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家田足穂のエキサイト・ブログ

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2012年 03月 08日

[ 2 ]   茶道「和・敬・清・寂」と キリシタン

(1)黄金の茶室と草庵風の茶室

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豊臣秀吉は、大阪に五重六階地下二階の豪壮で堅固な大阪城を築いたことでも有名です。図版は、「大阪夏の陣図屏風」に描かれた豊臣大阪城天守です。


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この秀吉と千利休は天下の名器を集めて京都・北野神社の境内と松原でひらいた大規模な「北野大茶湯」(おおちゃのゆ)を主宰しました。秀吉自身は神社拝殿内にしつらえた名物道具飾りの三つの座敷の中央に自慢の黄金の茶室を設け、黄金に包まれた神のごとき位置に自らをおきました。茶道具まで黄金で造られたこの黄金の茶室は、当時の人々を驚嘆させました。

しかし、それは豪華でも黄金に閉ざされた小さな茶室に過ぎませんでした。


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これに反して、秀吉とともに大茶会を主宰した利休は、一方ではこれと全く趣を異にた草庵風の茶室を創意することによって「侘び茶」を大成しました。利休の茶室で現存する唯一の妙喜庵待庵は、二畳敷という最小の茶室ながら数々の数奇(すき)が凝(こ)らされていました。

この数寄屋風の小間は宇宙自然の縮小としての茶室、たとえ小さな草庵であっても、そこでは宇宙自然への広がりが象徴されていました。数寄が凝らされたその茶室は、閉ざされた黄金の茶室とは比較できないほどの宏大な世界でした。


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(2) 和・敬・清・寂 と ミサの聖体拝領

茶の湯の精神をもっともよく表している言葉は、「和」「敬」「清」「寂」です。
「和」は「禾」と「口」の字から出来ており、食べるという意味をもっています。つまり、飲食を共にすることによるお互いの親密感の広がり、愛と喜びと平和を表わす文字です。

茶道における「点茶と喫茶」(お茶を立て、お茶を飲む)は、薄茶と濃茶の二種類がありますが濃茶が正式の茶です。濃茶は、客の人数分の茶を茶碗に入れ、湯を注いで茶を練り上げて湯を加えます。その一椀の茶を上客から順番に飲み回す作法のことです。

濃茶の回し飲みというのは不思議な作法とされています。一つの茶碗でまわし飲む習慣のない日本人にとって、他人が口を付けた器から飲むということは抵抗感がのある飲み方です。古くから日本人は口を付けた器に対して潔癖でした。碗を手で持つとき、その手が碗の縁にかからないように持ち、碗や丼の内側に親指をかけることはまことに無作法、ということになっています。唇を直接つけるもの、茶碗、箸、湯呑みなどは共用しないで個人用のものを使います。親子兄弟といえども共にしないという区別の領域が唇です。

これを逆の立場からいうと、他人ではなく親密な関係に入る儀礼では、唇の領域を共にすることがさまざまな形でおこなわれています。夫婦のちぎりを結ぶ結婚式で行われる三三九度はこのカテゴリーに当たる行為です。同じ器から同じものをまわし飲む儀礼は洋の東西を問わず、古代から契約や固い盟約をむすぶ時には共同飲食が行われました。

共同で飲み共同でものを食べるということは、人と人を親密に結びつけ、平和な状態をつくり出す大切な儀礼として行われてきました。茶の湯における濃茶と懐石料理は、まさに共同飲食の儀礼をもっとも高度に洗練させた「文化のかたち」であると言えます。


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「南蛮屏風」に描かれた南蛮寺の一室で、南蛮人と日本人が茶を服し、語り合って茶の湯を行なっています。












カトリック教会のミサのなかで行われる聖体拝領は、まさに共同飲食として行われるのです。ミサという礼拝は、師イエスと12人の弟子の共同の食事である〈最後の晩餐〉と〈十字架上の犠牲〉をミサのなかで典礼的に再現することが中心になっています。聖体拝領は、十字架上で父である神に捧げられたキリストの体、聖体(ホスチア=犠牲)と聖血(おんち)を会衆である信徒が共同飲食することになるのです。
このさい聖体は一つのチボリュウム(聖体を入れておく器)から食べ、聖血は一つのカリス(杯)から回し飲みするのが原則です。

ミサにおける聖体拝領は、食べて飲むというその具体的な行為で〈キリストと一致する〉ことであり、聖体拝領する会衆は、キリストに結ばれることですべての信徒が〈一つに結ばれ〉、キリストの神秘体である教会を意識します。このキリストと一致する聖体拝領は、ラテン語でコムニオ(communio・一致の意味)と呼ばれています。〈神であるキリストと一つになる〉ことは、神の平和のなかにいることです。

このことを見ると、茶道とミサにおける食べて飲むという行為のうちには、互いに相通じるものがあり、それは異なる文化の出合いというなかの共通項の発見ということにもなると思います。

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鎌倉東慶寺に所蔵されている「キリシタンの聖体器(チボリュウム)」 IHS はイエスを象徴する記号です。




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by francesco1hen | 2012-03-08 15:18


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