家田足穂のエキサイト・ブログ
2019-03-19T14:06:22+09:00
francesco1hen
人間は、いいものに出合ったり、文化や宗教の深い意味を知ったり、よい事に出合ったりすると、それを共有したり、それを人に伝えて喜びあったりしたくなります。「宜有千萬」(よろしく千萬あるべし)、《 シャローム・平安!》を あなたに。
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[ 神からの恵みと真理(真実)] ー 神から出て神に帰る人間 ー (3)
http://france1pen.exblog.jp/29316013/
2019-03-18T11:32:00+09:00
2019-03-19T13:58:56+09:00
2019-03-18T11:32:30+09:00
francesco1hen
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エル・グレコ 《 復活のキリスト 》
ヨハネによる福音書の6章40節につぎの言葉があります。
「わたしの父(である神)のご意思とは、子(キリスト)を信じる人が皆、永遠の命を持ち、
わたしが、その人を終わりの日に復活させることである」。
愛によって人を創造された神は、世界の終末のキリストによる救いの完成で、「肉身の復活と永遠の生命」をもつ者として、人を完全なものにします。
完全な人間の最終的な姿は、死によって失った肉体を復活させ、霊肉の「永遠の命」を持った者です。しかも、それが、神と「完全に一つ」になった「愛の完成のうちに在る」ことでした。
そのすがたは、パウロのコリント人への手紙につぎのように書かれています。
「顔の覆いを取り除かれて、わたしたちは皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら、
主の霊によって栄光から栄光へと、主と同じ姿をもった者に変えられていくのです」(3 ,18)。
終わりの日には、人は「神と一つ」になって、神の栄光の中にあるのです。
ジョット 《 最後の審判 》 (パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂)
*
[ エピローグ ]
ポール・ゴーギャンの大作の画題は、
「われわれは、どこから来たのか、われわれは何者か、われわれは、どこへ行くのか」という問いかけでした。
わたしたちは「神から来た者」です。
わたしたちは「神と完全に一つになる者」です。
わたしたちは神に帰り、「愛の完成」のうちに入ります。
*
「わたしたちの源泉は、神であり、神は究極の目標です」
*
新約聖書の最後の「ヨハネの黙示録」には、世界の終末について、次のような記述があります。
「新しい天と地」と「新しいエルサレム」(黙示録 21, 1 - 2. 21, 10 - 11. 21, 22 - 23 .)
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と先の地とは消え去り、もはや海もない。
わたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、神のみもとから出て天から降るのを見た。
天使は、霊に感じていたわたしを、高い山に連れて行き、
聖なる都エルサレムが、神のみもとから出て天から下ってくるのを見せてくれた。
都は神の栄光に包まれていた。その輝きは、最も高価な宝石のようであり、透きとおった碧玉のようであった。
この都の中に神は見えなかった。万物の支配者である主と小羊(キリスト)とが、都の神殿だからである。
この都には、それを照らす太陽も月も必要がない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
エル・グレコ 《 キリスト 》
*
「わたしは道であり、真理であり、命である」
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[ 神からの恵みと真理(真実) ] ー 神から出て神に帰る人間 ー (2)
http://france1pen.exblog.jp/29315994/
2019-03-18T11:21:00+09:00
2019-03-19T14:06:22+09:00
2019-03-18T11:21:53+09:00
francesco1hen
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(2)キリストの救いの「わざ」(十字架の受難による救い)
《 神の受肉の神秘 》(受胎告知)
フラ・アンジェリコ 《 受胎告知 》
ロシア・イコンによる《 受胎告知 》
フラ・アンジェリコ 《 受胎告知 》(修室の壁画)
「受肉」=「託身」とは、神が人間を救うために「人となること」です。救い主(メシア=キリスト)が、この世にうまれて人となることを、「受肉」(incarnatioin)・「託身」といいます。
フラ・アンジェリコ 《 受胎告知 》
マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けて、メシア・イエスが生まれることになりました。
ジョット 《 主の降誕 》
イエスが生まれてからの時代からを新約聖書の時代といいます。この時代にイエスによって、神ヤーウェは、父と子と聖霊の交わりのうちにある「三位一体の神」といわれるよう啓示されました。
ヨハネによる福音書は記しています。「み言葉は人となり、我々のうちに住むようになった。我々はこの方の栄光を見た。父の元から来た独り子としての栄光である。独り子は恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ 1. 14)。
メシア・イエスの生涯は、神の子が人となって(受肉して)福音宣教をすること、十字架の犠牲による「救いのわざ」を果たすことでした。
イエスが福音宣教を はじめたガリラヤ湖
イエスの福音宣教の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。これは、神の国を求め、神の命にあずからせる「永遠の命に生きる恵み」があること(福音)を信じなさい、ということです。
「永遠の命」に生きることは、神の国で「神と一つ」になり、「人が神から来て、神に帰る」という「神からの恵みと真理」を受けることを意味しています。
神の似像として造られた人間は、神の英知とはからいの中で、幸福に過ごすことができました。しかし、罪の陰に陥って不幸なこともありました。この状態から救い出すのがメシア・イエスの使命でした。
人となった救い主(メシア)が十字架に付けられ、その「受難の愛」が、すべての人の救いの基となったのです。父である神が、その独り子を救い主としてこの世に送ったのは、神に似せて創造した人間を、慈しみと憐れみの愛によって愛されたからです。
エル・グレコ 《 十字架上のキリスト 》
それはキリストを信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得させるためでした。
永遠の命とは、人が「神と一つ」になり、神の命を生きることです。 これは神からの最も大きな「恵み」です。
