったそうです。 この本覚寺も鎌倉の桜の名所となっています。

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    本堂横の枝垂れ桜 松の緑とよく調和しています。

    それにしても立派な本堂の姿です。


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    見事な枝垂れ桜です。


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日蓮上人鎌倉開山の妙本寺

日蓮(1222-82)は、題目の「南妙法蓮華経」を唱えると、「草木国土悉皆成仏」すると言いました。題目を唱えると、草木や国土、すなわち、すべてのものが仏になることができる、と教え関東の武士層や商工業者の間に広まっていきました。

妙本寺も桜の名所として有名です。

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最近流行のカメラ女史が意欲満々「妙本寺の桜花」の撮影にきています。


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     立派な中門です。まさに立派です。


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    立派な中門を潜って見ると、これまた満開の桜です。





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妙本寺の本堂は、さらに立派さを感じさせる寺院建築でした。
日蓮上人鎌倉開山による寺院の荘厳さがあります。


本堂左手に ハナカイドウ がありました。

土地の老カメラマンは、「カイドウ」と言っていました。海堂この堂ではなく、土 のところが 木 という字です。MacBook では、この字が出て来ないのです。


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   この日の数日後には、満開になったと思います。
       (撮影 '18.3.26.)



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        妙本寺にも美しい 枝垂れ桜 がありました。




                          ***




鎌倉時代中期、浄土教の流れのなからでた捨聖一遍(1239-89)は、南無阿弥陀仏の念仏札を配り歩きながら、全国を遊行しました。その間、踊り念仏を行ない人々に阿弥陀仏の救いの喜びをもたらしました。一遍のつぎの言葉から日蓮の「草木国土悉皆成仏」に近い思想がうかがえます。

「生きとし生けるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願いに与るにあらず」

このように書き記した一遍にとって、森羅万象までも念仏を唱えて成仏するのであったのです。人だけが世を超える阿弥陀仏の救いに与るだけではない、すべてのものが仏の救いに与るのである、と考えていたのでした。


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# by francesco1hen | 2018-04-07 22:00 | Comments(0)
2018年 01月 08日

伊豆スカイラインから 〈 伊豆半島 城が崎 と 高室山国立公園 〉 へ  2018_1_4 - 5.

箱根から伊豆スカイラインで城が崎に向かいました。途中で熱海の街を見ながら、真鶴半島を遠くに見て進みました。


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    熱海の街が見えます

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真鶴半島です                         

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     伊豆大島が見えてきました


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    城が崎の門脇吊り橋です。多くの人が渡っています。

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城ヶ崎海岸は、伊豆半島中央に聳える標高580mの休火山〈 大室山 〉が、かつて大噴火したときに、流れ出た溶岩流によってできた海岸であるといわれています。


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辺りを見渡すと、奇景というような風景に出合います。奇岩に直立している釣り人がいました。


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     海風に鍛えられたような樹林が美しく輝いていました。


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     振り返れば、この美しい景色です。


                      *



〈 城ヶ崎海岸 〉から〈 大室山 〉に近い〈 高室山国立公園 〉に向かいました。

ここには、高室山温泉パノラマ・ホテルがあり、その回りには、伊豆ホース・カントリーがあり、数多くの馬が飼われていて乗馬も出来る施設になっています。

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小高い丘のような高室山国立公園は、まさにパノラマ的な風景が広がっています。


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茶色の山が〈 大室山 〉です。毎年初春には山焼きが行なわれ、全国的に有名です。
その後のみどりの山が本来の〈 大室山の美しい姿 〉です。


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   この馬の鬣(たてがみ)は、まさに〈たてがみ〉です。食欲おう盛な馬です。
   平和な一時ですね〜。 (^_~)//。



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                       ***





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# by francesco1hen | 2018-01-08 16:01 | Comments(0)
2018年 01月 08日

「箱根大湧谷写真集」2018_1_4

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大湧谷は、箱根連山の最高峰の「神山」(1438m)の火口爆裂跡の草木のない荒涼とした大地には煙が立ち込め、あたり一面には硫黄臭が漂っています。

