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家田足穂のエキサイト・ブログ

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2018年 07月 30日

「奥の細道」「露地口と露地」「狭い門と細い道」? 

〔1〕風雅の誠(まこと)を求める『奥の細道』

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 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」の序文で始る『奥の細道』の旅は、西行500回忌1689年(元禄2)松尾芭蕉と門人河合曾良が江戸を発って、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江までの600里(2400Km)の旅でした。  
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 「みちのく」という辺境の地への旅で、芭蕉は多くの自然の美しさに出合い俳諧の真髄を求めました。
 この旅で芭蕉は、「不易流行」ということを深く知るようになったのです。

 「不易」とは、宇宙・大自然は変化「流行」しながらも、それを超越して不変である、ということです。
「流行」は、宇宙・大自然が、その時々に応じて変化していく有様をいいます。

 しかし、「不易」と「流行」は、対立するものではなく、大自然はたえず変化
(流行)しながらも不変(不易)であると、考える自然観であるといえます。

 俳諧では、真に「流行」を得れば自ずから「不易」を生じ、また、真に「不易」に徹すれば、そのまま
「流行」を生ずる、といわれています。



 芭蕉は、「奥の細道」の旅で「風雅の誠」を求めています。

 「風雅の誠」とは自我意識を捨て大自然と一体になった「永遠不変の境地」のことをいいます。

 それは「不易流行」の根底にあって、それを生み出すものです。
 そして、「風雅の誠」は、蕉風俳諧の根本理念になっています。


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ところで平家物語では、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と「無常」と「常なるもの」は別のものです。しかし、芭蕉では「諸行無常」は「流行」です。無常でない「常なるもの」は「不易」です。

 俳諧においては「不易」と「流行」の根本は一つであり、芭蕉はそれを「風雅の誠」と呼んでいます。


古来わが国では、「大自然 = 神々」という考え方があります。これが芭蕉においては、大自然と一体になった「永遠不変の境地」(風雅の誠)となっています。これは俳諧に生きる者が求める「究極の境地」です。


 それはまた「大自然 = 神々と一体になった」という、心の深奥の願いであったといえるではないでしょう  か。


    


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〔2〕露地口 と 露地から 茶室の「和・敬・清・寂」
                             

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 「露地」という細い道を通って、「にじり口」という狭い戸口から入る「茶室」とは、どのような処でしょうか。

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 千利休の茶室で現存する唯一の妙喜庵待庵は、二畳敷という最小の茶室です。この小さな茶室空間は、数寄が凝らされて複雑になっていますが、この数寄屋風の小間は「宇宙自然の縮小としての茶室」です。たとえ小さな草庵であっても、そこでは宇宙自然の広がりが象徴されています。

 
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 茶道の祖村田珠光が、足利義政に茶道の精神をたずねられ「和・敬・清・寂」と答えた、四文字の意味を体現し、実践ることが茶道の本分とされています。

 千家では、利休が定めたこの四文字を「四規」として重要視しています。


 「和」の字は、禾と口で出来ています。その「和」は、戦争をやめ平和の状態にする講和の意味です。禾(食 物)を口にすると、人は和やかになります。茶室の主人と客が互いに心を和らげ、謹み敬い茶亊を行ないま  す。

 「敬」が重んじられるのは、互いを敬うことがあってこそ、「賓主互感」のよい茶会が成り立つからです。

 「清」も大切で、茶室や道具は清潔であることが求められます。それだけではなく、茶席に招かれる人は俗事  にまみれた人でなく、清い心の人でなければなりません。

 「寂」は、茶室が脱俗した静寂な場所を理想としていることを示しています。


 しかも「和敬清寂」は、茶亊と人のありかた全体が、これに貫かれていなければならない大切なことです。

 さらに言葉を重ねるならば、必要とされるものがすべて清さの中で整い、和やかで謙虚な気持ちで静寂のうち に、大切な時を楽しむのが、「和・敬・清・寂」の茶室空間です。


   それは、つぎの言葉でも表わされています。


「賓主互感」親密な交わり。     「一期一会」大切な出合い。
「一座建立」同席する人々の一体感。 「余情残心」いつまでも消滅しない充実感。



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          「和敬清寂」の「和」と「寂」に関連して考えてみます。


 釈迦の悟りの境地を「涅槃寂静」といいます。「涅槃」のサンスクリット語〈ニルヴァーナ〉の現代語訳は、「絶対の安らぎ」です。「寂静」〈シャンディー〉の現代語訳は「平和」です。

 茶道の「和」と「寂」は、「涅槃寂静」=「絶対の安らぎ」と「平和」に通じるものがあります。

 茶道の究極の境地は、善いもので満たされた人間の「平和・平穏」の世界ではないでしょうか。それは茶道という「場」での、精神的に深い 心の在り方 です。



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〔3〕永遠の命を求める「狭い門 と 細い道」 ー 道・真理・命 ー

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  「わたし(イエス)は門である」。そして「わたしは善い羊飼いである。・・・
わたしは善い羊飼いであり、自分の羊を知っている。わたしの羊もまたわたしを知っている。・・・ そして、わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ 10・7.14 -15)とイエスは、人々の語りました。

 この個所の「知る」は、単に知り合うという意味ではなく、両者のあいだの深い信頼と愛の絆があり、心の交流があることを意味しています。

 それは「狭い門 と 細い道」を通る者のすがたです。



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 また、イエスは「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」(マルコ 8・34 -35)と言っています。



 さらに、最後の晩餐の時には、「新しい掟」を与えました。

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 「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 13・34 )と。

 二度目には、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない」(同 15・12 -13)と加えました。

 さらに三度目には、「あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの命令である」(同 15・17)と「新しい掟」を命じました。



 晩餐の夜の「イエスは真の〈ぶどうの木〉」のたとえでは、

 「わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人にうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ」(ヨハネ 15・5)と、親しく語りました。


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 晩餐が終わってからイエスは、ゲッセマネの園でイエスを信じる者のために祈りました。それは父である神への次のような「祈り」でした。


 「どうか、皆を一つにしてください。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしの内にいるようにしてください。・・・ 


 わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。
             
                            (同 17・ 21 - 23)


 この祈りは、晩餐の早い段階で弟子たちに告げていたつぎの言葉を、父である神に願った祈りであったのです。その言葉は、つぎのような「ふしぎな言葉」でした。


 「わたしが父の内におり、あなた方がわたしの内におり、
  そして、
  わたしがあなた方の内にいることを、
  その日、あなた方は悟であろう」。
                             (ヨハネ 14・20)


その日とは、「神の国」に入るときのことです。 神の国は「神そのもの」のことです。そのことは、今挙げた「ゲッセマネの園の祈り」で明らかにされたばかりです。



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     「狭い門 と 細い道」の先には、神とともに在る「永遠の命」があるのです。


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by francesco1hen | 2018-07-30 11:25


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