神が人となることは「受肉の謙遜」といわれます。人を贖うために十字架で苦しみのうちに死んだキリストの愛を「受難の愛」といいます。この「受肉の謙遜」と「受難の愛」は、救いという「神の恵み」です。
ヴェラスケス 《 磔刑のキリスト 》
レオナルド・ダ・ヴィンチ 《 最後の晩餐 》
この十字架の救いが行われた前の日に、最後の晩餐がありました。この夜、イエスは様々なことを弟子たちに話しました。中でも重要なことは、つぎの言葉でした。
「わたしが 父のうちにおり、あなたがたが わたしのうちにおり、そして、わたしが あなた方のうちのいることを、
その日、あなた方は悟るであろう」(ヨハネ 14 , 20)。
その日とは、「神の国」に入った時のことです。神の国に入るということは、神と「完全に一つになる」ことです。
この他にもイエスは、「愛について」さまざまなことを語りました。
ジョット 《 最後の晩餐 》
そして語り終えた後、ゲッセマネの園に行き、自分のためと弟子たちのため、そしてキリストを信じる者ために祈りました。
彼等のためには、「わたしが 彼等のうちのおり、あなたが わたしのうちにおられるのは、彼等が完全に一つになるためです」(ヨハネ 17, 2)と祈りました。
このイエスの祈りは、前出の「神の国」に入った時に悟ることでした。キリストの十字架の「救いのわざ」は、神から出た者が神に帰ったとき、「神と完全に一つなる」ことができるようにすることでした。
これが救いの恵みであり、真理・真実です。
ルーベンス 《盗賊とともに磔の刑を受けたキリスト》
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《 パントクラトール(万物の支配者キリスト 》(アトス山修道院)
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[ 神からの恵みと真理(真実) ] ー 神から出て神に帰る人間 ー (1)
http://france1pen.exblog.jp/29315978/
2019-03-18T11:14:00+09:00
2019-03-18T14:57:19+09:00
2019-03-18T11:14:16+09:00
francesco1hen
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《 われわれは どこから来たのか、われわれは 何者か、われわれは どこへ行くのか 》
フランスの画家 ポール・ゴーギャン(1848-1903)の2度目のタヒチ島での滞在中に描いた畢生の大作の画題は「エピローグ」の言葉です。
この題名の「問いかけ」は、人間の存在にとっての根源的な問いかけです。この問いを避けて通れるものではありません。
(1)天地創造と人の創造
天地の創造について、詩編104 「創造主への賛美」では、自然の中に見られる 神の英知と栄光を讃えます。
そして、自然界の創造では、植物・太陽・月・生き物の創造が 神の恵み豊かなものであることを 美しいことばで歌っています。
最後には、すべてのものに対する神の 英知と はからいを述べて、神を賛美して結んでいます。
人の創造について、創世記は次のように述べています。「神はご自分にかたどって 人を創造された」(創 1. 27)。
また、「神である主は 土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで 人は生きるものとなった」(創 2. 7)。
神に似せて造られ、「命の息」を吹き入れられた人間は、「神の似像」(iago Dei)であり、神の本性にあずかりうる「不滅の霊」をもった存在になりました。与えられたこの「不滅の霊」は、神と命を共にできる「永遠の命」です。
このように素晴らしいものとして造られたアダムとエヴァは、蛇の誘惑を受け、禁断の食物を食べて失楽園という不幸な姿をすることになりました。
そのような不幸を背負った人間について、イザヤ預言者が、その預言書43章1-8 節で、エジプトから脱出したイスラエルの民が 前6世紀にバビロン捕囚から解放されることを記した言葉は、
「ヤコブよ、イスラエルよ、お前を創造さらた方、主は、今、こう仰せになる。・・・・ まことに、わたしはお前の神、主、お前の救い主、・・・。お前は わたしの目に貴く、重んじられる。わたしは愛するから、人をお前の代わりとし、諸国の民をお前の命の代わりとする。・・・・ わたしの息子を遠くから、娘を地の果てから連れてこい。これらの者はみな、わたしの名をもって呼ばれる者。わたしがわたしの栄光のために創造し、形づくり、作り上げたた者」。
という、驚くべき言葉でした。神に似せて創造された人間が、神に愛される貴重な存在であることを示し、その存在が神の栄光の輝きとなるというのです。
モーセが「十戒」を受けたシナイ山
もともと人類の代表として選ばれたイスラエルの民は、モーセがシナイ山で「十戒」を受てから、律法を守る民となりました。モーセ五書にでている律法は、人間が人間らしくなり、神に向かって聖くなるように与えれれた神ヤーウェの言葉です。
律法の核心となる言葉は、「わたしは聖なるものであるから、あなたたちも聖なるものとなりなさい」(レビ記 11, 45)です。
「律法」は、「神の似姿となる」ように人を招くヤーウェの言葉です。そして、神の愛に招かれている人の生き方を明示しています。
このように律法をまもりながら生きる人間は、詩編104 「創造主への賛美」の中で歌われたように、神の恵みの豊かさの中で生きていました。しかし、原罪の陰のある人間には、イザヤ書に書かれていたように「救い主」による神の救いが必要でした。
「イスラエルの民の前史」(パレスチナ定住・出エジプト・バビロン捕囚)
遊牧民であったヘブライ人(宗教的な呼び方では、イスラエルの民)は 前1500年ころパレスチナに定住し、その一部は飢饉の時には エジプトの移住しました。しかし、エジプトでは新王国の圧政に苦しみ、前12世紀に 指導者モーセに率いられてエジプトから脱出しました(出エジプト)。
前1000年頃ヘブライ王国を建設し、ダヴィデ王・ソロモン王にもとで繁栄しましたが、王の死後、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。その後イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ(前722)、ユダ王国も新バビロニアに滅ぼされて、前586年住民の一部の多くは、バビロンに連れ去られました(バビロン捕囚 586-538 B.C. )。
紀元前8世紀にあらわれた 預言者ホセア は、神の愛の預言者、また、前8世紀のヨハネ と言われています。
何故ならば、彼は神ヤーウェの愛について多くを書き記しているからです。彼の預言書の11章には つぎのように書かれています。
「イスラエルが幼いころ、私は彼を愛した。わたしは わたしの子たちをエジプトから呼び出した。
わたしはエフライム(イスラエルと同じ)に歩むことを教え、彼らをわたしの腕に抱えた。
しかし、彼らはわたしに癒されたことを、知らなかった。 (父母性的な愛)
わたしは愛の紐や愛の絆で 彼らを導いた。わたしは彼らに対しては、赤子を抱き上げ 頬ずりをする者ようであった。
わたしは身をかがめて 彼らに食べさせた。 (慈しみの愛 強い絆で結ばれた愛)