江戸時代までは地獄谷と恐れられていましたが、その独特の景観から今では箱根屈指の観光スポットになっています。奇観を目の前にダイナミックな自然の鼓動をじかに感ずることができる場所です。

しかし駐車場におりると、わたくしたちの目をうばうのは、大湧谷から見る「雄大な秀峰 富士山 」のすがたです。


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裾野の左の方には、まっ白に冠雪した南アルプスが見えるのがまた印象的でした。


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箱根ロープウエイで大湧谷駅にくるのは、強羅駅から草雲山駅をへて10数分で着きます。さて〈 大湧谷の景観 〉は、これから展開されてきます。



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            *




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駐車場に戻っても、〈雄大な富士山〉の姿は、格別で美しくわたくしたちを感動させます。

       やはり歌われるように「冨士は日本一の山」ですね!



                         *







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# by francesco1hen | 2018-01-08 14:33 | Comments(0)
2017年 12月 21日

良寛禅師・明恵上人・一遍上人と聖フランチェスコ

この三人の僧と聖フランチェスコは、いろいろな点で似たところがあります。


(1)良寛とフランチェスコ

アシジの聖フランチェスコ(1181/2 -1226)は、鎌倉時代初期にあたる13世紀の人です。良寛禅師(1757 -1831)は、江戸時代後期の人です。それにもかかわらず、わが国でアシジの聖フランチェスコがよく知られるようになってから、この「清貧の聖人」と良寛禅師「鞠つき良寛」が似ているという人が何人かいました。

その一人が北川省一です。その著『 良寛・その大愚の生涯 』(1980)では、鳥が群がり遊ぶのを飽かず眺める良寛と、ヒバリに餌を与える聖フランチェスコの姿が2頁にわたって指摘されています。

フランチェスコと良寛とはその高貴さ、宗教的な脱俗の姿によって、また、その純真な自然との関係によってなど、幅ひろい面で比較される可能性がありました。


面白い話があります。良寛の乙子神社草庵の時代のことです。解良栄重の『良寛禅師奇話』に出てくる話です。「盗人あり、国上の草庵に入る。一物の盗み去るべきものなし。密かに師の臥じゅく(ふとん)をひきて奪わんとす。師寝て知らざるものの如くし、自ら身を転じてなすがままにまかしたりきといふ。」と書かれています。

その上、良寛はつぎの句をのこしています。

        盗人(ぬすっと)に 取りのこされし 窓の月


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              良寛禅師




聖フランチェスコにはこんな話があります。

あるとき見るからに貧しい乞食に出会って物を乞われたとき、貧しい彼は自らの衣服を全部与えて、自分は裸のようになり寒さに震えていました。貧しい者をみて同情し、なんとかしなければと、すぐさま行動に移す愚かしさともいえることをする人でした。


このように良寛とフランチェスコは、対比することができる人物でした。

この二人を対比しながら、仏教とキリスト教の関係を論じている珍しい本があります。石上・イアルゴニッツアー・美智子(フランス国立科学研究所員)の『 良寛と聖フランチェスコ 菩薩道と十字架の道 』(1998) です。




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             聖フランチェスコ




(2)聖フランチェスコと明恵上人


聖フランチェスコと明恵上人(1173 -1232)とは同時代の人物であるといえます。この二人にも共通するところがあります。フランチェスコは、《小鳥への説教》と《兄弟太陽の賛歌》などで有名です。しかも、キリストの教えに忠実であったことでもよく知られています。

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     小鳥に説教し、「兄弟太陽の賛歌」を書き歌ったフランチェスコ




「明恵上人樹上座禅像」(惠日房成忍画)

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この明恵上人像には、奥深く続く松林に白雲がたなびき、小鳥が啼き飛かい、リスが明恵をうかがい、藤花が咲く、小枝に掛けた香炉からは、ゆっくりと煙がたちのぼっています。                                  

ここで明恵は静かに座禅に入観しています。樹木や岩や石と話をしているようすも窺えます。幼いころから父母を慕っていた明恵は、小動物を見ては父母の生れ変わりかもしれないと思い、子犬に愛情を注ぎ、寸大の子犬の木彫りを座右に置き愛玩しました。                                    
また、拾ってきた小石にもことばを掛けるほどした。身近かな周囲のものにも慈愛の眼を向け話しかけていました。                        

