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2011年 05月 17日

「大切なもの」は何でしょうか 「捨てる」という霊性について(14)

すべてに勝る価値とは


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フランチェスコとその兄弟たちが、出合うすべての人びとに「神の平和があなたたちの上にありますように」と伝えた挨拶の「平和」は、現代の世界で最も広く強く求められています。平和を実現するためには、人間の諸権利が認められる正義が必須の条件です。しかし、正義だけでは現実の諸問題は解決されません。何時の時代もそうですが、必ず存在する「政治的・社会的弱者」に対する配慮がないところに「平和」は実現されません。

正義と平和が深くかかわっているように、「平和」と「命」は深い結びつきをもっています。生命の本来のあり方は幸福に生きることです。すべてのものが幸福を願っていることは、言い換えれば、平穏無事、平和に生きることと同じです。

欠けたところのない状態の「平和」は、人間に与えられている諸権利が保証され、支配による不自由や抑圧、貧困や欠乏からの解放によって幸福に生きることです。そのためには、必要とされるものが
最低限において満たされなければなりません。完全に満たされている状態が「平和」です。フランチェスコや一遍たちは、まず、このようなことに心を注いでいました。


さらに「平和の挨拶」の深い意味は、この欠けたところがない状態をいう「完全に満たされた命」、
すなわち、「神の平和」を人びとに知らせることでした。神の国における「永遠の命」を、完全な善である父なる神のうちに見いだすことでした。「神と一つになる」神の愛における至福こそ、「平和の挨拶」の究極の目標でした。「神の平和」とは、このような世界をいうのです。


また、一遍たちが諸国遊行の旅で勧めた念仏「南無阿弥陀仏」は、欠けたとこのない「完全円満」の
阿弥陀仏との融合一体、つまり極楽浄土での往生・成仏を確信させるものでした。念仏によって救われた「無量寿」の魂は、大いなる生命のうちにある「絶対の安らぎ(ニルウ゛ァーナ=涅槃・寂静)」の世界にあるのでした。

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フランチェスコにおいても一遍においても、一切のものを捨てた「回心」の中で究極に求めたものは
すべてのものに勝る価値あるもの、神の国における「永遠の命」であり、極楽浄土における成仏、「
無量寿」であったのです。

フランチェスコの「平和の挨拶」を受けた人びとは、彼が語り勧める福音の言葉を信じ、喜びにあふれながら「永遠の命」に憧れを抱いていました。また、一遍ら時衆の踊り念仏の中で救われたものの歓喜を体で現わし、念仏札を手にして念仏を唱えた人びとは、阿弥陀仏と一つになる成仏を信じ、安心のうちに生きる歓びを実感したのです。


生きることのさまざまな選択肢に恵まれず、欲求や欲望の選択肢の乏しかった時代の人びとは、幸いにも最高の価値を求めやすかったかもしれません。



                     *



《シャローム・平安!》《シャンティ・平和!》《ニルルウ゛ァーナ・絶対の安らぎ!》





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by francesco1hen | 2011-05-17 17:50 | Comments(0)


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