わたしの民は わたしを見捨てたために弱った。
エフライムよどうしてお前を見放すことができようか。 ・・・ わたしの心は思い乱れ、わたしはますます憐れを催す。
わたしはもはや怒りを燃やさない。わたしは 再びエフライムを滅ぼすことはない。
わたしは神であって、人ではないから。わたしはお前とともに 聖なる者で、破壊(滅ぼす)することを好まない」。
(憐れみの愛 捨てはおけない気持ち、共感同苦)
このように神の愛の預言者ホセアは、イスラエルの民の不幸な状態に対して、父母性的な愛と慈しみの愛と憐れみ深い神の愛を明らかにしたのです。
アッシリア帝国に支配されて、また、バビロン捕囚下の民族の苦難に苛まれる人々の中に、やがて救い主(メシア)への待望の機運が起ってきました。
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《 天地創造の神を讃える人間の賛美 》 ー 詩編104 「創造主への讃歌」 ー
http://france1pen.exblog.jp/29290210/
2019-03-04T11:22:00+09:00
2019-03-06T10:41:37+09:00
2019-03-04T11:22:33+09:00
francesco1hen
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《 天地創造と神のはからい そして 人が生きる喜びの讃歌 》
詩編104は、創造主への賛美をつぎのように歌っています。この詩編は、自然の中に見られる神の英知と栄光を讃えます。
心を尽くして神をたたえよう。わたしの神ヤーウェ、あなたはまことに偉大なかた。
誉と輝きを身に帯びて、衣のように光をまとわれる。
と歌い始め、つづいて、創世記1章の順をおって 神の創造のわざを 歌います。
あなたは地の基をすえ、地はとこしえに揺らぐことがない。
あなたが大水で衣のように地をおおわれると、水は山々をおおい隠した。
水は山から谷に下り、定められたところに流れた。
と美しいことばで神を讃えます。そして、
自然界の創造では、植物・太陽・月・生き物の創造が、神の恵み深いものであることを美しい詩ののことばで歌います。
あなたは谷間に泉をわき出させ、山かげを流れる沢とされる。
野のすべてのけものは その水を飲み、野に住む ろばも 渇きをいやす。
空の鳥が そのほとりに巣を作り、木々の梢からは さえずりが聞こえる。
あなたは高いところから山々を潤し、地は あなたのわざの実りで満たされる。
家畜のために若草がもえ、人は作物を育て、地から糧を得る。
人の心を喜ばせる ぶどう酒も、顔をつややかにする油も、人の命をささえるパンも。
神の植えられたレバノン杉、神の木々は潤いに満ちている。
小鳥は そこに巣を作り、こうのとりは糸杉に巣をかける。
小高い山は やぎの すみか、岩場は あなぐまの隠れる ねぐら。
あなたは月を造って四季を定め、太陽に沈む時を教えられる。
最後には、すべてのものに対する 神の英知とはからい を述べ、神を賛美して結びます。
神よ、あなたが造られたものは数えきれない。英知によって形造られたものは地に満ちている。
命のある すべてのものはあなたを待ち望み、あなたは必要な時に食物を与えられる。
あなたが与えられるものを 彼らは集め、恵まれるよいもので満たされる。
栄光は神にとこしえに。造られた すべてのものは 神の喜び。
わたしは生涯、神に向かって歌い、命のある限り神を讃えよう。
わたしの歌が 神の喜びとなるように。わたしは 神のうちにあって喜ぶ。
このように詩編104 は、すべてのものが神を讃える すばらしい詩情あふれる詩編です。
創造の偉大さ、大自然の中で生きるものの喜びによって、創造主である神を この上なく賛美しています。
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「キリストの洗礼」ー その深い意味 ー
http://france1pen.exblog.jp/29192419/
2019-01-17T10:56:00+09:00
2019-01-17T17:19:44+09:00
2019-01-17T10:56:47+09:00
francesco1hen
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ルカによる福音書は、ヨルダン川の辺りで、キリストが洗礼を受けたことについて、次のように記しています。
そのとき、民衆はメシアを待ち望んでいて、洗礼者ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、洗礼者ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声が、天から聞こえた。
ヴェロッキオ《キリストの洗礼》
洗礼者ヨハネが、「その方は、聖霊と火で・・・洗礼をお授けになる」と言った「洗礼」の元の意味は「沈める」「浸す」です。 イエスは 洗礼によって人を、聖霊(火はそのシンボル)という「神の命」の中に浸す、という意味です。
ジョット 《キリストの洗礼》
メシア・イエスは洗礼を受けたのち、ガリラヤで福音宣教の第一声をあげました。
一番早く書かれた マルコによる福音書 には、次のように書かれています。
イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
* 悔い改めて というのは、これまで世俗の富を求めてきた考え方を改めて、一番大切な「神の国」を求める生活をしなさい、ということです。
ジョット 《キリストの昇天》
イエスが昇天によってこの世を離れる時の弟子たちへの最後の言葉は、「あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。すなわち、父と子と聖霊のみ名に入る洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい」でした。
ここで「み名に入れる」の み名は、名前で呼ばれる「神そのもの」を指し、父である神 と 子であるキリスト と 聖霊の「三位一体の神の命」の中に入る(沈める、浸す)こと、神の本性に与るこを意味しています。
洗礼は、キリスト教の信仰に入る入信式です。その「洗礼の秘蹟」とは、特別な神の恵みをうける徴として水で洗う(浸す)という行為によって「神の命」に入ることです。
そのことは、神にかたどり、神に似せて創造され「命の息」を与えられた人間の本性が、「神と一つになる」ことのできる存在であることを示しています。
ロシア・イコンによる《キリストの洗礼》
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[ Merry Christmas !! ・ 救い主イエスの降誕 ](3)
http://france1pen.exblog.jp/29044925/
2018-12-25T18:18:00+09:00
2018-12-25T18:18:33+09:00
2018-12-25T18:18:33+09:00
francesco1hen
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(3)メシア・救い主イエス降誕の喜び!