 
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聖フランチェスコと明恵上人の比較を論じた書物に、河合隼雄とヨゼフ・ピタウ『 聖地アシジの対話 ー 聖フランチェスコと明恵上人 』(2005) があります。   

この書では、ともに共通点と相違点を述べながら、前者はキリスト教と仏教の接近を指摘し、後者はフランチェスコが自然と平和を愛すること、そして、その背景にある神秘の世界を大切にする点で日本人と共有するところが多いとして、今日の平和にいたるまでの広い範囲にわたって比較の対話を展開しています。                    




(3)聖フランチェスコと一遍上人

「捨聖」一遍 (1239 -1289)は鎌倉中期の人。「清貧の聖人」フランチェスコは、それより50年ほど前の人物。しかし、この二人はよく似たところがあります。世俗捨離と清貧・無所有に徹したこと。さらに、ともに自己放棄による神仏への絶対帰依と一体化を求めました。

一遍とその同行(どうぎょう)は 「南無阿弥陀仏」の念仏札を配り歩く遊行(ゆぎょう)を行ない、その範囲は国中津津浦々におよんでいます。

フランチェスコとその兄弟たちも、「平和の挨拶」を人々にとどけながら、福音を宣教しながら旅をつづけました。

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        最後の最後まで、福音宣教の旅をつづけた聖フランチェスコ



フランチェスコが「兄弟太陽の賛歌」で歌って、すべての被造物とともに神を讃えたのと同じように、一遍もそのような考えを持っていました。

一遍が書き送った『興願僧都への消息文』のつぎの一節が、そのことをよく伝えています。

「よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預かるにあらず。・・・・・ 」
(念仏を称えるところには、すべての生きとし生けるもの、さらに山河草木も、吹く風や立つ浪の音さえも、念仏を称えている。人だけが阿弥陀仏の救いを受けるわけではないのです。すべてのものが成仏するのです。)


「和歌法語」より選べば、

 「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」
       (六字名号があるのみで、称えているものと仏は一体になっている =「仏我一如 」)

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     念仏賦算と遊行に明け暮れた一遍のすがた


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ちなみに、一遍のこの考えに近いのが、同時代の日蓮 (1222 -1282)です。日蓮が勧めた題目(念仏)「南妙法蓮華経」を唱えると、「草木国土悉皆成仏」(草木や国土まで皆ことごとく成仏する)が現世する。宇宙の究極の真理を意味する題目を唱えれば、真理に帰入すことによって仏となることが出来る、という意味です。



                       *



聖フランチェスコと一遍上人の比較については、

高野 修『 一遍聖とアシジの聖フランシスコ 』(2009)
家田足穂『「捨てる」という霊性 ー 聖フランチェスコと一遍上人 』(2010) 




                      ***       



聖フランチェスコと明恵上人・一遍上人・良寛禅師は、師と仰いだものに従って生きた人です。

フランチェスコは、救い主キリスト・イエスの福音の教えに文字通りに従って、キリストを模範として生きました(キリスト模倣 = 第二のキリスト)。        


明恵上人は、釈迦を深く慕い憧れて、心の中にあるものは釈迦でけであったと言われています。そして、三蔵法師のように釈迦の遺跡を訪ねようと計画を立て、二度も試みましたが、諸般の事情がこれを許さず、これを実現することができませんでした。



一遍上人は、釈尊の足跡をしたってこれに学び、生涯のあいだ釈尊とともに歩きたいと、遊行しつつ念仏賦算の旅をしました。その賦算は、野捨ての遺骸にも念仏札を置き、彼らの成仏を願い、それのみでなく賦算は、獣畜魚類にまでおよんだと言われています。                                  



良寛禅師は、師と仰いだ道元の『正法眼蔵』に学んで「布施」、「利他」、「愛語」(やさしい言葉をかける)、「同亊」(自他一如)を実践しました。とくに「愛語」には力を入れていました。これらは、原始教典(釈迦の教え)に忠実であった道元の教えでした。                                




 
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# by francesco1hen | 2017-12-21 15:49 | Comments(0)