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2011年 05月 13日

賛美する喜びと救われた歓び                       「捨てる」という霊性について(12)

賛美する喜び!「永遠の命」

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《 フランチェスコの死 》 
十字架から降ろされたキリストのように、死後地面に寝かせてくれるように頼んだフランチェスコの死の姿。


フランチェスコにとって「他のあらゆること以上に」大切なことは、神の国と神のみ旨を行う生活を求めることでした。神のみ旨はイエスの生涯に現れています。イエスの福音が優先して告げられた人々は、社会から軽蔑され、排除されていた貧しい人、病気の人、徴税人、罪深い女、サマリア人などでした。だから、フランチェスコは、キリストが福音で示されたことを、だれにでも差別することなく説教して最後まで止むことがありませんでした。

己を捨て、キリストに従ったフランチェスコがついに「聖痕」を受けたとき、外には隠された喜びでしたが、キリストと一致できたという喜びの頂点に達したものと思われます。精神的苦悩と肉体的病苦に悩まされている時期でも、フランチェスコは、被造物が全体がこぞって創造主である神に賛美と感謝を捧げる『兄弟太陽の賛歌』を、歓びのうちに歌うことができました。そして自然・宇宙が一体となって神を賛美する喜びを味わっていたに違いありません。

キリストが十字架から降ろされたときのように大地に身体を横たえたときも、彼は魂を神にゆだね、
「いっさいを捨てる者の幸福」(マタイ19・27−30)、神の栄光の中にいる「永遠の命」の喜びに浸っていました。「回心」すなわち価値観の転換によって生活した人の生涯はこのようなものであったのです。



救われた歓び!「無量寿」

捨聖一遍の「回心」(えしん)は、世俗にある一切の物とそれに対する執着の捨離、さらには自我をも完全に捨て、最後は「書籍経巻の焼却」によって残る物はただ一つ「南無阿弥陀仏」、仏と衆生が二つではなく一つに融け合っている世界でした。

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阿弥陀仏と一体となる 成仏


熊野成道以来始まった念仏勧進の遊行の中で、一遍は人間だけではなく森羅万象が共に念仏を唱えている世界を見出していました。念仏を勧めることに生涯をかけていた一遍は、すべての人々とともに
歓喜踊躍(かんぎゆやく)のうちに念仏宇宙に遊ぶ念仏を唱えることができたのです。

自力・我執を捨て、へりくだった者の目にはこのような念仏世界が見えていたのです。辛酸舐め尽くすような遊行の苦しみの中にあっても、一遍や時衆たちは救われた歓びを隠すことはできなかったのです。同行時衆たちの「踊り念仏」とそれに加わった町の人々や里の人々は、共に成仏(極楽往生)
を保証されて救いの歓びに浸ることができたのです。

フランチェスコと一遍のこの世における願いは、すべての被造物全体、森羅万象が神や仏を讃え、差別なく救われる幸福を現世においても、来世においても得ることでした。そのために「平和の挨拶」
と福音を伝え、また「南無阿弥陀仏」の念仏勧進によって救われた歓びを確実にしようとしたのでした。


余分なものを捨て、信頼し任せる境地こそ、究極の幸福・歓び、「永遠の命」と「無量寿」への道なのです。




《シャローム・平安!》《シャンティ・寂静・平和!》《ナマステ・南無!》



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「えのしま道」道標  「二世安楽」の字が見えます。 (二世とは、来世のこと)






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by francesco1hen | 2011-05-13 15:12 | Comments(0)


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