ヘンデルのオラトリオ《 メサイア 》は、第1部後半において
第13曲 《 ピファ ー 牧歌的シンフォニー 》 で、イエスが生まれたベツレヘムの原野の情景を奏でます。
つづいて、第5楽曲群で「メシアの誕生・人となったメシアへの賛美」を歌います。
この歌詞はルカによる福音書2章8−14節の「羊飼いたちのイエス訪問」の言葉が、歌詞となっています。
第14曲a 「その地方で羊飼いが野宿をしながら」を。
第14曲b 「主の天使たちが近づき」を歌い、野宿する羊飼いたちに天使が接近した時の羊飼いたちの恐れを表現します。
第15曲「天使たちは言った」で天使はメシアの誕生を告げます。
第16曲「すると、この天使に天の大軍が加わり」で、おびただしい天使の群れの賛美が、そして
第17曲「いと高きところでは栄光、神にあれ!」が、天上の賛美と地上の賛美の響きを合唱します。
第6単独楽曲 「メシア降誕の喜び」は
第18曲「娘シオンよ、大いに踊れ」は、ソプラノのアリアで「喜びと平和の知らせ」を歌います。(ゼカリア書 9, 9-10)
エル・グレコ 《 救い主イエスの降誕 》
*
クリスマスは、「救い主キリストの誕生を祝うミサ」で、これまで 述べてきた「イザヤによるメシアの出現の預言」「メシア受肉の神秘」「救い主イエスの降誕」を想起し、人類の救い主が与えられたことを喜び感謝するときです。
クリスマスから2週間後の日曜日は「主の公現の主日」として【 東方の3博士の救い主イエスの訪問 】が祝われます。これは救い主の誕生が公にされたことを意味します。
ジョット 《 東方の三人の博士の来訪 》
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[ メシア受肉の神秘 ・ マリアへの受胎告知 ・ 救い主イエスの降誕 ](2)
http://france1pen.exblog.jp/29044680/
2018-12-25T16:13:00+09:00
2018-12-25T21:42:08+09:00
2018-12-25T16:13:02+09:00
francesco1hen
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フラ・アンジェリコ 《受胎告知》(マリアへのお告げ)
(2)メシア受肉の神秘
「受肉」という見慣れない言葉は、incarnation =「 託身」とも訳されています。
「メシアの受肉」は、父と子と聖霊の三位一体の神の子キリスト(メシア)が、処女マリアから「からだ(肉)」を受けて人となったことを表す言葉です。 《受胎告知》(マリアへのお告げ)の絵がそのことを物語っています。
「受肉」は、見えない神が「目に見える人の姿をもってこの世に現れるという神秘」を表す言葉です。
聖書のことばでは、「言(ことば)は人間となり、われわれの間に住むようになった」という表現になっています。
「マリアへのお告げ」については、ルカによる福音書1章26ー38節で、このことを記しています。
天使ガブリエルはマリアの所にきて、「恵まれた者、喜びなさい。神はあなたとともにおられます。・・・
マリア、恐れてはなりません。あなたは神から恵みをいただいたのです。あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。
その名をイエスと名付けなさい。彼は偉大なものとなり、いと高きおん者の子と呼ばれます」と告げました。
そこでマリアは天使に、「どうしてそのようなことがありましょうか、わたしは男の人を知りませんのに」と言った。
天使は「聖霊があなたに臨み、いと高きおん者の力があなたを覆うでしょう。それゆえお生まれになる子は聖なるもので、神 の子と呼ばれるでしょう」と。マリアは「お言葉どおりに、この身になりますように」と答えた。そして天使は彼女から離れ 去った。
フラ・アンジェリコ 《マリアへのお告げ》
* メシアの名「イエス」は、ヘブライ人の人名「ヨシュア」のギリシア語化したもので「ヤーウェは救う」という意味です。
イザヤ書7章14節の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言しまた。この名は「神はわれわれと共にいます」という意味です。
***
つまり、受肉して、人となった神子イエスは、人々を救うためにこの世において、「あなたがたと共におられる神」なのです。
ジョット 「馬小屋でのイエスの降誕」
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[ Merry Chrismas !・メシア受肉の神秘・救い主イエスの降誕 ](1)
http://france1pen.exblog.jp/29044405/
2018-12-25T13:35:00+09:00
2018-12-25T21:39:29+09:00
2018-12-25T13:35:09+09:00
francesco1hen
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フラ・アンジェリコ 《 受胎告知 》
(1)預言者イザヤの「メシア出現の預言」
イザヤ預言書は、救い主(メシア)の預言を書き記しています。マタイによる福音書はイザヤ書から5つの預言を引用しています。その最初の預言の言葉が、
《ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
その名は「驚くべき指導、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる》(イザヤ書 7, 5)
と来臨するメシアの姿の不思議を記しています。
この言葉は、ヘンデルの《メサイア》第1部を結ぶ第12曲 For unto us a child is born の歌詞として歌われます。(コーラス)
《メサイア》第1部 旧約のメシアに関する四つの預言の最後の曲が、第12曲「来臨するメシアの姿の不思議」を歌う合唱です。
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「無常という事」と「究極の幸福」
http://france1pen.exblog.jp/28652324/
2018-09-12T10:53:00+09:00
2018-09-12T17:52:31+09:00
2018-09-12T10:53:47+09:00
francesco1hen
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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
「無常」は昔のことだけではなく、現代においても世は「無常」です。
小林秀雄は「無常という事」(1942)というエッセイで、「現代人は、鎌倉時代のなま女房(若い女)ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と警告しています。
「常なるもの」は、どこにあるのでしょうか。
聖書につぎの言葉があります。
「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は過ぎ去ることがない」(マタイ 13・31)。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通ってでなければ、だれも父である神のもとに行くことはできない」(ヨハネ 14・6)。
三位一体の神こそ、「常なるもの」・真理であり、永遠の命です。
父と子と聖霊の三位一体の神が、「常なるもの」です。
人間に必要な「平安と平和」ー 幸福
釈迦が悟りを開き、その境地で死の世界に入ったようすを表わす絵を「仏涅槃図」といいます。
高野山金剛峰寺の「仏涅槃図」
釈迦の入滅(死)を「涅槃・寂静」(漢訳)ともいいます。サンスクリット語で〈ニルヴァーナ〉・〈シャンティ〉。その現代語訳は「絶対の安らぎ」と「平和」です。
悟りの境地に入った釈迦の死は、絶対の安らぎと平和でした。
人間にとって「平和・平安」は、常に必要なものです。
最後の晩餐の夜イエスは、「わたしはあなた方に平安を残す。わたしの平安をあなた方に与える」と告げました。ここで「平安」は、真の幸福のことです。
まことの幸福とは、完全に「神と一つになる」ことです。
「極楽」と「天国」 ー 究極の幸福 ー
現代の日本では「極楽」は、死語のようです。一般に抵抗なく使われているのは「天国」です。
「極楽」(スクーヴァティ)の意味は「幸いのあるところ」です。
「天国」は、「天の国」または「神の国」ともいいます。究極の幸福のあるところです。その「神の国」とは、来世で人が完全に「神と一つになる」ことです。それが「究極の幸福」です。
「神の栄光の中にある」ということであるとも言えます。
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[ 心に響く ことば ]
http://france1pen.exblog.jp/28638389/
2018-09-07T14:17:00+09:00
2018-09-07T14:21:24+09:00
2018-09-07T14:17:42+09:00
francesco1hen
未分類
「神は自分にかたどって人を創造された。男と女とに創造された」(創世記 1・27)。
「神である主は土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きるものとなった」(創世記 2・7)。
神に似せて造られ「命の息」を吹き入れられた人間は、神の似像(imago Dei)であり、神の本性に与りうる「霊」をもつ存在となりました。
*
〈 人の 永遠への想い 〉
コヘレトは書いています。
「神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。また、人の心に永遠の思いを授けられた」(コヘレトの言葉 3・11)と。
また、知恵の書は、
「命を愛される主よ、あなたはすべてのものをいとおしまれる。すべてはあなたのもの。実に、あなたの不滅の霊がすべてのものに及んでいる」(知恵の書 11・26)と記しています。
人に与えられたこの「不滅の霊」(魂)は、神と命を共にできる「永遠の命」です。
*
〈 人は 神の目に貴く、重んじられる 〉
神に造られた人間について、預言者イザヤは素晴らしい言葉をのこしています。
「人は、わたしの目に貴く、重んじられる」(イザヤ書 43・1)。
「これらの者はみな、わたしの名をもって呼ばれる者。わたしがわたしの栄光のために創造し、形づくり、造りあげた者」(イザヤ書 43・7)。
これらの言葉は、神によって創造された人間が、神に愛される貴重な存在であることを示し、その存在が、神の栄光の輝きとなるということです。
だから「人間の尊厳」(Hominis Dignitati)が叫ばれるのです。
*
〈 貴重な存在である人間 〉
神に似せて創造され、「命の息」すなわち「不滅の霊」という命を与えられた人間は、神の愛の対象として、「神の命」の中に招かれています。
知恵の書は、人が貴重な存在であることを次のように書いています。
「あなたは存在するすべてのものを愛し、造られたものをすべて愛し、造られたものを何一つ忌み嫌われない。もし憎いものがあったとすれば、あなたはそれを形づくられなかったであろう。あなたが望まれなければ、どうして存在し続けることができよう」(知恵の書 11・24ー25)。
パントクラトール(天地万物の支配者)
*
この知恵の書が書いているように、
「神の目に貴く、重んじられる」人間は、神から愛される存在です。
*
ラテン語のことば〈 hic et nunc 〉訳せば〈 今ここに 〉
今ここに「生きている」ことは 素晴らしい。そして、死後も「不滅の霊」(魂)が神とともに「永遠の命」を生きることは、〈 最高の善いこと 〉です。
ー 何かを感じているふたりの人 ー
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《 手が生み出す 木彫の世界 》 2
http://france1pen.exblog.jp/28593978/
2018-08-18T21:51:00+09:00
2018-08-18T21:56:45+09:00
2018-08-18T21:51:18+09:00
francesco1hen
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〈ひまわり〉
彫刻ギャラリーGakou の展示風景 〈ひまわり〉もそうですが、桑山賀行は、過ぎゆくものの美しさのうちに「無常という事」を追求している彫刻家であるように思われます。
「目で見る 桑山賀行展」
桑山賀行氏は、1948年 愛知県常滑市に生まれる。日展の評議員、審査員を務め、2007年 日展・内閣総理大臣賞受賞。2011年 清里の森 彫刻ギャラリーGakou 開館。
〈帆〉 廃れた案山子に「無常である事」を感じさせます。
〈風景 ー 海 ー〉 精密に船舶工学で造られた船も廃れた姿で残っている。
〈過去の街〉
〈道〉 道は、過去から未来へと続いていることを暗示しています。
〈演者 III〉部分
〈演者 VII〉「神の手によって動く人形」
〈蓮華〉
〈蓮華一笛〉
〈雲上の月見〉
〈雛祭り〉
*
〈窓〉 部分
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桑山賀行氏は、希有の木彫家として多彩な作品で人を驚嘆させている彫刻家です。
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《 手が生み出す 木彫の世界 》 清里の森 彫刻ギャラリーGakou にて
http://france1pen.exblog.jp/28593517/
2018-08-18T17:02:00+09:00
2018-08-18T17:02:12+09:00
2018-08-18T17:02:12+09:00
francesco1hen
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〈鳥のように〉海でも空でも何処でも駆け回ることができるような大きな翼、大きな帆、それに魚の尾をもつ船をイメージして造りました。(作者のことば)
[ 手で見る 小原二三夫 x 目で見る 桑山賀行 展 ]
小原二三夫さんは、1952年青森県十和田市で、全盲の視覚障害者として生まれました。以来八戸盲学校・高等部・関西学院大学社会部を経て、現在は日本ライトハウス情報文化センターに勤務しておられます。
2013年「桑山賀行と土曜会 第22回手で触れて見る彫刻展」会場で、桑山賀行氏から木彫制作を勧められ、2014年の「桑山賀行と土曜会 第24回てで触れ見てみる彫刻展」に木彫数点を出品して、以後毎年出品されています。
この度は、「手で見る 小原二三夫 x 目で見る 桑山賀行 展」を清里の森 彫刻ギャラリーGakou で 2018年5月2日(水)から6日(日)まで開催。6月から10月までは第1週の土・日に開館されています。
〈落ちる〉
「作者のことば」
歩道をブロック塀沿いに歩いていて、突然左脚が落ち、右膝だけでほとんど全体重を支えている情景を作品にしてみました。右膝の激痛のためショック状態になり、救急車が呼ばれました。前にあるのはストレッチャーです。
〈笛の音〉
「笛の音」の笛を吹いている人は、レリーフなので充分に作り込めないと思って、立体で作ってみました。
〈なかよし〉
2人の子どもが、なかよくシーソーのようなものに乗って、手をつないで揺られているところをイメージして彫ってみました。シーソーのようなもののどちらか一方の端を押さえると揺れます。こんな風景、見られるのでしょうか。
〈 考える II 〉
船の形に似せた台に座し、頬杖をついて考えている姿を、磨崖仏のように彫り込んでみました。彫り込むのはなかなか難しかったのですが、磨崖仏には憧れています。
〈囚われの身〉
前に向かって進もうとする人が、後ろから多くの目で監視され、手で押さえられ、ぎゅっとつながれている、そんな姿をイメージして作ってみました。このようなイメージは、若い頃から持っていました。
〈どうぞ〉
この子のひろげた手に、なんでも「どうぞ」と言ってあげたくなるような、そんなイメージで作ってみました。大きな作品を作った時に出た端材で作りました。
〈風:なびく・ゆらぐ〉
セット作品。風になびいたり揺らいだりする姿をイメージして彫ってみました。触るとゆらゆら揺れますし、2つを一緒に回してみても面白いです。
このセット作品は、一つの円柱を螺旋状に2つに切り分けて作ったものです。出き上がるまでは「難産」でした。
〈かにさん散歩〉〈合掌〉 〈花風車〉
〈合掌〉地に座し、力強く、思いを込めて祈っている姿です。全体の形は、八戸の是川縄文館にある国宝の合掌土偶のレプリカに触ったときの印象を参考にしています。
頭の後ろにあるのは、合掌している小さな手3つです。
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手で見る 小原二三夫さんの木彫作品は以上のようです。生き方の色々な経験から生まれた作品の数々でした。
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サンメドウズ清里ハイランドパークの《 清里テラス 》
http://france1pen.exblog.jp/28553129/
2018-08-12T17:39:00+09:00
2018-08-16T09:53:18+09:00
2018-08-12T17:39:22+09:00
francesco1hen
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天空テラスの賑わいは、このようです。
天空テラスは、標高 1,900m です。眺望は格別です。
眺望に感激している二人
テラスには30分計の砂時計があって、その間自由に使えます。
思い思いの人々の姿
石のテラスもなかなかです。ただ人はよってきませんね。
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「奥の細道」「露地口と露地」「狭い門と細い道」?
http://france1pen.exblog.jp/28524386/
2018-07-30T11:25:00+09:00
2018-07-30T16:08:45+09:00
2018-07-30T11:25:52+09:00
francesco1hen
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「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」の序文で始る『奥の細道』の旅は、西行500回忌1689年(元禄2)松尾芭蕉と門人河合曾良が江戸を発って、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江までの600里(2400Km)の旅でした。
「みちのく」という辺境の地への旅で、芭蕉は多くの自然の美しさに出合い俳諧の真髄を求めました。
この旅で芭蕉は、「不易流行」ということを深く知るようになったのです。
「不易」とは、宇宙・大自然は変化「流行」しながらも、それを超越して不変である、ということです。
「流行」は、宇宙・大自然が、その時々に応じて変化していく有様をいいます。
しかし、「不易」と「流行」は、対立するものではなく、大自然はたえず変化
(流行)しながらも不変(不易)であると、考える自然観であるといえます。
俳諧では、真に「流行」を得れば自ずから「不易」を生じ、また、真に「不易」に徹すれば、そのまま
「流行」を生ずる、といわれています。
芭蕉は、「奥の細道」の旅で「風雅の誠」を求めています。
「風雅の誠」とは自我意識を捨て大自然と一体になった「永遠不変の境地」のことをいいます。
それは「不易流行」の根底にあって、それを生み出すものです。
そして、「風雅の誠」は、蕉風俳諧の根本理念になっています。
*
ところで平家物語では、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と「無常」と「常なるもの」は別のものです。しかし、芭蕉では「諸行無常」は「流行」です。無常でない「常なるもの」は「不易」です。
俳諧においては「不易」と「流行」の根本は一つであり、芭蕉はそれを「風雅の誠」と呼んでいます。
古来わが国では、「大自然 = 神々」という考え方があります。これが芭蕉においては、大自然と一体になった「永遠不変の境地」(風雅の誠)となっています。これは俳諧に生きる者が求める「究極の境地」です。
それはまた「大自然 = 神々と一体になった」という、心の深奥の願いであったといえるではないでしょう か。
*
〔2〕露地口 と 露地から 茶室の「和・敬・清・寂」
「露地」という細い道を通って、「にじり口」という狭い戸口から入る「茶室」とは、どのような処でしょうか。
千利休の茶室で現存する唯一の妙喜庵待庵は、二畳敷という最小の茶室です。この小さな茶室空間は、数寄が凝らされて複雑になっていますが、この数寄屋風の小間は「宇宙自然の縮小としての茶室」です。たとえ小さな草庵であっても、そこでは宇宙自然の広がりが象徴されています。
*
茶道の祖村田珠光が、足利義政に茶道の精神をたずねられ「和・敬・清・寂」と答えた、四文字の意味を体現し、実践ることが茶道の本分とされています。
千家では、利休が定めたこの四文字を「四規」として重要視しています。
「和」の字は、禾と口で出来ています。その「和」は、戦争をやめ平和の状態にする講和の意味です。禾(食 物)を口にすると、人は和やかになります。茶室の主人と客が互いに心を和らげ、謹み敬い茶亊を行ないま す。
「敬」が重んじられるのは、互いを敬うことがあってこそ、「賓主互感」のよい茶会が成り立つからです。
「清」も大切で、茶室や道具は清潔であることが求められます。それだけではなく、茶席に招かれる人は俗事 にまみれた人でなく、清い心の人でなければなりません。
「寂」は、茶室が脱俗した静寂な場所を理想としていることを示しています。
しかも「和敬清寂」は、茶亊と人のありかた全体が、これに貫かれていなければならない大切なことです。
さらに言葉を重ねるならば、必要とされるものがすべて清さの中で整い、和やかで謙虚な気持ちで静寂のうち に、大切な時を楽しむのが、「和・敬・清・寂」の茶室空間です。
それは、つぎの言葉でも表わされています。
「賓主互感」親密な交わり。 「一期一会」大切な出合い。
「一座建立」同席する人々の一体感。 「余情残心」いつまでも消滅しない充実感。
*
「和敬清寂」の「和」と「寂」に関連して考えてみます。
釈迦の悟りの境地を「涅槃寂静」といいます。「涅槃」のサンスクリット語〈ニルヴァーナ〉の現代語訳は、「絶対の安らぎ」です。「寂静」〈シャンディー〉の現代語訳は「平和」です。
茶道の「和」と「寂」は、「涅槃寂静」=「絶対の安らぎ」と「平和」に通じるものがあります。
茶道の究極の境地は、善いもので満たされた人間の「平和・平穏」の世界ではないでしょうか。それは茶道という「場」での、精神的に深い 心の在り方 です。
*
〔3〕永遠の命を求める「狭い門 と 細い道」 ー 道・真理・命 ー
「わたし(イエス)は門である」。そして「わたしは善い羊飼いである。・・・
わたしは善い羊飼いであり、自分の羊を知っている。わたしの羊もまたわたしを知っている。・・・ そして、わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ 10・7.14 -15)とイエスは、人々の語りました。
この個所の「知る」は、単に知り合うという意味ではなく、両者のあいだの深い信頼と愛の絆があり、心の交流があることを意味しています。
それは「狭い門 と 細い道」を通る者のすがたです。
また、イエスは「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」(マルコ 8・34 -35)と言っています。
さらに、最後の晩餐の時には、「新しい掟」を与えました。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 13・34 )と。
二度目には、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である。愛する者のために命を捨てること、これ以上の愛はない」(同 15・12 -13)と加えました。
さらに三度目には、「あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの命令である」(同 15・17)と「新しい掟」を命じました。
晩餐の夜の「イエスは真の〈ぶどうの木〉」のたとえでは、
「わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人にうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ」(ヨハネ 15・5)と、親しく語りました。
晩餐が終わってからイエスは、ゲッセマネの園でイエスを信じる者のために祈りました。それは父である神への次のような「祈り」でした。
「どうか、皆を一つにしてください。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしの内にいるようにしてください。・・・
わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。
(同 17・ 21 - 23)
この祈りは、晩餐の早い段階で弟子たちに告げていたつぎの言葉を、父である神に願った祈りであったのです。その言葉は、つぎのような「ふしぎな言葉」でした。
「わたしが父の内におり、あなた方がわたしの内におり、
そして、
わたしがあなた方の内にいることを、
その日、あなた方は悟であろう」。
(ヨハネ 14・20)
その日とは、「神の国」に入るときのことです。 神の国は「神そのもの」のことです。そのことは、今挙げた「ゲッセマネの園の祈り」で明らかにされたばかりです。
*
「狭い門 と 細い道」の先には、神とともに在る「永遠の命」があるのです。
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「茶室」にいたる 露地口・露地・にじり口
http://france1pen.exblog.jp/28488527/
2018-07-23T11:44:00+09:00
2018-07-28T16:30:01+09:00
2018-07-23T11:44:41+09:00
francesco1hen
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〔 露地口から茶室まで 〕
茶室にいたるまでの「場」の設定には重要な意味があります。いうまでもなく茶室のもつ意味は最も大きいのですが、茶室にいたるまでには、いくつかの重要な意味をもった「場」の設定が工夫されています。
茶室のある庭を「露地」といいます。非日常的空間である茶室とそれをめぐる庭に入るためには、まず「露地口」を通らなければなりません。
露地口は、日常的な空間と非日常的空間を区別するためのごく狭い入口です。
露地は「中潜」(なかくぐり)によって外露地と内露地に区別されています。
「外露地」 その奥は「中潜」
この二枚は「中潜」の例です。
露地口と中潜という二重の結界(意識を変える場)がおかれることにより、露地も外露地と内露地に分れるようになりました。この外露地と内露地を区別するために作られたのが「中潜」です。
「中潜」の中門を通るといよいよ茶室に近づきます。
「ツクバイ」
茶室の手前には、聖なる場所に入る身の清めと心構えを整えるために「ツクバイ」(蹲踞 = つくばうは、謙虚な姿勢、慎み深い清らかな心)が作られており、客はこのツクバイで水をくんで口と手を清めます。
結界を越えて、その度に緊張の度合いを高めながら、客は数寄の聖なる茶室への最後の戸口である「にじり口」と呼ばれる60センチ四方の最も小さな狭い入口に至ります。
「にじり口」の一例
客は一礼して身をかがめながら「にじり口」から数寄を凝らした茶室に入ります。「にじり口」から入ると狭小な茶室空間は大きく感じられ、無限の可能性をもつようになったと言われています。
「妙喜庵」と呼ばれている茶室
*
〔 命にいたる 狭い門 と 細い道 〕
聖書に「二つの門」や「狭い戸口」という個所があります。とくに有名なのは「狭い門」の所です。これは「露地口」と「にじり口」を思い出させます。
狭い門から入りなさい。滅びへの道は広く、そこに通じる道は広々としていて、そこから入る者は多い。しかし。いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つけるものは少ない。
(マタイ 12・13 -14 )
「狭い門」と「露地口」、「狭い戸口」と「にじり口」は形の上でも、意味的にも似ています。「露地口」は普通の広い門ではなく、非日常的な「和敬清寂」の茶道の世界に入る狭い入口です。「にじり口」も最も大切な茶道の場「茶室」に入る戸口です。
「狭い門」は、実はイエスのことです。あるとき、イエスは「わたしは羊の通る門である。わたしを通って入るなら、その人は救われる」(ヨハネ10・9 )と言いました。
イエスの福音の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて(考え方を変えて)、福音を信じなさい」でした。福音を信じた者の究極的結果は、「神の国」ー 神とともに在る「永遠の命」です。
「いのちへの門は狭く、そこに通じる道は細い」のです。
「茶室」にいたる「露地口・露地・にじり口」と同じように。
「中潜」にも意味があります。
イエスが旅にでようとしたとき、金持の青年が走りよって尋ねました。
「先生、永遠のいのちを受け継ぐためには何をすればよいのでしょうか」。
イエスは答えました。「律法を守りなさい」と。「これらのことは皆、小さい時から守っています」と青年。
イエスはこの真面目な青年を、じっと見つめて、愛情を込めて、言いました。
「あなたに欠けているものが一つある。行って、持っているものをことごとく売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしについて来なさい」。
青年はこの言葉を聞いて、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きました。多くの財産を持っていたからです。
「露地口・露地・中潜」は、ある意味で関門です。世間的な執着を捨て、ひたすら茶道の「和敬清寂」の世界を求めることが必要とされるのです。
イエスの門は、世間的な富よりも、より大切なことのみを求めているのです。
これに関してイエスは、「富を持つものが 神の国に入るのは、なんと難しいことであろう」。
さらに加えて「金持が 神の国に入るよりは、らくだ が針の穴を通るほうがもっとやさしい」と。
(マルコ 10・23 -27)
「にじり口」は、敵意や虚飾・雑念を捨て、純粋な「和敬清寂」茶道の世界に入る戸口です。 最も厳しい「狭い門」です。
これと同じように、福音(イエスの門)では、イエスに従うことが求められています。
イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び集めて、「わたしに従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架を担なって、わたしに従いなさい。
自分の命を救おうと望む者はそれを失ない、わたしのため、また福音のために、命を失うしなう者は、それを救う。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益があるだろうか」と語りました。
(マルコ 8・34 -36)
「神の国・永遠の命」への 門は狭く、そこに 通じる道 は細いのです。
「広い門・広い道」とは、現世的な 富の豊かさや、自己中心的な 快適なこと のみを求めることが、
「滅びへの道」になるのです。
*
ヨハネによる福音書に、有名な言葉があります。
〔 道・真理・命 〕
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通ってでなければ、
だれも父(である神)のもとに行くことはできない」。
(ヨハネ 14・6)
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